飛鳥17〈2月10日(木)〉
文字数 5,807文字
一
思い出したのは二年前、鈴汝を助けに入ったとき。真琴に助けられたとき。どっちも同じ二月のことだった。記憶を引きずり出したのは単純なニオイによる刺激。
天井の高い廃墟。良く響く金属製の壁。錆びた鉄のニオイは赤。穏やかじゃない。
「アスカ!」
聞き覚えのある声は女のものだ。目を開けるが薄暗くてよく見えない。違う。俺の目が濁っている。目の表面をアメーバ状に行き交う水分。まばたき。とろりと動く。顔を上げると、人の輪郭が見えた。
「ようやくお目覚めか。よく寝られたか?」
輪郭。誰だ。聞き覚えのない声。その口の端がつり上がる。
「そりゃそうだ。でも俺達はお前を一日だって忘れたことがねぇ。ええ? 火州」
男が振り返る。まばたき。俺から見て左前方、向こうにあるのは三つの影。その足元にも影が見える。影が
「鮫島!」
まばたき一つ、脳みそが勝手に足りない所を補って導き出す。うつ伏せに倒れている人影、その生気のなさに血の気が引く。まばたき。見えるようになる。飛び散った赤黒い斑点は血。囲む三人の男の体格に差はない。全員黒ずくめ。内一人はL字の鉄パイプを持っていた。
「そいつは関係ないだろ!」
「関係ない」
手前にいる男は背を向けたまま繰り返した。かんで、飲み込むような口ぶり。
「そうだ。関係ない。二ヶ月前、お前から暴力を受けた俺の弟と同じようにな」
顔を上げようとすると、首がひどく痛んだ。気づく。荒縄で支柱に拘束されたこの身体は、拘束がなくてもまともに動けるような状態ではない。その表情は、見えない。
何の話だ。
「覚えてないよなぁ。お前にとっちゃ取るに足らないことだ。でもアイツにとっては違う。きっかけは知らんが、お前とやりあったヤツの仲間だったアイツは仕返しに行った。結果、仲間もろとも返り討ちに遭った」
微かな金属音が響き続ける。静寂。鼻につく生臭さ。
「まるで獣そのものだったと。自分たちが束になったところで、ライオンには敵わない。目が合った瞬間、勝てないと思ったと。だから恥をしのんで声を上げたんだ。苦痛にうめく仲間の前で」
その声がわずかに震える。
「『やめてくれ』『助けて』と。分かるかお前にその気持ちが。どれほど辛かったか。どれほどみじめだったか」
再びしゃがんで見せた目は涙ぐんでいた。
「分かるか。それでも結局散々暴行を受けたアイツは、仲間からも見捨てられて居場所をなくした。今もまだ悪夢にうなされ続けてる。いくら外からなだめたところでトラウマは消えない『アイツはもう二度とお前には手を出せない』と分からない限りずっとな」
だから、と言うと目元を拭う。次の瞬間貫いたのは、血の通わない眼光。
「ここに集まったのはみんな似たような経験をしたヤツらだ。だからこれは純粋な復讐。お前の首を取って帰る。悪夢を見せた後にな」
二
かすかに香水のニオイがした。丸みを帯びた身体のライン。合図とともに正面に立ったのは、
「アスカ・・・・・・」
リカだった。
「いや、頼んでねぇぜ? お前がここにいると知ったら自分から行くと言ったんだ」
Tシャツに短パン。加えて薄いカーディガンを羽織っただけ。身体を震わせているのは寒さからか恐怖からか。いずれにしてもとんだとばっちりだった。
「そいつも関係」
「ない、か。でもそんなことどうでもいい。俺達はお前にダメージを与えられるものなら何だって利用する。何だってな」
その目に宿るのは真っ暗な炎。別の方向からも声がした。
「なぁ、コイツどうする? 起きたみたいだぜ」
右前方。丁度男の影になって見えなかった所が開ける。寒気が走った。そこにいたのは
「触るな!」
声が重なる。驚いて振り返ると、鮫島が声を上げていた。
「・・・・・・へぇ」
目の前にいた男が頬をなでた。そのまなざしがゆらめく。頭が真っ白になる。鉄のニオイ。奥歯が音を立てた。身動きした拍子にあごを伝って落ちた血。
待て。待ってくれ。何で真琴がここに。何で。
後ろで縛られた手。目隠し。猿ぐつわをかまされた口。本人どこまで分かっているのか分からない。後ろにいた男がその身体を起こす。砂ボコリにまみれた制服のスカート。その膝が見えている。
「面白い。・・・・・・一つゲームをしよう」
視線を外さない。男の標的はあくまで俺。
「誰だっていいとこ悪いとこがある。たまたま俺達が見たのが悪いとこだったのかもな。曲がりなりにもお前のためにこんだけのメンツが揃ってんだ。そのことへの、これは敬意だ」
ゆらめく。笑顔を消したその口が開いた。
「どっちか選ばせてやる。逃がす方を選べ。そっちは手を出さねぇ」
はりつめる。鋭い眼光が射殺す。
「まぁ、残った方はどうなるか分からんがな」
