飛鳥8〈9月5日(日)〉
文字数 4,333文字
一
「ねーえ、アタシのこと好きー?」
ふわり、とそのおびえた顔を思い浮かべる。
「・・・・・・あぁ」
「本当にー? どれくらい好きー?」
ふわり、とその驚いた顔を思い浮かべる。
「・・・・・・食っちまって、腹ん中で飼いたいくらい」
「『食った』後でよく言うわ。ねぇ、髪切ったの気づいた? かわいい?」
ふわり、とその笑顔を思い浮かべる。
「・・・・・・あぁ」
ぐぅ、と喉が鳴った。こんな鋭い痛みを俺は知らない。押し込んでも押し込んでも、ふとした瞬間申し訳なさそうにひょっこり顔を出す。
「ちゃんと見てないー。こらー」
隣で上半身だけ起こしたままリカがふくれる。黒い下着。初めて見るものだ。もしこれがアイツだったら、やっぱり泣きそうになりながら怒るんだろうか。
その頭を引き寄せて目をつぶる。
もしこれがアイツなら。
頬に髪がかすめた。烏の濡れ羽色。すける深緑。身体の奥がずくんとうずいた。奥の奥から突き上げてくる。あ、やべぇ
おおい被さる身体をかき抱く。押しつける。身体が勝手に反応する。ごり、と動くのが分かった。なめらかな肌は、力を入れた分だけ形を変える。性別の違う俺とは違う、吸い付くような。
「ん・・・・・・」
そう、全く違う
「・・・・・・悪い、もう行く」
一瞬の夢だった。移った口紅。壊れるのはたやすい。もやが晴れるように輪郭を取り戻す。
「ウソでしょー」
ハンパな事しないでよーとわめく声を聞きながらズボンをはく。携帯とサイフをとると、玄関に向かった。
「ホントに帰っちゃうのー?」
「用があるんだ」
頭を使わなくても会話が成り立つ。そう言う意味ではこの身体は上手くできているのかもしれない。
「次いつ会えるー?」
「また連絡する」
ドアを開ける。鋭い日差しが刺すように照らしている。
二
南を向いて歩いて来たため、顔が熱い。高架線をくぐった段階でコンビニに寄ってアイスでも買えばよかったのだ。じんわりと汗をかいた状態で家に着くと、玄関を開ける音を聞きつけた礼奈が弾丸のごとく吹っ飛んできた。
「こら、ちょっと待ちなさい。フロ入ってくるから」
腹にタックルを食らってよろめきながら、瞬時に両手のニオイを嗅ぐ。よし。まだマシだ。ラグビー部真っ青のしつこさで食らいつく礼奈を引きずって水場まで行くと、楓を呼ぶ。
「頼む、コイツを」
「うるさいなぁ。ほっとけばいいじゃん」
礼奈は必死だ。必死で振り切られまいとしがみついている。短くて細い両手足のどこにそんな力があるのか分からない。
「できるならとっくにそうしてる」
主に精神的に。
楓はため息一つ、礼奈の腕をとった。
「飛鳥汗かいてるからばっちいぞ。くさいのうつるぞ」
いや、間違ってはないが容赦ないなお前。
「くさくなんかないよ。あせのにおいだもん」
天使か。
「ばっちい子は遊んでもらえなくなっちゃうんだぞ。それでもいいのか?」
悪魔か。
「それは、やだぁ」
しぶしぶ離れると、任務が完了した楓は一瞥を残して礼奈とともに去って行った。奴は絶対に敵に回してはいけない。
日が傾く。縁側一面に橙の光がたっぷり降り注いでいた。その影を伸ばした小さな背中に声をかける。
「・・・・・・何見てんだ?」
「シッ! あのセミだよ」
言い方一つで俺の動きを止めると、再び手元の図鑑と見比べる。ここからじゃどの木も影になっていてろくに見えやしない。
「ほら、ここから正面の木の左下の・・・・・・あーもうちょい上。その辺にいるでしょ?」
俺の見ている角度を調節してくれるが、悪い。全く分からない。
「つかまえてくりゃいいじゃねぇか」
