真琴12〈11月28日(日)〉

文字数 5,882文字



  一

「アメフラシって名前、ギリシャ語の『盾を持たない』から来てるんだって」
 そうなんだ、と見やると、なかなか刺激的な写真が並んでいた。軟体動物。私には巨大なナメクジにしか見えない。
「でね、このこがキャシー。こっちがピーター」
 反対側を向くと、両手に持ったままの人形が取り替えられた。華やかなドレスを身にまとった、金と茶髪の八頭身。その小さな顔を彩る真っ赤な口紅は、私だってまだつけたことがない。
「それとは別に、海ん中でむらさきの液を出すと、それが雨雲みたいに広がることからアメフラシって名前がついたっていうのもある」
 そうなんだ、と見やると「腹足綱後鰓目無楯亜目」という字が見えた。お経の一部かと思った。調べるほどにどんどん謎が深まっていくアメフラシ。実際むらさきの液とやらを出さなくてもその輪郭が見えなくなっていく。
「じゃあこのこは?」
 反対側を向くと、ショートカットの気の強そうな女の子を差し出されて固まる。さっき見た。神経衰弱とはよく言ったものだ。トランプじゃないけど、すり減らす神経。
「キ、キャタピー?」
「おい、お前それ人形じゃねぇよ」
 顔を出したのは火州さんだ。部屋着に着替えて、今は片手に包丁を持っている。
「もう! このこはジェシー! さっきいったじゃない!」
 謝るしかない。この場合、この頭の不出来を精一杯わびるしかない。
「で、つのが生えてるのが頭。背中の大きなヒダが特ちょうで、押すと中に貝がらがあるのが分かる。皮ふには毒があるんだって」
 反対側を向くと、そうなんだ、じゃあ触ったらちゃんと手を洗わなきゃいけないね。と言う。
「後鰓目」は貝殻を持たないって意味なのね。ってか切るとこそこだったのね。近しい生物はウミウシやクリオネ。クリオネなら頑張れそうだ。
「じゃあこのこは?」
「ク、クリオネ?」
「お前らいい加減にしろよ」
 何集団リンチかましてんだよ、と言うと、人形の入っていた箱を持ち上げる。礼奈ちゃんが声を上げた。
「片付けろ。で、一つ一つ出して遊べ」
 同じく鋭い視線を受けた楓君は、言われる前に図鑑を一冊だけ残してさっさと立ち上がった。押し寄せるモノがなくなってほっと一息つくと「悪いな」という声がした。




「時間、大丈夫か?」
「はい。でもそろそろ」
 時は一時間前に遡る。帰路の途中、電車を降りた途端礼奈ちゃんが「まことちゃんかえっちゃうの?」と言い出した。「は? もう帰るとかガキじゃん」と楓君も続く。結果、
「キャシーはね、おかしづくりがとくいなの。ケーキとかクッキーとか」
「ねぇ、今日アメフラシいた? ここにはさわれるって書いてあるんだけど」
 両脇を固められる。「そろそろ」という単語を察知する能力は、たぶんちびっ子の方が鋭い。逃げようとするものを追いかける本能。野生の習性と言っても過言ではない。ただ、
〈ウィンウィンよ〉
 カッと目を見開く。こっちも命がかかっていた。氷の女王の命に逆らう、即ち死すべしなのだ。時刻は十七時二十分。決死の覚悟を決めた時、再び声をかけられる。
「なぁ、お前何かつくれる?」
「何か・・・・・・とは?」
 イヤな予感がする。
「いや、何でもいいんだけど」
 鼻先をかすめた異臭。事態に反応した楓君と礼奈ちゃんが部屋を飛び出す。ただならぬ様子に後を追うと、台所に辿り着いた。立ちこめる異臭。これは
「よめ! 頼む!」
 楓君にガッと腕をつかまれる。口呼吸だ。
「まことちゃん! おねがい!」
 礼奈ちゃんにすがられる。涙目だ。
 焦げた鍋。煙の立ち上る黒い物質。あれは
「肉じゃがだ」
 血の気が引いた。肉もじゃがも見当たらない。あるのは煙を吐き出す黒い塊だけで、今にも無残な食材のうめき声が聞こえてきそうだ。
「頼む! ごしょうだ、よめ!」
 後生。難しい言葉を知ってるね楓君は。嫁じゃないけど。
「おねがいぃぃぃぃ!」
 もはや悲鳴をあげている礼奈ちゃんは、一刻も早くここから出た方が良い。そして口呼吸を習得するまでは安全のため出禁だ。
「火州さん」
 入口で気まずそうにしている大きな身体が身じろぎした。
「冷蔵庫、開けますね。あと調味料の場所だけ教えて下さい」
 言いながら黒い塊を袋に入れて鍋に水を張ると、代わりにフライパンを取り出した。
 これは慈善活動。そう言い聞かせて、冷蔵庫に手をかけた。




