雅10〈9月22日(水)〉

文字数 5,988文字

 一

「・・・・・・いい加減放してやったらどうだ。雅ちゃん困ってるだろ」
 夕日が斜めに差し込んでいた。薄い雲に遮られた光は全体的に灰色がかっていて、光源としては心許ない。鋭角。それは丁度東側の壁の一部を照らしている。
 あたしはことさら深くうつむくと、声をかけられた主の反応を待った。振動が伝わる。どうやら笑ったようだ。

 時間を少し前に戻す。それは五人でいびつな円になった時、きっかけは高崎先輩が話題を二人に振ったことだった。
「国語いけんのか? 火州、お前水島に教えてもらったらいいじゃねぇか」
 高崎先輩の声に合わせて飛鳥様の方を向くと同時に、左手に体温を感じた。人肌だ。身動きの弾みで偶然当たったのかと思ったが違った。なめらかでひんやりとした手の甲、は、そのまま離れるそぶりを見せない。
 イレギュラー。他力。思わぬ事に音を立て始める心臓をなだめるため身体を引こうとすると、素早く手を重ねられた。
「水島」
「・・・・・・っ!」
 心臓が跳ねる。つかまれた手が熱い。動揺が全身を巡る。
 ただ四の五の言わさないのは捕まえるその瞬間だけで、今は無駄な力をかけていない。
〈嫌だったら逃げて〉
 そのゆとりを残している。自分の意思だけで事を進めない。よく言えば「同意の上」悪く言ってもまた「同意の上」
「火州」
 肩がわずかに動く。今も尚、自分にとってその名がどれだけ影響するか思い知る。鼓動に合わせて増える呼吸数。どれだけ吸っても息苦しい。
「何、分かんないの?」
 思わず左を向いた。鮫島先輩はいつも通りの歪んだ笑みを浮かべている。
 ね?
 声が聞こえたようだった。目線だけで同意を求めると、手に力が加わった。
 どくどくどくどく。
 喉が干上がる。全身の血が逆流する。
 飛鳥様。
 音を立ててつばを飲み込む。ゆっくり息を吸う。しびれた神経。あたしは
 まっすぐに飛鳥様を見つめた。どんな状況であっても飛鳥様に対するリスペクトは変わらない。高崎先輩も知ってて話を振っているのだ。
 そう。だからこの行動は飛鳥様に対する想いに寄るものであって、決して、
 決して水島の視線を意識したものではない。
 どくどくどくどく。
 飛鳥様が息をついた。その目は既にあたしの左手の置かれた状況を知っている。その上で自分に求められた役割だけに応じた。
「・・・・・・寺だ」


 二

 時刻は十七時を回っていた。飛鳥様と水島が抜けて右半分のスペースがごっそり開く。二人分減っただけで肌寒さを感じる。
「バレてた?」
「バレてたも何も丸見えだろ。お前こそ隠し事か? 勘弁してくれ」
 え? どういう事だ? と言う高崎先輩をまぁまぁまぁまぁとなだめると、鮫島先輩はようやくあたしの手を放した。
「水島君は気づいたかな?」
「おい、からかって遊ぶんじゃねぇぞ」
 その、心から楽しそうな表情。
「だって水島君面白いもん」
 捕まれていた手の甲が熱い。残る片手でさするが、自分の手とは思えない温度差を感じた。
「水島どうこうじゃなくて、雅ちゃんが困ってるだろう。それともお前らそう言う関係なのか?」
 そう言う関係。
 ヒュッと喉の奥が塞がる。他意はない。それでも兼子君から言われた一言がかすめると、紙で指先を切った時のような痛みが走った。
「いや、俺が雅ちゃんを好きなだけ。問題ないでしょ?」
 図書室の施錠の音がした。担当の先生が当番の生徒をねぎらう。スリッパの裏、粘着質なゴムの音が階段を降りていく。思ったよりも高い音が響いた。校内からまた人の気配が減る。
 シンという音が聞こえるような静寂。先に口を開いたのは高崎先輩だった。
「悪い。俺邪魔だったな」
「そんなことないよ」
 鮫島先輩の表情は見なくても分かる。けど、見たらやっぱり思った通りの顔をしていた。どうしてこの人はこんなに楽しそうにしていられるんだろう。
 その時飛鳥様の言葉がよぎった。本当に不意だった。
〈鈴汝、お前・・・・・・SとМだったらどっちがいい?〉