「いや、セミは長く生きないから。あいつの自由の邪魔はしない」
そう言って再び図鑑と見比べる。これが今時の小学生か。立場ないんだけど。
「あーあすかにいちゃん、あたまふいてあげるー」
肩にタオルをかけたままだったため、それを渡すとその場に座る。楓がシッ! と人差し指を口元に当てたが、目を丸くしただけで礼奈は止まらない。この段階で奴にとって俺より礼奈の方が上だ。
わしゃわしゃわしゃわしゃ。
セミの声と俺の頭を拭く音。
「もう乾いたー?」
「うん? ・・・・・・まだー」
楓の鋭い眼光を目の端にとらえつつも、要望はちゃっかり伝えておく。そのまっすぐな黒髪。地黒ではあったがさらに焼けた肌。視線が全くぶれない。きっと学校でもこんなカンジなのだろう。横目でその図鑑を盗み見る。なるほど。ページいっぱいのセミ。画質がよく、下手すると本物と間違えてしまいそうだ。
「面白いのか? それ」
「うん」
何当たり前のこと聞いてんの? ってカンジだ。そもそも「あいつ」に夢中なのだ。邪魔しないようにしよう。
三
「お前らメシは?」
「今さら? 食べたよ」
なるほど。流し台に皿が二枚伏せてある。冷蔵庫を開けると、同じ皿に冷やし中華が盛られていた。
あの人、帰って来たのか。
卵一個。ハムが二パックに牛乳一本。蓄えておいてもダメにしてしまうため、買い置きはほとんどしない。いつも通りの空に近い冷蔵庫にわずかな変化が残る。
台所を出ると礼奈がこっちに向かって目一杯腕を伸ばして待っていた。その小さな身体を抱き上げる。
「兄ちゃん、勉強しなきゃなんないんだ」
それを聞いた楓が「放しなさい」と言う。同時にジジジ、と音がした。あれ程静かに見守っていた奴が逃げたのだろう。縁側から台所まで届くはっきりとした声だった。
「礼奈」
「わかったよぅ」
しぶしぶ降りると「頑張ってね」と言い残して楓の元に駆けていった。俺もしぶしぶ二階にある自室に向かうが、ドアを開けると同時にこもっていた熱い空気に押し戻される。
「あー」である。
結局前田を振り切れず「なんちゃって受験生」このままでは何も変わらないことは分かっていた。就職する気もないし、専門に行く気もない。手っ取り早い時間稼ぎといった本音が見え隠れする。親が共働きで金には多少余裕がある。しかしやるからにはやらなきゃなんない訳で。
他の教科書に比べ、それでも少し汚れた社会の教科書を取り出す。
〈物事の背景を知ることは、その人間をより深く、豊かなものにする〉
あーもう分かったよ。やりゃいいんだろやりゃ。
しかしやる気とは裏腹に、いや根っこの本当はないやる気を表すように、肌寒さを感じて目を開けるとノートに水たまりができていた。
ウソだろ。
あわててティッシュを押しつけるが、次のページも、その次のページも、そんなのぶっ飛ばして最後のページまでふやけて波打っている。目を上げればすっかり日は落ちて、街灯の白い明かりがこうこうとしていた。カーテンを閉めて電気をつける。慣れない明るさに視界がスパークする。手探りでリモコンを探すとエアコンを切った。ヴヴヴ、といううなり声を聞きながらゆっくりと目を開ける。十八時二十八分。
マジか。
ってことは二時間近く寝ていた訳で。実際机に向かっていたのは二時間足らずだ。
ホント、向いてねぇんだわ。
あまりのショックにやけを起こしてベッドに倒れ込む。よだれまみれのティッシュが机の隅で丸まってる。知るか。どうにでもなれ。
電気のコードを引っ張ると鈴虫の鳴き声が聞こえた。すぐに目が慣れない分、耳が敏感になるようだった。
〈あいつの自由の邪魔はしない〉
楓の声がよみがえる。俺は小学生より幼いんだろうか。
アイツの、自由?
