聖ブザービート〈10月21日(木)〉
文字数 2,866文字
一
時間が分からない。ここに来て初めて感じる不便。この部屋には時計がなかった。管理されるのが嫌なのだという。必要な時間帯にはテレビの画面上に表示が出るから、それで事足りているらしい。
僕はもう一度手元の写真に目を落とした。確かに。よく見れば沙羅ではない。
「彼女・・・・・・ですか?」
「ん。生徒会だったし、ひじきくんが入る二年前まであそこにもいたよ」
「ひじきじゃないです聖です。二年前までって・・・・・・生徒会を辞めたってことですか?」
「いや、やめたのは学校自体」
退学だよ退学、と言うと、寝返りを打って背を向ける。それと同時に部屋の電気を消した。
「え、ちょっと鮫島先輩・・・・・・」
「もう寝るよ。ホラ、ちゃんと場所空けたでしょ」
どうやら同じベッドで寝るらしい。確かに僕のベッドの倍以上の大きさはあるため、睡眠をとるだけなら全く支障はないのだが、
「絵面がちょっと・・・・・・」
「何か言った?」
「何でもないです」
月明かり。ぼんやりと輪郭が見えてくる。広い天井に埋め込まれた電灯。
「・・・・・・やめたってどういうことですか?」
「しつこいなぁ。ショジジョウで自主退学したの」
「それって・・・・・・鮫島先輩と何か関係があることなんですか?」
「・・・・・・どゆこと」
低い声。高野さんを思い出す。憧れ、と称した、悲しい目。
「鮫島先輩は高校で生徒会は続けなかったんですか?」
「いや、いたよ。半年位だけど」
「どうして半年でやめたんですか?」
「面白くなくなったから」
「部活は?」
「同じ」
卒業アルバムの写真を思い出す。まっすぐこちらを見つめる目。まとう雰囲気は後ろ暗いことなど一切寄せ付けない。
「・・・・・・元々真面目な方だったんですよね? 同じタイミングで全部面白くないと思うようになったんですか?」
鼻で笑う音がした。
「嫌な聞き方するねー」
月明かり。目が慣れると、天井の色が浮かび上がるようになる。細い肩先。輪郭に沿って落ちる影。見慣れないものに囲まれて、現実と非現実の境があいまいになる。
「ま、間違ってないケド」
二
偏った笑顔。伸びた前髪の間からのぞくキツネ目。その大きな手。指先から立ち上るタバコの煙。丸い背中。
「どうして」
まっすぐこちらを見つめる目。伸びた背筋。「会長」の文字。何より
写真に写ったあどけない笑顔。両の口角が上がると、左の頬にだけえくぼが現れた。
「一体、何があったんですか」
空気が、詰まった気がした。よどんで一カ所だけ濃くなる。
「『何』・・・・・・か」
静かな声だった。聞き落とすまいとしてそっちを向くと、かえって片耳が塞がってしまった。だからきちんと聞き取れたか分からない。
「モノじゃねぇよ」
「え?」
「どうでもいいじゃん」
「良くないですよ。少なくとも真面目な生徒二人の行く先が変わってる。それ程の」
「やめろ」
声。実体を伴って腹にぶつかる。
静かだった空間がさらに音を失う。張り詰めた空気。何とか音を絞り出す。
「今でも・・・・・・好きなんですか? その人のこと」
返事はなかった。
一瞬聞こえなかったのかと思い、もう一度尋ねようとした時やっと声が返ってきた。
「・・・・・・俺にはもう誰かを好きになる資格なんてねぇんだよ」
「え、それはどういう」
「でも」
口をつぐむ。浮かび上がる輪郭。とがった耳。
「好きだった。本当に」
だからもう言わないっ。と一方的に会話を切断した。その背中。僕はいくつかのヒントとともに取り残される。見たことのないものに囲まれて、やはりここが現実なのかおぼつかない。そうっとその一つに手を伸ばす。
模範生だった中学時代。高校入学後半年でやめてしまった生徒会と部活動。退学した元彼女。その時ふと写真に写ったその人を思い出す。臙脂のリボン。卒アルの中に入っていたから一瞬混同したが、あれは高校の制服だ。だからおそらくその半年の内に撮られたもの。
〈モノじゃねぇよ〉〈どうでもいいじゃん〉〈やめろ〉〈俺にはもう誰かを好きになる資格なんてねぇんだよ〉〈でも〉〈好きだった。本当に〉
「・・・・・・だからもう言わない・・・・・・」
細い肩が上下した。高い天井。耳鳴りのするような静寂。世界にたった一人取り残されたような孤独感は久しぶりだった。この半年で随分遠くまで来たものだ。
〈俺にはもう〉
誰かを好きになる資格って何だ。僕はいつの間にか明るい日の下に戻って来ていたけど、あるいはこの人が何らかの理由でまだ僕と同じような闇の中にいるとしたら。
きつく、目をつむる。
何ということだ。
〈任せりゃいいじゃねぇか。部長なんだろ?〉
知ってる。僕に出来ない事をこの人は簡単にやってのける。そんな人が思い通り動けなくてもがいている。
それは反語。誰かを好きになる資格なんてねぇんだよ。本当は好きな人がいるのに。
気づかないフリをするには、僕はこの人に近づきすぎた。
花火の夜、彼女をかばって立ちはだかった背中。
〈変な言いがかりまでつけられてたらどう責任とるつもりだったんだよ〉
〈俺も認知しない。だから支払い義務は発生しない〉
鮫島先輩の好きな人。それは
〈水島〉
ちょっと待ってくれよ。
顔を覆う。全てが、まるでこの瞬間のために用意された出来事に思えてくる。
僕に出来ない事を簡単にやってのける。この人ならきっと上手に鈴汝さんを護る。
〈逆だよ。俺宛じゃないから食えた。アナタのために、とか絶対無理。すごいプレッシャー感じちゃうもん〉
それが「自身に人を好きになる資格がないと思っている」がための言い草だったとしたら
〈ただ、今のは弟子に対して失礼だよ〉
〈うまかったよ。少なくとも人一人笑わせられる位にはね〉
何の問題もないじゃないか。きっと大事にしてくれる。後は僕の気持ちだけだ。
深呼吸。暗闇の中でこそ冴え渡る目。視界は良好。
「目的は・・・・・・彼女を護ること」
例え悪魔の心を持っていようと、他の誰かを好きになろうと。
ゆっくりとまばたきをする。やっぱりここが現実なのか非現実なのかよく分からない。分かりたくなんかない。
冴える芯。替えるのは主語。滅私。その存在自体を消す。自分の意思を、自分ごと消す。
大きく息を吸って吐く。何だ、簡単じゃないか。何の問題もない。
〈水島〉
見上げる目。向けられる感情のほとんどがプラスのものではないにしても、確かに関わってきた時間。そのために僕は自分だけの世界から抜け出すことが出来た。きっとこれから先もまた別の人と関係を築くことが出来るだろう。スズナにこだわらない以上、その相手は必ずしも鈴汝さんでなければならない訳ではない。
〈仕方のないことだったの〉
そう。だから
大きく息を吸って吐く。感情。ギリギリと痛む胸は今だけ。キツく、目をつむる。
この恋を終わろう。
安らかな寝息。チチチ、と鳥の鳴く声がする。心の向く先が見えれば、代わりに引きずり込むような眠気が襲って来た。束の間のまどろみをむさぼる。そうして
落ちる寸前、今が一番幸せなのかもしれないと思った。