 後ろ手をつく。胸を開くようにして身体を伸ばすと、鮫島先輩は息を吐くついでに言った。
「それにしてもよくゲンジどうこうなんて知ってたね。まさか高崎センパイの口からそんな問題が出てくると思わなかったよ」
 センパイと呼ばれた高崎先輩は、心底気持ち悪そうなそぶりをすると「違ぇよ」と言った。
「前に中央階段の近くで前田と話してるのを見かけて、そん時言ってたんだ。クラスの中でそんな回答したのはあいつだけだったらしい。俺はそれをただコピペしただけ。あいつだって分かってて言ってるぜ? ちなみに俺は同じテストで紫式部を柴式部って書いてはじかれてた」
 自分で言っておいてがははと笑うと、鮫島先輩が「コイツマジでやべぇ」と言った。
 相づちを求めるようにしてあたしとも目を合わせた高崎先輩は、その後ふと眉を下げた。
 不穏。ざわめく。あたしは必死でその目にすがる。分かっていた。分かっていたからだ。しかしその顔は無情にも行く先を向いた。頭を下げる、という行為をそっちに向かってしたようだった。
「・・・・・・俺行くわ」
 そう言って立ち上がると、そのまま階段を降りていった。大きな足音が響く。響いて、響いて、遠ざかる。その音がなくなってしまわない内にあたしは
「さて、と」
 視界の端、ゆらりと動く気配がした。人一人分の体温。残された唯一は、音もなくその影響力を強める。気配であり圧でもあるその絶対的な有。何をされた訳でもないのに、動けなくなる。


  三

「久しぶりだね」
 偏った笑顔は変わらない。飛鳥様や高崎先輩に見せるものと同じだ。ただあたしがその向こうに何かを見てしまうだけで。
 階段は右手。あたしの方が近い分、逃げるには有利。なのに
「そんなにかしこまらないでよ。照れちゃうじゃん」
 身体ごとあたしの方を向く。その足の裏を合わせてあぐらをかくと、膝を揺らした。思っている事がそのまま現れる。それは一種の甘えかどうか分からない。無邪気なようでいて、己の欲望に忠実。ただ、弧を描いた細い目の奥は本当に笑っているとは限らない。
「まいったなー。そんなに期待されても」
  言外。人は言葉を理解するより先に何かを察する。それは平和な生き物に残った、最後の危機察知能力なのかもしれない。動揺。呼吸が乱れる。
「ち、違います」
 その一瞬を見逃さなかった鮫島先輩の、だからこれは勝利なのだろう。その手があたしの二の腕をつかんで引き寄せる。
「じゃあ、本当に・・・・・・何も感じなかった?」