目が暗闇に慣れてくる。頭が冴える。こうも冷静な状態の脳みそを、本当はそのまま勉強に当てるべきなのだが。
寝返りを打つ。仰向けになると、頭上を無色の光が走っていた。ずっと見ているとキラキラと空気中のチリが舞っているのが分かるようになる。
自由だったらどこへでも飛んでいくだろう。だったら必要である以上、捕まえておけばいい。例えそれと引き換えに、そいつの行動範囲を制限することがあっても。
ふわり、とその笑顔を思い浮かべる。
四
空気を読んで真琴を連れ出そうとしたタイミングでパーカーを返された。
「あ、あの、洗って返そうかとも思ったんですけど、次いつ会うか分からないんで」
「あ? ・・・・・・あぁ」
海二日目の事だ。俺はそれを受け取ると、そのまま羽織って砂浜を歩く。気がつくともう身体は乾いていた。それにしても
波打ち際まで来て、真琴はうれしそうにする。水しぶきが日差しを受けてキラキラと舞った。しかしサンダルまで飛ばしてしまい、それをとろうとかがんで、自身のパーカーの裾をぬらしてしまう。そうしてもうこれ以上ない位ヘコんだ足取りで戻ってくる。その様子だけで思っていることが伝わるようだった。
手を伸ばしたくて歯ぎしりをする。こんだけ必死にこの衝動を抑え込んでいるのに、本人はそんなこと全く知らないのだ。いい気なもんだよ。
〈次いつ会うか分からないんで〉
バカ言え。そのためにお前の携帯に俺の番号入れといたんだろ? そのために高崎に頼んで、わざわざこっちからかけてやったんだろ? お前の頭ん中にその選択肢はないのかよ。
「濡れてしまいました」
湿った砂浜に腰を下ろす。その手で裾を絞っている。俺はその隠語に「どーせすぐ乾くんじゃねぇの?」と返した。普通に考えて自虐ネタだ。
「そうですね」
しかしそんなことは気にも止めず、真琴はふふと笑う。その笑顔は、前の晩とは違って強い光を目いっぱい受けて、それでもやはり同じような力で俺の脳裏に焼きついた。
ふわり、とその笑顔を思い浮かべる。
〈ねーえ、あたしのこと好きー?〉
ごろん、と再び寝返りを打ち、目を閉じる。
真琴。
深く息を吐く。
やっぱダメなんだわ。いくら思い込もうとしたって、あいつはたぶん大人しくキスさせないだろうし、胸もあんなに大きくないし、それ以前にまず裸なんて絶対見せっこないし、何かもう、全然違うんだ。
頭がぐちゃぐちゃする。何が何だかよく分からなくて両手で顔を覆った。そうしてもう一つの顔を思い浮かべる。
さっきのあの礼奈の見上げた目、は、やっぱり鈴汝そっくりだった。絶対の信頼。どこまでもどこまでも、そのために俺自身が傷ついても構わないぐらい、愛しい、
あれからまだ一度も鈴汝と会っていない。同じ気持ちではないが、鈴汝が大事な事に変わりはなく、いつも後をついて来ていた鈴汝がいなくなるのはただ寂しかった。性別関係なく大切な相手っているだろう? 人間として尊敬できるような。鮫島や高崎だってそうだ。鈴汝が離れていくのは、辛い。
ジジジ、とセミの鳴く声がした。まるでさびた時計のネジ。死に行く前には人も同じようにナクのだろうか。
ふいに心が無防備になる。耐えられないのは寂しさか。結局俺は部屋を出ると、音を立てて階段を下った。