真琴6〈8月15日(日)③〉
文字数 1,765文字
三
部屋に戻ると、先輩は横になりながら分厚いテレビを見ていた。姿勢を変えず、声だけが飛んでくる。
「遅かったわね。鍵ぐらい閉めていって頂戴」
「はい、すいませんでした」
私はパーカーを隠しながらサンダルを脱ぐと、それを素早く自分の布団の中につっこんだ。
「どこ行ってたの?」
身体を震え上がらせる。しかし先輩はテレビを見たままなので、バレずに済んだ。
「あ、と・・・・・・お散歩です」
「一人で?」
まずい。ここで火州さんの名前を出すのは予想以上に勇気がいる。
「はい。メガネは、その、鮫島先輩が見つけてくれたみたいで」
とっさに先輩があまり関わっていなさそうな人を挙げる。鮫島先輩は今日、ほとんど誰とも話していないはずだ。こっちから振らない限り、まず話題に挙がることはないだろう。
「ここへ持ってきたの?」
「はい」
心臓がヒリヒリする。しかし仕方のないことなのだ。ウソも方便。身から出たサビ。あれ。
先輩はその後、「そう」と言ったっきり黙ってしまった。テレビから陽気な笑い声が聞こえてくる。それはまるで今この空間に足りないものを必死で補っているかのようだ。私は歯ブラシをとり出すと、洗面所に向かう。
「真琴」
その時突然呼び止められて驚く。私の名を呼んだ。
先輩はついていた肘を外すと、折りたたんで再び頭の下に敷く。
「夜、一人で出歩くのはやめなさい。危ないから」
息を呑む。相変わらず聞こえてくる、にぎやかな笑い声。
「あ、はい。分かりました」
私は何とかそう答えると、洗面所のドアを開けた。目の前の鏡に映った自分も驚いている。洗面所はいいにおいがした。ふと目をやった鏡の下の台のところに、先輩のシャンプーが置いてあるのを見つけた。
歯を磨き終わってシャワーを浴び、寝室に戻ると、笑い声はなくなっていた。
「疲れたわ。もう寝るわよ」
そう言うと、私が歯ブラシをしまうのを待たずに、先輩は電気のコードを引っ張った。豆電球がついているところに、その優しさを感じることとする。その後私も布団にもぐるが、違和感を感じてその中を見る。あぁ、そうだ。火州さんのパーカー。
どうしようかと一瞬迷うが、出しておいたら見つかってしまうので、そのまま一緒に寝ることにする。火州さんのにおい。加えてほんのり潮の香りもした。
「せ、先輩」
遠く、波の音。返事がない。もう寝てしまったのだろうか。オヤスミ三秒なんて人種がいるが、その中の一人なのだろう。私ももう眠ることにした。
「何よ」
しばらくして返事があった。あわてて覚醒する。
「あ、あの、今日、ありがとうございました」
「・・・・・・別に」
先輩はそう言うと、寝返りを打った。おお。「別に」がこんなに似合う人が、テレビの外にもいた。再び布団の衣擦れの音がする。
「・・・・・・ねぇ」
先輩の呼びかけに、身体ごと寝返りを打って応える。先輩は向こうを向いているようだ。
「あんた・・・・・・飛鳥様を助けたって本当?」
一瞬頭が真っ白になる。助けた・・・・・・って例のあの「俺と勝負しろ」事件に関わるあれこれのことだろうか。
「あんたが中学の時のことよ。あんたが飛鳥様を助けたんじゃないの?」
良い滑舌。聞き間違えようのない声で聞く。何で先輩がそんな事を知っているのだろう。
「助けた・・・・・・っていうのは分かりませんが、助けに入ったのは事実です」
「何よそれ」
ごもっともで。私は火州さんの時と同じ事を話す。時々空気を読みながら入ってくる波の音は、どこまでも涼やか。
「・・・・・・そうだったの」
話し終えると先輩は静かにそう口にした。
「それは気の毒だったわね」
「いえ、もう過ぎたことですし、今は何とも・・・・・・」
そういえばさっき父と話をしてもらったのだ。あながち完全な他人事ではなくなっていたのだろう。静かに漂ってくる潮の香り。窓は開けたままらしい。音もなく空気が流れる。
「その話は一体どこから聞いて・・・・・・」
「・・・・・・飛鳥様からよ。あたしも間接的に関わっているから」
「間接的に・・・・・・?」
先輩は、ふっとため息をついて黙った。何だか「大人の事情」的な雰囲気が漂っていて、それ以上深く追求しなかった。