 険しい静寂が空気をむしばむ。ぐぅ、と喉が鳴った。
 徐々に赤みを増していく橙。薄い雲が途切れて影との境がくっきりと目立ち始める。人通りの少ないこの場所はホコリっぽく、どこか錆びついたにおいが漂う。錆びた
 錆びた鉄のにおいと、クレーンの金属音。
 強張る。背中に嫌な汗がにじむ。喉元を叩く心臓。
〈火州さんは・・・・・・男の人として好きなんでしょうか?〉
 瞬時に駆け巡る走馬灯。
 元彼。低い笑い声。まぶたの裏にはじけた光。〈泣き叫んでもいいよ〉憎悪。きつくつぶった目。怒声。飛鳥様の背中。再会。青空。校舎の屋上。端正な横顔。慈しむようなまなざし。そして
 フッと笑う声がした。
「息、止まってる」
「・・・・・・っ!」
 眼前で言われてごまかしようがない。反射的に身体を引くと、腕をつかんだままの鮫島先輩がついてきた。尻もちをつく。痛みにうめくが、それも一瞬だった。丁度四つん這いで覆い被される。それなのにのぞき込むような目。濃淡。黒以外の色が影に隠れて分からない。見ようによっては底抜けの深い闇にも見える。どうしてだろう。一瞬その恐怖に心奪われた。
「・・・・・・もちろん強制はしない。嫌なら逃げて」
 吐く息が頬をかすめる。甘えるように見上げる目。鼻先が触れ合う距離でささやく、その声は悪魔。
「・・・・・・いや、違うな。欲しかったら、自分でシテ」
 目を見開く。その瞬間、リリリリリリと鈴虫の鳴く声がした。
 蝉時雨。補助輪を外して自転車に乗り始めたあの頃。もう一人で大丈夫だと思った矢先、視界の端に映り込んだ大きな段差。その大半はガードレールで覆われているのに、人一人やっと通れるような隙間に、恐ろしい力で引き寄せられた。行っちゃいけないと思うほどにハンドルが言うことをきかなくなる。ものの見事に落っこちて、仰向けで夕焼けの空を見上げながら感じたのは、しかし何故か底抜けの安心だった。
 思ったよりも痛くない。
 痛みに対する恐怖が、現実になった途端なくなったのだ。落っこちたらもっとずっと大変な事になると思っていた。そう
 こっちとあっちの境なんて、越えてしまえば言うほど大差ない。
 息を呑む。心臓がうるさい。
〈嫌だったら逃げて〉
 くぐもった声。ゆるゆるとあいまいになっていく境界線。その肩にすがった手。
〈とんだクソビッチだな〉
 うるさいうるさいうるさいうるさい。
 鉄の錆びたにおい、クレーンの金属音。
 溶け出す。あたしはもう、こわくない。
 呼吸音。鼻先が触れ合うようで触れ合わない。間近で合わさる視線。
 荒い息づかい。熱い。あたしが一杯になる。
 頬が触れ合う。こすれる。
 どうしよう。目を開けていられない。
〈例えあなたが悪魔だろうと、他の誰かを好きになろうと〉
 うそつき。
 だったらちゃんと


  四

 頬を離す。鼻先が触れ合う。唇が。
 低く笑う声がした。合わさった唇。背中の真ん中に鈍い痛みが走る。そうして思い知る。あたしはこれ程までに我慢していたのだと。かみつくように繰り返されるキスでぐいぐい壁際まで追い込まれると、鼻先を合わせたまま息継ぎをする。その眉がひそめられた。気持ちよさそうなため息。
 キュッと胸の奥が引き攣れる。単純で分かりやすい反応。
 こじ開けられる。背中から落ちていく。その首にすがると、硬い髪が手のひらに刺さった。
 鮫は容赦なく海の中に引きずり込もうとする。その強い力に引かれ、息ができなくて溺れる。もうろうする。単純で分かりやすい反応。本当はそれだけで良かった。それだけで良かったはずなのに、
 よぎるのはあの大きな瞳。よぎって、邪魔しようとする。あたしがちゃんと満たされない。
〈覚えておいて下さい。僕はあなたのことが好きなんです〉
 だったらちゃんと応えなさいよ。自分の言いたい事だけ言っておいて受け取らないなんて、幼いにも程がある。
〈あなたのためなんです〉
「はっ・・・・・・」
 背中が冷たい。いつの間にか背中から崩れ落ちていた。見下ろすのは小さな黒目。開いた瞳孔は背筋が凍るほど昏い。
 うそつき。
 だからそう、これは全部あの子が悪いのだ。責められる筋合いなんてない。そもそもアクマとか何とかバカにしすぎよ。自分がしたいようにして、ただの自己満足じゃない。結局あの子は昔の彼女を大事にしたいだけ。とんだ茶番よ。とんだ

