真琴7〈8月16日(月)〉
文字数 5,007文字
一
驚くほど深い眠りについていたようだ。突如目に入った木目の天井や真新しいシーツの匂いが、すぐにはかみ合わない。何度かまばたきを繰り返す。その後、隣から聞こえてきた寝息でようやく覚醒すると、そうっと布団を抜け出した。
赤茶色の髪。メガネがなくたって色の識別ぐらいはできる。思い出した。昨日から鈴汝さん達とここに泊まっていたんだ。息を潜めるようにしてつけたドライヤーが思った以上にうるさく、あわてて洗面所のドアを閉める。イチイチ心臓に悪い。早いとこ身支度を調えなければ。
早い脈拍。起きてすぐ鈴汝さんの存在に気づいたこともあるが、それだけじゃない。ドライヤーの風を冷風にかえる。顔についていた髪が軽々となびいた。頬が緩んでいた。
夢はまだ醒めていない。そう。水島君もまだいるのだ。
二
チェックアウトに合わせて宿を出たのは九時半過ぎだった。まだ午前中だし、せっかくだから再び海を満喫していく事にする。さすがに昨日に比べて人は少なくなっていた。出店もそのほとんどにカバーが掛けられている。火州さん曰く、ここは元々静かな所らしいから、これが本来の姿なのかもしれない。
朝方の日の光は青空の色味をまるで遮らない。まっすぐ宇宙まで透けて見えるようだ。水平線がキレイに見えた。穏やかでまぶしい夏の日。思い出に残るような一枚絵を前に、隣から聞こえる声に耳を傾けた。
「あー」
「あー?」
「あー」
直後、耳を傾けた事をお腹の底から後悔する。非日常の緊張感などかけらもない。日常と何ら変わらない過ごし方をしている人種が約二名。
「あー?」
「あー」
だから何しゃべってるのー。
二つ並んだパラソルの下、全員で日陰を共有する。こうなるとやはり弱いのは下級生で、意味不明な会話を繰り広げる火州さんと鮫島先輩にパラソル一つを丸々奪われる。お腹を出して横になった屍二人は今にもミイラ化しそうだ。その時、大きな人影が動いた。目が合うと高崎先輩は眉を下げて笑った。
「どこかへ・・・・・・?」
「ん。泳ぎ行ってくる」
その向こうにいた水島君も合わせて立ち上がると後に続いた。二人とも気を遣ってくれたのだろう。この二日間で高崎先輩と水島君は随分打ち解けたように感じる。大小の背中。何だかいいコンビだった。
さて。さてさてさてさて。忘れちゃいけないことがあるわけで。
覚えてるよ。これはちゃんと手を回しておかなければ。
それは二人が泳ぎに行った直後の事だった。
「あれ、あったの? それ」
こっちを向いて指差したのは私のメガネだ。
「あっ、あははははー。あー」
私は素早く鈴汝さんを振り返る。鈴汝さんは体育座りをしたままあくびをしていた。
「さ、鮫島先輩、少々お話がっ・・・・・・」
そう言って寝転がっていた鮫島先輩を強引に引っ張って起こすと、パラソルを出る。
「んだよ暑ぃ。焼け死んじまう」
ええい。さっきまで屍そのものだった人がよく言うよ。死なない死なない。
いつになく強気に進む。だって鈴汝さんより怖い人はきっといない。砂漠もどきをさくさく進む。その後振り返って、パラソルから充分遠ざかったのを確認すると、私は素早く顔を近づけた。
「じ、実は、お願いしたいことがありまして・・・・・」
「ヤダ」
瞬殺。一秒とかではなく、コンマ何秒の世界。
「お願いしますよ。そんな大したことじゃないんです」
「ヤダ」
そうしてぷいっと向こうを向く。やはり瞬殺。
「何でお前にお願いされなきゃなんないんだよ。面倒なことはゴメンだね」
おっしゃるとおりで。いやしかし、ここで引き下がるわけにはいかないのだ。
「あっ・・・・・・の、鈴汝さんに余計な心配をかけさせたくないんです」
その足がピタリと止まる。
「・・・・・・何?」
どうやら聞く耳を持ってくれたみたいだ。ここぞとばかりに事情を説明する。
「実は昨晩、火州さんが私のメガネを見つけて下さったみたいで、それをもらうために外に出たんですよ」
「あ? 何で外に出る必要があるんだ?」
「それはまぁ・・・・・・」
「言えねぇの?」
