真琴16〈2月9日(水)〉
文字数 4,260文字
一
焼かれる、と思った。
急激に上がる心拍数。身の危険を感じる。反応したのは本能。
何をされた訳ではない。それでも腰が引けるのは、火州さんのもつ空気に圧されるからだ。
〈分かんないの?〉
もしかしたらこの人は自分のことを好いているのかもしれない。可能性の話とはいえ、そのせいで直接向き合う前から浮き足立っていた。まっすぐ目を合わせられない。
〈真琴〉
苦しくなる。形を持たない「心」形を持たない「魂」そんな大事なものが呼ばれる度に揺さぶられる。怖い。何か自分にとって大きなものを奪われそうな予感がして怖くなる。
〈おい〉
怖い。近づかないで。これ以上。
これはまだ知らない感情。正しいのか間違っているのか判断できない。
だからそれは、私にできる精一杯の抵抗。
〈火州さんといるのは嫌だ〉
時刻は十八時半。すっかり日の落ちた濃紺の空には細かな星が瞬いている。蛍光灯が照らすのは細い背中。
「師匠、」
大きな歩幅。ついて行けず、合間に小走りをはさむ。振り返らない。その背中は私のためにある訳ではない。
「師匠、いいんですか?」
「何が」
冷える外気。不意にかすめた風に首をすくめる。
「火州さん。どうしたんですか? 何であんなこと・・・・・・」
ゆるまない歩調。手加減なしに先を急ぐ。思い出すのは以前火州さん宅に訪れた日の帰りのこと。
強張った横顔。触れたら切れそうな空気は、寝転がって甘える人が出す空気と思えない。
師匠は、危うい。大切なものが多すぎて、あちこち気にかけるあまり、結果自分の首を絞めている。誰かを大切にすることは他の誰かを傷つけることと隣り合わせであることに憤ってる。噴き出す矛盾に、まっすぐ歩けずにいる。
「何で・・・・・・」
師匠はそうつぶやいたきり押し黙った。それは火州さんに対してか自分に対して発したものか分からない。いずれにしても今の師匠は容量が一杯だった。
真っ赤なテールランプが灯る。エンジンをかける。以前これでも一応警察官の娘だと主張したが、全く聞き入れてもらえなかった経験があるため、渡されたヘルメットをかぶり、始めからその後ろにまたがる。
思い出すのは以前火州さん宅に訪れた日の帰りのこと。
二
あれは丁度一ヶ月前、一月始めのこと。
〈なぁ、お前アイツじゃダメな訳?〉
裏道に明るい師匠は「乗れ」と言うと車の行き交えない道をスイスイ進んだ。その明るさこそおおっぴらにできないこととイコールな気がしないでもないが、とにかく法律の目をかいくぐって無事家までたどり着く。
エンジン音。伏し目がちにつぶやかれた声。
〈悪いヤツじゃない。お前も分かったんだろ〉
決して大きくはないその声は、限られた音量の中で波打つ。何とか伝えようとしている思いがあった。
師匠にとっての火州さんは大きい。まるでそう在って欲しいと願うかのように。迷った末、開かれた口。
〈最近まで割と長くもった女がいる。それでももう会わないって。もうお前のキモチどうこうの次元じゃねんだ〉
師匠は、火州さんが大好きだ。その話し方は大切な友人を誇っていた。透ける真心。この人はこんな表情もする。
〈ホント、世話焼ける〉
思わずほころぶ。師匠、と言った。
〈師匠はやさしい〉
自嘲。柄にもなく、困ったように下がる眉。類友。この人もまた『悪いヤツじゃない』
〈結局好きになった方が負けなんだよ。万年負けっぱなしの俺は勝ち方なんて知らねぇけどな〉
偏った笑顔。負けるのは悪いことなのだろうか。例えば負けて、反省して、次に活かして、こんな人になれるなら、必ずしも負けを怖がる必要なんてない。むしろそれだけ好きになれる人に出会えたことの方がずっと幸せな気がした。
それだけ好きになれる人に出会えたことの方が。
パン、と眼前が開ける。浮かんだのは水島君。
やさしかった、大好きだったその声。それは昨日の放課後。
〈草進さん、鈴汝さんと付き合うことになったんだ〉
大好きだった声が切り裂いた。
まっすぐな目に陰りはない。どんな形であれ、いずれ知ることになることをわざわざ伝えたのは、大切な人を守るため。負の感情の矛先が完全に自分に向くように仕向ける。
まっすぐな目。映しているのは私ではない。ただそれだけのことを受け入れられずにいた。代わりに浮かんだのは作りものめいた輪郭。蝋人形のように強張った頬。
〈それは、できないわ〉
水島君のことを好きにならないと誓って欲しいと話した時、鈴汝さんはそう言った。
〈人の考えを縛ることなんてできないのよ。変えられるのは自分だけ〉
一見考え方をただそうとする姿勢の向こうに見えたのは、好きにならずにはいられないという本音。もうあとはなるようにしかならない。
分かっていた。水島君は前しか見ない。いつだって欲しいものに手を伸ばす。例えばそれが一般に困難だと呼ばれるものだとしても構わない。そうしてとうとう鈴汝さんを捕まえた。ずっと見つめてた、本当に大切にしたかった人を。
自分を否定された訳じゃない。それでも自分にとってこれだけ強い影響力を持つ相手に「あなたじゃない」と言われることは、世界に否定されると同義だった。大して広くない世界、あなたの容量は大きい。吸い込まれそうな深い穴。闇。なのにそこから