ホコリっぽい空気を咳で払うと肋骨が痛んだ。かえって大きいダメージは、次の動きを鈍らせる。頭が働かない。
「どっちか選ぶだけだが、俺達もヒマじゃない。時間制限に・・・・・・そうだな。そいつの指もらおうか」
男は鮫島を押さえつけている二人の男に呼びかけると、L字の鉄パイプを持った男にあごで指図した。
「十秒に一本。急がないと大切な友人が苦しむぜ。俺も根は善人だからな。なるべく嫌なことはしたくねぇ。早めに頼むぜ」
「は? 何だ。何がだ。やめろ。ちょっと待」
「いーち」
聞く耳持たず、始まったのはカウント。押さえつけられた細い肩は抵抗する力を持たない。持っていない。さっきまで生きた気配すら感じられなかった程だ。息をするだけでもやっとだろう。その身体の近くで鈍い光を返すのは、無残に破壊された携帯。
「よーん」
真琴。当の本人は身体の自由がきかず戸惑っている。まだ今何が起こっているのか分かっていない。苦しそうに口を動かす。
「アスカ」
目をやる。薄着のリカは震えていた。自分から飛び込んできたのは、こんなことに巻き込まれていると予想がついた上での行動だったに違いない。それでも飛び込まずにはいられなかった。自業自得と言えれば簡単だった。その目。リカは男に向かって叫んだ。
「アタシはどうなってもいい! アスカを放して!」
男は動かない。俺から視線を外すことなく、カウントをとり続ける。
「じゅーう。一本目ー」
次の瞬間、背筋を貫いたのは
三
「っあああああぁぁぁぁぁぁぁ!」
金属の壁一杯に反響する声。最も分かりやすい反応をしたのは真琴だった。
「師匠? 師匠?」と顔を振り、声を頼りにそっちに向かおうとする。鮫島は肩と腰を浮かすが、男二人に難なく押さえ込まれた。鉄パイプは女のごとく細い指を容赦なく砕く。
「やだなぁ。嫌いなんだよ。本当、こういうの。次で選んでくれよ」
言いながら「いーち」と続ける。まだ悲鳴の余韻が残っていた。
〈何だかんだで責任とれるのはとれて一人なんだよ〉
歯の根がかみ合わない。俺のせいで鮫島が。でも、じゃあどうしたらいい。
うわごとのようにつぶやき続ける真琴。拘束する男の粘着質な手を振り払おうとするリカ。俺は一体
「火州」
顔を上げる。うめき声。鮫島は顔の向きを変えずに言った。
「弟子は・・・・・・見捨てられねぇだろ」
「はーち」
「アイツを」
「じゅーう。二本目ー」
無情なのは鉄パイプか。それを振り下ろす男か。押さえつけている男達か。それを指示するこの男か。それとも選べない俺自身か。
「・・・・・・っっっっっっっっ!」
その不安をあおらないためか、殺した声は唇の端を伝う血になった。くぐもった音に反応してあらがう。
「師匠! 師匠!」
真琴は母親を追う子ギツネのようなひたむきさでその元に向かおうとする。とらえる男はとうとうその首に腕を回した。
「大人しくしてろ!」
真琴の動きが止まる。抵抗することが不利に働くと感じたのかもしれない。小さな声で「師匠に乱暴しないで」と言った。
「・・・・・・やさしいんだね。あのちっこい子。お前の大切な友人とあの子は確かに関係ねぇし、お前さえいなきゃ仲良く平和に過ごせたんだろうな」
その口の端がつり上がる。
「・・・・・・あれ、傷つけちゃった? 悪かったな。でもそれなら選びやすいじゃねぇか。お前を助けるために飛び込んで来た女か、友人共々大切にしたい女か、どっち選ぶ?」
あ、カウントするの忘れてた、と言うと再び「いーち」と始める。
息が漏れた。喉がヒリつく。熱い。なのに寒気が止まらない。
〈分かるか〉
何でだ。何でこんなことに。
頭の中で鳴る音。
〈やめてくれ〉
〈助けて〉
ザクン、ザクン、ザクン、ザクン。
〈分かるかお前にその気持ちが。どれほど辛かったか。どれほどみじめだったか〉
思い出したのはその小さな姿。
〈お願いです〉
〈もう二度と手を上げないで下さい〉
眼前がゆらぐ。その意味をやっと知る。
悪いのは俺だ。全部俺が悪かった。だから
「悪かった!」
響く。血がしたたった。反響した音が消える前に続ける。
「俺が悪かった! 俺はどうなってもいいから、そいつらを」
「は?」
その目が据わる。今まで離さなかった視線。その種類が明らかに変わった。真っ暗な炎にくべられたのは、怒り。
「だから最初から言ってるだろ。お前はどうにでもなる。今は悪夢の真っ最中だバーカ」
そうして「もういいよ、はい三本目ー」と手を上げる。
歯の根がかみ合わない。やめてくれ。もう許してくれ。
〈やめてくれ〉
〈助けて〉
〈護れて一人〉
結局俺は誰一人護れない。砂ボコリが上がる。鉄パイプが持ち上げられた、その時だった。
四
ドガン!