「あの、逆に大丈夫なんでしょうか?」
 スプーンを口にくわえた火州さんが目を上げる。大きな身体に不釣り合いなテーブルは、どうしても猫背を強要する。一方、楓君や礼奈ちゃんにはまだ大きく、突然現れた自分に最も適したサイズだというのが皮肉だ。間をとった結果、残念ながら誰にとっても微妙に不便、というのはよくある。
「親御さんは・・・・・・」
「ああ、大丈夫だ。基本帰ってこない。たまに帰ってくるのもほとんど平日の昼間だしな」
「二人ともですか?」
「ああ」
 黙々とカレーを食べ続ける楓君と「おにくー」と一つ一つ宣言をしながら食べる礼奈ちゃんを見る。
「礼奈は保育園、楓は小学生だからな。何とかなってる」
 幼稚園はムリだったけどな。そう言うと、再びスプーンを口に運ぶ。牛乳を飲む一口が、私の倍以上の量だった。
「じゃあ普段は火州さんが全部・・・・・・」
「別に何もしてない。飯は外食や宅配で済むし、洗濯も本当に着るもんがなくなったらやる。だから掃除はほとんどしてない。汚くて悪いな」
「いえ、」
「にんじんむりー」という声がした。横から手が伸びる。「食え」「いや」「食え」「いや」最終的に「いやだぁぁぁぁぁ」という叫び声とともに飲み込まれたが、それが吐き出されることはなかった。
「か、かたくない・・・・・・!」
 まるで世紀の大発見であるかのようにそうつぶやくと、他の具材より多めに残っていたにんじんをひょいひょいと片付け始める。
「かたくない・・・・・・!」
「いいから、食ってる時にしゃべるな」
 忙しいお兄ちゃんは、食べ終わったお皿を横によけると、ティッシュで礼奈ちゃんの口を拭った。しかし私はここで生じた矛盾を見逃さない。

 かたくない。つまり固いにんじんしか知らない。それは加熱不足。でもさっき火州さんは加熱しすぎてた。何故か。根菜は火が通りにくい。他のものと多少時間をずらして調理する必要がある。しかしそれを知らずの続行。時間がかかる。強火にする。〈お前らいい加減にしろよ〉
 ここだ!
〈なぁ、お前何かつくれる?〉
 事件はこの間に起こっていた!
「どうかしたか?」
「いえ、」
 たった今事件の真相が究明されたが、まさか言えるはずがない。代わりに
「今日は外食やめたんですか?」
 自分の介入で日常のリズムが狂ったのではないかと遠回しに聞いてみる。
「お前が気ぃ遣うだろ」
 その通りだった。つまりあのまま帰っていれば鍋は焦げ付かなかったし、食材も別の形で活かされていたのだろう。なんという罪深いことを
「違う。呼び止めたのはコイツらだ。で、今日はずっと外だったから礼奈がぐずり出す可能性もあった。これが最善だったんだよ」
「・・・・・・被害は出てますが・・・・・・」
「言うな」
 食べ終わった楓君が立ち上がると、食器を流し台に運ぶ。火州さんと私の分も運ぶ。一方礼奈ちゃんは、スプーンを持ったままいつの間にか船をこいでいた。その口元を再び拭う。
「寝ちゃっ・・・・・・」
「いつもの事だ。突然電池切れるからな」
 これだからガキは。そう言いながら抱き上げて連れて行く。その広い背中。
 私は楓君に「ありがとう」と言うと、そでをまくった。




 礼奈ちゃんの食べ残しを片付けて洗い物を始める。食器類が片付くと、さっきつけておいた鍋の水を流す。底の焦げつきはとれそうにない。それでもこすってみる。
 ごしごしごしごし。
 その時だった。視線を感じて振り返る。アーモンド型の大きな目。楓君は入口から近づいてくると、鍋を見て「ふぅん」と言った。そのままそこに留まる。洗浄を再開する。
 ごしごしごしごし。
 楓君は動かない。じっと鍋を見つめている。声をかけようとしたその時だった「飛鳥は」ようやく口を開く。
「あいつは何もやってなくない」
 その頬が固い。何かを我慢しているように見えた。
「あいつは全部やってる」
 水を止める。タオルで手を拭う。両手で受け取るべき事をこの子は伝えようとしていた。
 かがんで膝に手をつく。小さな鼻には毛穴一つない。産毛が見えるような頬。
「昨日もちゃんとしてた。そうじ」
 上がりまち、ポイと渡されたスリッパ。裸足で駆け回る楓君は、自分の足の裏を見せた。ちょっと残ってるけど、とも言った
「そっか」
「だからまた遊びに来いよ」
 目が合う。お兄さん譲りのりりしい眉。思わず頬が緩む。
 やくそくだからな、そう言い残すと、楓君はくるっと背を向けて駆けていった。
 向こうから「お前歯みがいたかー」という声がした。