「・・・・・・っ!」
引きずり出される。
それだけ好きになれる人に出会えたことの方が。
他の誰かをかばうために宿った思いが自身を守る。
ずっと執着していたその人の、目元をゆるめた顔。
〈草進さん〉
のどが詰まる。駆け上がる想い。思い。
辛くて、苦しくて、悲しくて、寂しくて、
嫉妬して、演じて、縛って、憤って。
一見良いことなんてないように見える恋の中に息づく、ささいなやりとり。
〈浴衣やっぱり、似合う〉
〈最初それ言われたとき、本当に驚いた〉
〈・・・・・・礼を言うのは僕の方だ〉
〈勝ちきりたかった。二度とない、大事な試合だったんだ〉
例え見ているものは違っても、その時間を共有したのは私だ。間違いなく私だった。
三
「どうしたんですか?」
「ん」
坂を下りきった左手、小ぶりな橋の前で原付を止める。振り返ったのは今来た道だ。ここまで来る前、校門で見た光景。
明るい校門は向かいの中学校の野球部のライトによるもの。まぶしくて目を細めた端に映りこんだ黒い塊。制服ではない五、六人の男性の険しい顔つき。素行のよろしくなさそうな風貌。やりとりの合間に低い笑い声がした。
誰かを、待っているようだった。
「師匠」
その時だった。轟音。さっき見た集団がバイクで下ってきた。
二人、二人、二人。最後の一台の後ろに乗った男が師匠を指差して笑った。
「ノーヘル」
そう言う本人もかぶっていない。同類を見つけてうれしかったのだろう。車体を揺らして走り去る姿に不安を覚える。
「・・・・・・ケータイ貸して」
「え?」
「いいから」
師匠は私から携帯を奪い取ると、自分のものを取り出して操作を始めた。
「な、何してるんですか?」
「保険だ。いいか? いざとなったらココを押せ」
指差すのは送信ボタン。返された携帯の画面に表示されていたのは、たった今登録された「タカサキ」と元々あった「水島君」その文面は
「タコがタコ焼きタコ三昧・・・・・・?」
「召喚魔法」
いいか、いざって時だけだからなと念を押すと、師匠はハンドルをとって再びエンジンをふかした。その背中は固い。何だか嫌な予感がした。
新月。それは圧倒的な光の加護の及ばない日のことだった。
四
「真琴、期末いけそう?」
顔を上げると机の前に慶子が立っていた。たびたび忘れそうになるが、私はただの高校生。それ以上でもそれ以下でもない。元はと言えばテストという単語にちゃんとおびえる、健全な生き物なのだ。
一、二学期と違って中間がないため、範囲の広い三学期の期末。それは学期末という二つ名も合わせ持つ。内容は主要五教科プラス技術系の教科で計十一科目。二月末から三月頭までの四日間をかけて実施される。
つまり「無自覚で燃やしにかかってくる先輩」や「タコにとりつかれてる先輩」に脳みそを割いているヒマなどないのだ。あるいは皆が皆同じ気持ちなのかもしれない。あれからクラスは平和と取り戻しつつあった。
私は指先を組み合わせると静かに首をふる。慶子は腰に手を当てると「今回広いよねぇ」とため息をついた。
「ねぇ、明日一緒に勉強しない? あ、部活あるか」
明日は祝日、建国記念日だ。午前中は部活があるが午後なら空く。その旨を伝えると分かったと言った。
「じゃあ明日の十四時でどう? そっち行くよ」
「ん、じゃあそれで」
お昼だった。お弁当を机の上に出すと同時にバッグの中で携帯が震え出す。
数秒。まだ鳴り続ける。この長さは着信だ。
家かと思って見たが違った。心臓が飛び出しそうになる。異変に気づいた慶子が表示をのぞき込む。
「・・・・・・っ何なの!」
「違うの!」
すぐ様携帯を取ろうとする手を制する。
「違うの」
震え続ける携帯。それ以上の力で震えて脈打つ心臓。私はそれを胸に抱えると「聞いて」と言った。
一週間前の水曜、クラスに現れた火州さんと師匠を入口でとどめたのは慶子だった。
何度か顔を合わせている自分とは違う。それがどれだけ度胸を要することか計り知れない。
〈ここから先に入ってこないで下さい!〉
小さな背中。慶子は私より五センチほど小さい。
〈私たちには授業があってテストがあって部活があるんです。一時の気分で好き勝手荒らされては困ります。せめて節度を持って下さい〉
目を丸くしていたのは水島君。間に入ろうとするが、その前に動いた。
〈ありがとう、大丈夫だから〉
重心は後ろ。今度はここに留まる。自分でも驚くほど頭は冷静だった。
千嘉ちゃんが知ってる。水島君と、私と、火州さんと、師匠のつながりを。下手に関われば火の粉が飛ぶ。
〈お願いします〉
頭を下げる。これが正しいこの人達との関わり方。使い古したスリッパの学年色。本来来るはずのない教室。クラス内の音がなくなる。
その時だった。手を上げるようにして入ってきたのは千嘉ちゃんだった。
〈どうしてSランクの二人が〉
あの後結局連行された先で決まり事をつくって終わったが、慶子はその枠組みしか知らない。火州さんのことも師匠のこともその後のこともまだ話せていなかった。胸に抱いていた携帯が鳴り止む。
本来もっとずっと早く話しておくべきだった。もうあの人達は赤の他人ではない。
ゆっくり息を吸う。
「あのね」