すさまじい音を響かせて観音開きの扉が開く。驚いた男が立ち上がった。
「何だ!」
次いでなだれ込んできたのは数え切れない程の影。鳴り響くエンジン音。聞き覚えのあるそれに乗って現れたのは
「ワン! ワン! ワン!」
「何だコイツら!」
水島だった。涼しい顔で鉄パイプを構えていた男に突っ込むと、反動を利用してその場に止まる。衝撃でゆがんだ紺の原付。それは鮫島のものに違いない。
「何してるんですか。部活終わるの十八時半って言ったでしょう。もう一時間も過ぎてますよ」
それと同時に地に伏した『主人』を見つけたドーベルマンが、組みしく男達に飛びかかる。たまらず飛び退く。
その後水島は細い肩を自分の首に回すと身体を起こす。痛みにうめいたその頬が少しだけつり上がった気がした。次の瞬間、水島めがけて一頭の犬が飛びかかろうとする。
「モモ、ステイ!」
間一髪、その場に伏せる。そうして力の入らないその身体を原付に乗せていると、駆けつけた何頭かがその周りに輪をつくった。低いうなり声は警告。むき出しになったキバは近づくものに容赦しない。俺と一瞬目が合ったヤツがいたがこっちに来なかったのは、過去の何かを覚えていたせいだろう。
「何なんだよ!」
「きゃあああああ!」
しかし問題はその他で、血のニオイに興奮してたがが外れた番犬たちは真琴やリカにも襲いかかろうとしている。
「本当は気が進みませんが」
振り返る。支柱の背後、いつの間にか回り込んだ水島がかがんでいた。こげ臭い。その手に持っているのは鮫島のジッポ。次の瞬間、一気に束縛がなくなる。用が済んだ水島はさっさと入口に向かう。すぐさま立ち上がる。
「どけぇ!」
そうしてその身体に飛びかかっていた犬を振り払った。ずれた目隠し越しに合った目。その前に立ちはだかる。
「ステイ!」
騒ぎの中、振り絞った主人の声を犬たちは聞き漏らさない。足元に立ち上った砂ボコリ。それがおさまる頃には一匹残らず地に伏せていた。
黒い輪郭。顔の前を払った男は、低い声で言った。
「やってくれたなぁ」
苦虫をかみつぶしたような顔。男は首を回すと正面に立った。向き合えば何のことない、今までやり合ってきた相手と変わらず、恐れも何もなかった。
「無理はしない方がいいぜ。リスク回避であらかじめ叩いておいた」
その声に反応して身体がうめいた。気づく。これからどう動けるかじゃない。今この場に立っていられること自体、既に奇跡だった。その姿をにらみつける。その時だった。
五
小さな影が宙を舞う。スローモーション。男の口が開く。その両足が男の胸に当たる。次の瞬間
ガァン!
男の身体がぶっ飛んだ。背後にあった支柱にぶつかる。眼前、大きくゆれる黒髪はカラスの濡れ羽色。数秒で元の形に戻ると、その背中から声が放たれた。
「ふがふがふが、ふが!」
外れたのは目隠しだけで、猿ぐつわはそのままだ。だから何を言っているか分からないが、すごく怒っている。砂ボコリの上がった前方、男は立ち上がると真琴に殴りかかってきた。
「あぶな・・・・・・」
骨のきしむ音がする。それは俺のものではなく、か細い真琴のものでもない。そうなると
男がよろめく。身をかがめた小さな身体が、両手を拘束されたままボディをえぐっていた。そのまま前屈みになった男の頭を払う。視界に映り込んだのは、その両手。真琴はさらに全身を使ってのしかかろうとする。もう見てられなかった。
その、衝撃で青黒く染まった両手の甲。守りたいものがはっきりする。身動きする度にうめく全身の骨。
うるさい。
その身体を背後から抱え込むと、引きはがす。男は既に伸びていた。尚も暴れようとする真琴は俺の腕を取り、身をかがめると
「っ!」
前も見たことのある光景。一本背負いをかけられる。でも二度は食わない。とっさにその袖をつかむと、俺と同時にバランスを崩す。受け身がとれず横倒れになったその肩を押さえつけて馬乗りになる。血が落ちた。それはその頬をかすめ、
ふっ、ざけるな。
命を削るような痛みはいつ失神してもおかしくない。既に気絶レベル。
だが不思議なほど気分は穏やかだった。
カラスの濡れ羽色。上気した白い肌。あどけない目。間違いない。
〈俺と勝負しろ〉
やっと、願いが叶う。
顔を近づける。その目が見開かれる。はねのけようともがいていた身体は、唇が重なると同時にその動きを止めた。
時が止まる。異様なまでの静寂。
遠く、微かな金属音が聞こえた。
息が続かなくなって唇を離すと、その顔はさっき以上に赤みを帯びていた。見開かれたままの目。今の今まで暴れ回っていたとは思えない、あまりに無防備な姿に思わず苦笑いが漏れる。
「俺の、勝ち」
意識が飛ぶ。全てが終わる。
穏やかで安らか。満ち足りる。
もう何でもよかった。どうでもよかった。
願いは、叶った。