ならいいけど、とでも言うかのように再び歩き出す。あわててその後を追う。
「あっ・・・・・・言います言います!」
とりあえず一通り昨晩のことを話す。火州さんが部屋に来た事。その後外に出た事。そうしてメガネを返してもらった事。
「そもそも、何で外出る前におかしいと思わなかったの? あったならそれ放置して戻ってくる方がおかしいだろ?」
途中、そんなもっともなつっこみが入れられるが「気が動転していた」とやり過ごす事に成功した。
照りつける太陽が痛い。鮫島先輩は今度は方向を変えて再び歩き出した。薄い階段を上がる。その後売店の前にあるパラソル付きの丸テーブルに腰掛けた。私もその向かいに座る。
「で」
鮫島先輩はお尻や腰に手を当てるが、苦笑いして腕を組んだ。タバコが欲しいのかもしれない。「買って来ましょうか?」と声をかけるが、手で制された。私は膝の上で手のひらを握ると、本題に入る。
太陽が真上から照らしていた。足元に出来た丸い影。今だけは全てをさらさないでいて欲しい。握った手のひらが微かに震えた。大きく息を吸う。
三
「その・・・・・・鈴汝さんにだけは、メガネを見つけたのは鮫島先輩、という事にしていただきたいんです。あの、昨晩、私と火州さんが一緒にいた事を隠せればいいので」
一息に言って顔を上げた。鮫島先輩はあごに手を当ててじっと何かを考えている。そうして打ち寄せる波の音が五回も聞こえた所で静かに答える。
「いや・・・・・・かえってそれ、バレちゃった方が俺としては都合いいんだけど」
えぇっ! 意味深な発言内容どうこう以前に、それは困る!
「そこを何とか!」
「いや、そう言われても」
鮫島先輩は背もたれに寄りかかると、頭を掻く。
「だって、あんた他の誰と天秤かけても一番下だし。そうしたところで俺に何のメリットもないし」
だ・か・ら・お願いしてるんですぅぅぅぅ!
「でもやっぱり・・・・・・鈴汝さんが傷つくと思ったら・・・・・・」
荒ぶる内面を抑えに抑えて私はそう口にする。するとしばらく考え込んでいた鮫島先輩は、あごに当てていた手を離し「・・・・・・うん。そっか。じゃあいいよ」とあっさり言った。
「え」
突然の百八十度方向転換について行けない。え、何? 何がいいの? 本当にいいの? そうして私が動揺している間にも鮫島先輩はもう一度うん、と頷いた。
信用していいのだろうか? 不安は残るが、気が変わる前に受け入れておくことにする。
「あ、ありがとうございます」
鮫島先輩は立ち上がると、来た道を戻り始めた。あわててその後を追う。とりあえずよかった。うれしくなって、ついつい余分なことを口にする。
「私、最初鮫島先輩と鈴汝さんが一緒にいるの見たとき、二人が付き合ってるのかと思ったんですよー」
前を歩いていた鮫島先輩は足を止めると、横に追いついた私の頭をなでた。驚いて見上げるがそれには構わず、先輩は再び歩き出した。
「お前、誰好きなの?」
「・・・・・・え? な、何がですか?」
「誘ったのは火州だろうが、お前が目当てなのは別のヤツなんだろ?」
完全な不意打ちだった。心臓が喉元で鳴りだす。
「雅ちゃんと仲良しなわけじゃないんだろう?」
思わずムッとしてしまう。
「いえ、仲良しです。昨晩仲良くなりました」
「昨晩・・・・・・だったらここには雅ちゃんがらみでついて来たんじゃない訳だ」
う。バカ正直な自分のバカ。返答に詰まり下を向く。海のはるか上空を旋回する鳥の、甲高い声。上を向いてそれに合わせるように言う。
「俺か、高崎か」
嫌に冷めた目。
「・・・・・・それとも水島か」
全身が発火する。この人分かってたんだ。全部分かってて
「・・・・・・ビンゴ」
鮫島先輩は口の右端を吊り上げて、目だけ残して笑った。
「いいよ。手伝ってあげる」
全身に太陽の光を浴びながら言う。不審は拭えない。『一番下』で『何のメリットもない』条件は、今でも変わっていないのだ。
「い、いえ、いいですよ。手伝うだなんてそんな・・・・・・」
余計なおせっかいは必要ない。それが逆効果になるケースだって少なくない。