「・・・・・・っ! 痛っ!」
 容赦ない力で胸をつかまれる。昏い目。その片手をついたまま上体を起こす。マウントをとった状態で見下ろすと、鮫島先輩は一層低い声を出した。
「分かるんだよね。ヒトの顔色うかがってきたから、そういうの」
 細い息が漏れた。
 痛み、は本能を叩き起こす。恐怖は生への執着。
 激しい鼓動は、今や恐怖のために打ち鳴らされている。
「今、別のコト考えてたでしょ」
 喉が張り付いて声が出ない。奥歯がかみ合わなくなる。
 錆びた鉄のにおい、クレーンの金属音。ダメだ。あたしまだ
「違っ・・・・・・」
「やめた方がいいよ。何かのせいにしようとするの。俺はムリヤリしてないし、これは雅ちゃんの望んだことだ」
 暗闇に浮かび上がる輪郭。細い目には何の情も灯らない。一+一で二。唇と唇が合わさったから身体が反応した。そんなわかりきったルートをなぞっただけのようだ。浮かされた熱が冷めて、今更羞恥の感情に戸惑う。
 その後鮫島先輩は立ち上がるとタバコをくわえた。火をつける瞬間、強い光が目を焼いた。大きくまたいで階段に足をかける。
「ごちそうサマ」
 ズン、と下腹に突き刺さる。
 階段を降りていく音。視界が悪い。いつの間にか日はすっかり落ちていた。今は月の光がおぼろげに照らしている。寒い。薄手の長袖は本当に飾り程度の防寒力しか持たない。脱げかけたスリッパを引き寄せて髪を整える。
 何の意味も持たない。
 それは絶望。一時の胸の高鳴りに流された先の吹きだまり。いつの間にか窮屈な音を立てる心臓。恨めしそうなそれこそ自己責任。
〈これは雅ちゃんの望んだことだ〉
 つかまれた方の胸がまだ痛い。ズキズキと脈打つ様はまるで幼子。こわかった、こわかったんだよと主張して止まない。
〈ごちそうサマ〉
 取り出して見比べられない以上、人の気持ちなんて分からない。現に鮫島先輩とあたしの気持ちにはこれだけ温度差がある。
〈俺が雅ちゃんを好きなだけ〉
 冷えた身体。奥歯が鳴った。
 うそつき。
 みんなみんなうそつきだ。


  五

 鉛のような身体を引きずって歩く途中、見覚えのある影を見つけた。二階と一階をつなぐ階段。その踊り場にいたのは
「あ、鈴汝さん」
 真琴だった。久しぶりに見た顔はみるみるほころぶと「今帰りですか?」と聞いた。思わず目をそらす。
「ええ」
「私も今帰りなんです。部活のミーティングがあって、終わって図書室行ったらもう戸締まりしてあったんで焦りました。今日返却期限のが手元に二冊あって、期限越えちゃうと貸し出し禁止期間が発生しちゃうじゃないですか。あわてて鍵借りて返却してきたんですよ」
 ひとしきりしゃべり終えた頃、階段を降りる足が丁度追いつく。と、その目が一瞬不自然に見開かれた。世に言う二度見だ。
「何」
「いえ」
 眉間にうっすら残るシワ。何だか背筋がざわついた。やましいことがあるかと聞かれればあるし、後ろ暗いことがあるかと聞かれたらある。言い逃れこそ出来ないが、証拠はない。髪をなでつけながらまた一段、段差を降りた。
「どんな本を読むの?」
 なだらかな鼻筋をすべったメガネ。そのレンズの奥がふっとなごむ。
「好きな作家さんがいて、その人の作品ばっかです。だからすごく偏ってるんですよ」
「いいじゃない。魅力を感じてその人の本を読み続けてるんでしょ? 書いた方も幸せね」
「そうですか?」
 くすぐったそうに真琴が笑う。こっちまで柔らかな気持ちになるような笑い方だった。ようやく校舎の入口に辿り着く。
「ありがとうございます。今日返却した二冊は特に気に入って、何度も借りているものです。もし興味があったら是非読んでみてください」
 下駄箱から靴を取り出す。腰の高さから落とすと、思ったよりも大げさな音がした。砂埃が舞い上がる。その向こうに浮かぶ顔。
「『隣の悋気』と『昏い気配』どちらも同じ作家さんなんで、検索かければすぐヒットしますから」


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登場人物紹介

草進真琴(そうしんまこと)

高一女子。モットーは「私はただの高校生。それ以上でもそれ以下でもない」

6月10日生まれ、A型。


作画、いく。

火州飛鳥(ひしゅうあすか)

女嫌いの高三。美形。

9月2日生まれ、B型。


作画、いく。

鈴汝雅(すずなみやび)

男嫌いの高二。美人。

3月3日生まれ、O型。


作画、いく。

水島聖(みずしまひじり)

病んだ高一。思い込みが激しい。

6月27日生まれ、A型。


作画、いく。

鮫島勤(さめじまつとむ)

高三。飛鳥の友人。

2月2日生まれ、AB型。


作画、いく。

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