飛鳥6〈8月15日(日)③〉
文字数 1,766文字
三
長くは浸からなかったが、それでも毒素は大分抜けたようだ。身体と同時に気分もさっぱりすると二人が来ない内に大浴場を後にする。備え付けの浴衣を羽織って廊下を歩く。この旅館の中はどこに行っても磯のにおいがする。
これはドアを開ける前から分かっていたのだが、部屋に入ると、高崎が大口を開けて眠っていた。いびきが部屋の外まで響いている。ドアを閉めて室内に踏み込む。
うわ。
よく見るとうっすら目が開いていた。俺は携帯を取り出して写真におさめると、電気を消した。手前にある自分の布団に腰を下ろす。高崎との付き合いは長いが、考えてみれば同じ部屋に泊まるのは初めてだった。網戸から、湿った風が入ってくる。俺は階下の電灯に照らされた空を見た。
高崎が驚くのも無理はない。俺でさえ、今もよく分かっていないのだ。勘違いしないで欲しいが、別に俺はあいつのことを「好き」だとは言っていない。高崎がどうとったかは知らないが、俺はあいつのことを「憎んでる」し、「うらんでる」し、「嫌い」だ。ただ、それだけじゃないのも確かで、それ自体何なのかまだよく分からない。
俺は上着のポケットからメガネを取り出すと、それをしばらく見つめた後、部屋を出た。浴衣にパーカーとはなかなか見ない格好だが、気にしないことにした。
「はい」
開いたドアから石けんのいい匂いがした。おそるおそる顔を出したのは真琴だ。もう風呂に入ったらしく浴衣を着ている。あの後俺は自分の部屋を出ると、女二人がいる角部屋に向かい、その薄いドアをノックした。相当な度胸がいった。
「鈴汝は?」
真琴は目をしばたかせて俺を見上げてくる。そうして輪郭と声で誰だか気づいたのか、中から押し開ける形になっているドアを少しだけ引いた。
おっと。
閉められないように、その上の方をつかんでおく。
「先輩は・・・・・・お風呂に行かれました」
うつむいた声は小さい。俺ははて、と思った。
「お前は? 一人で行けたのか?」
普通に考えて、メガネがなくて動けない真琴が一人で行けるはずないのだ。
「いえ、あたしは部屋の備え付けのお風呂を使ったので・・・・・・」
「そうか」
言いながら、廊下の窓を見やる。そうして息を吸うと、「なぁ、お前ちょっと出てくる気ないか?」と言った。真琴は目を大きく開くと、俺をじっと見たまま固まった。たぶん、よく見えてないから出来ることなんだろう。
・・・・・・コイツ、目ぇ日焼けの跡ついてやがんの。
俺のほうが負けて目を逸らす。
「いや、その、あれだ。どうせヒマなら散歩してもいいかと思って」
真琴は固まったままだ。しかし眉間にしわが寄ったと同時に、すかさず切り札を切った。
「メガネ、メガネある場所分かったんだ」
ちなみにこの言い方では「分かったなら何でそこで拾って来なかった」と言われたらおしまいだ。だからといって「はい、ここにあります」と出してしまったら、切り札の意味がない。そこの所真琴は何の疑いもせず「そうなんですか。行きます」と言った。しかし言ったはいいものの、すぐに自分が動けないことに気づく。そうしてさまよった視線は足元に落ちた。小さな指がカーペットを巻き込むようにして縮こまる。
「それは、分かってるから」
じれったくてドアノブにかかっている手を外すと、廊下に引っ張り出す。真琴ははずみで俺のふところにおさまった。
「すいません」
小さな手が俺の胸を押す。
「でも、あの、鍵とか」
今に限ってそんなのどうでもいい。
「あ、あと上着・・・・・・」
「だからいいって」
急がねぇと鈴汝が帰ってきちまう。
「く、靴」
「分かったから早く履け」
俺は仕方なくその腕を放した。そろえてよけてあったサンダルをとって履く。白いつむじ。
「すいません」
立ち上がる。俺はその白い腕を掴むと、長い廊下を歩き出した。一刻も早く角を曲がりたい。自然と足が速まる。俺は片手で口元を覆った。
危ねぇ。
「は、速いです」
「・・・・・・悪い」
曲がる。突き当たりにある階段の一段目に足をかけると、サンダルが音を立てた。
「足、気をつけろ」
コイツ、今メガネなくてよかった。
前を向く自分の顔が、ひどく熱をもっているのは分かっていた。