「深入りするつもりはないし。するっつってもお前らを一緒にいさせてやる事ぐらいだし」
おお。何だその魅力的な提案は。自然、前のめりになる。
「そうだな、うーん」
少ししてその口元がうれしそうに吊り上がる。
「うん、任せとけ」
何だかよく分からないが、私のためにそこまでしてくれることがうれしくて「ありがとうございます、師匠!」と敬った。一瞬驚いたようだったがまんざらでもないらしく、鮫島先輩は「よし、ついて来い、弟子!」と言った。
案外、ノリのいい人である。
四
拠点に戻って来たものの、控えめに言ってパラソルの下は気まずい空気が充満していた。二人とも顔色が良くない気がするのは、決して日陰だけのせいではないと思う。
「火州、元気ないじゃーん」
しかしそんなことお構いなしに鮫島先輩が抱きつくと、火州さんはそれこそ火を吐く勢いで「寄るな!」と怒り出した。その容赦の無い物言いが、かえって場の空気を和らげる。
「高崎がお前と話したいって」
鮫島先輩はなおもくっついたままでそう言うと、その顔を覗き込んだ。
「高崎が?」
その動きがピタリと止まる。わぉボーイズラブ。このショット自重。
「そ。だから行ってやって。そんでもって水島君こっちによこして」
火州さんの目が細まる。明らかに何かを疑っている。今の今まで高崎先輩といた訳ではないし、それはあやしまれて当然だ。聞いてるこっちが冷や冷やする。しかし鮫島先輩はひるむことなく、くもりなき眼で見つめ返す。だから近いってば。結局根負けした火州さんが立ち上がる事になった。
その向こうにいる鈴汝さんは、海を見つめたままぼんやりとしていた。
何だかいたたまれなくなるくらい、ぼんやりしていた。
「何ですか?」
眉間にしわを寄せた水島君が、海水を滴らせながらパラソルの下に戻ってきた。鮫島先輩はこの種の視線に慣れているのだろうか。まるで動じない。完全に自分のペースで話をする。
「水島君―。俺お腹すいちゃったー。かき氷食べたいー」
『子供が駄々をこねる図、見本』である。
「・・・・・・かわいくないですよ」
水島君の言うとおりだ。決して、かわいくは、ない。
「かき氷、食べたいー」
さっきよりドスの利いた声が響く。おお。先輩の貫禄。水島君は仕方なしに「・・・・・・味は何でもいいんですか」と聞くと、「メロンっ」と応えた。そのちっちゃい「つ」は何だ。先輩の会話は突っ込みどころ満載だ。
「おう弟子。お前も行ってこいや」
その時だった。鮫島先輩はさりげなく私に話を振った。
「はい、分かりました。師匠」
こんな感じの空気でよかった。変に気後れせずに済んだ。水島君が目を丸くするのが分かった。無理も無い。今しがた結ばれた師弟関係なのだから。
「じゃあ、頼んだよ」
そう言うと、鮫島先輩はさわやかに手を振った。
五
水島君はパラソルを離れる前自分の上着をとると「肩、焼けます」と鈴汝さんの背中にかけた。鈴汝さんは水島君を見上げたが、「ありがと」と再びうつむいた。
胸がチクリと痛む。日の光は時に強すぎて目を突くようだ。私は意図して目をつむる。
いつの間にか昼過ぎだった。朝きちんと食べたため気にならなかったが、言われてみればお腹がすいた気がしないでもない。
「何で師匠なの?」
隣を見る。水島君は進行方向を向いたままだ。
「あ・・・・・・うん。ちょっと、いろいろあって・・・・・・」
まさか「水島君とこうしている時間をくれたから」なんて言えない。水島君は苦笑いすると「そっか・・・・・・。でもあの人気をつけたほうがいいよ」と言った。
気をつける? 一体何を気をつけるというのだろう?
「でも水島君・・・・・・師匠と仲いいんだよね?」
「いや」
否定早っ。コンマ何秒の世界・・・・・・って師匠と同じじゃん。
「僕はあの人、苦手だから」
そうして眉間にしわを寄せた。でも口元は笑っている。どういう心理なのだろう。
水面が太陽の光を反射してキラキラ光る。その後黙ってしまった水島君の隣を、私は一歩一歩大切に歩く。私にとってそれは、これ以上ないほど贅沢な時間だった。