  五

 この季節の夜は長い。早い内から助走が始まる分、とっぷり暮れるとどこまでも深く沈んでいく。飲食店の建ち並ぶ通りはまだしも、ただの街灯ではその深さとは戦えない。
「悪かったな、遅くまで」
 吐く息が白い。時刻は十九時半。徒歩で駅に向かう。知らない道ではないため、一人で大丈夫だと言ったが、却下された。
 あの後礼奈ちゃんはムリヤリ歯をみがくと、そのまま眠りに落ちた。同じく楓君も数分の差で同じように寝入った。微動だにせずこんこんと眠り続ける二人を見て、火州さんが「どっかの誰かさんのサンゴみてぇ」と言った。けれどもよく見ると胸の辺りが上下している。呼吸までコントロールしていたと本気度の違いを説明すると、ただ笑われた。
 口の大きな人だなと思った。笑うと顔中が笑顔になる。自分で言っていてよく分からない。
「いえ、楽しかったです。礼奈ちゃんかわいかったですし」
 やわらかな頬。吸い付くような肌。楓君と三人で畳の広間で過ごしたのを思い返す。日常にはない形の平和な時間。
 その後、応えておいて本来の目的を思い出す。
「これで、大丈夫ですか?」
「ん?」
「これで許されたんでしょうか?」
 私は今日一日、火州さんに許してもらう努力をするためにここに来たのだ。実際〈ウチの妹が出かけたがってるんだが、野郎一人じゃ何かと不便で、一緒に来てくれないか〉というのが火州さんの望みだった訳だけれど、努力云々関係なく純粋に楽しんで終わってしまった感が否めない。その事を伝えると、火州さんは頬をかいた。
「もう、いいにしねぇ?」
 言葉を選んでいるようだった。進む先を向いたまま続ける。彫刻のような雄々しい輪郭。
「俺も、その、よく分からんこと言って困らせて悪かったし、別にお前だけがどうこうって話でもないだろ」
 白い息。車が通った。信号の色が変わる。そのたびに目の奥に焼き付く表情。
「俺は、楽しかった。アイツらも楽しんでた。それでいいにしてくれねぇか」
 それでいいにしてくれねぇか。それはまるで許しを乞うかのようだった。そして
「俺は」
 どうしてだろう。一瞬、大きなこの人が、自分よりずっと強い力を秘めたこの人が、とてつもなく無防備に見えた。
「今日、お前がいてよかった」
 照らす。飲食店の建ち並ぶ通りに出る。すれ違う千鳥足のスーツ。腕を引かれる。やっぱり敵いようのない強い力。勢いでその胸に手をつく。ライダースジャケットの隙間。厚手のセーターごしでも分かる高い体温。動揺を悟られる前に身体を離す。
「・・・・・・え?」
 一瞬ついた手。その身体はかすかに震えていた。気のせいかと思ったが、口元に手を当てて肩を震わせている姿から、気のせいではなかったようだ。
「・・・・・・何ですか?」
「いや、」
 その手が外れる。思った通り、顔中を口にして笑っていた。
「・・・・・・カレー臭」
 一瞬加齢臭と変換されるが、すぐに気づいて抗議する。
「だって、まだ歯みがいて・・・・・・」
「分かってる」
 分かってるから。悪い、と言って前を向き直る。そういえば火州さんは礼奈ちゃんや楓君と一緒に歯をみがいていた。再び黙々と歩き出す。にぎやかな駅前。




「・・・・・・悪かったって」
「・・・・・・いえ、こちらこそ」
 駅に近づくほどに人通りは増える。まだ充分人の行き交う時間帯だった。細い歩道が歩きづらい。と、
「ほら」
 歩道に沿った縁石に誘導される。
「こっちなら歩きやすいだろ」
 笑顔が近い。身長差が縮まったためだ。マフラーで口を押さえながらあわてて言う。
「楓君や礼奈ちゃんが怒りますよ」
 よい子はマネしちゃいけない。でもダメと言われるほどにやりたくなるのが子供だ。
「アイツらだったら抱えて行けばいい。さすがにお前はムリだろう」
「パンツ見えちゃいますからね!」
 憤慨しながらも、確かにこっちの方が歩きやすいと思う。ちびっ子は足を滑らせて危険だけれど、いい大人はそんな事ないからいいの
「っと! 危ねぇな。やっぱやめとけ」
 ・・・・・・だとは限らないから、やっぱりいい大人もマネしないでね。
 その後火州さんから降りるように仕向けられたが拒否した。キラキラと光る店先。街灯。車のテールランプ。寒空の、だからこそ澄んだ空気にはっきりと冴える数々の光は、特別なものでなくてもキレイだった。たった十センチ高い所から見える世界もまた、輝いて見える。と、隣からため息が聞こえた。
「手、貸せ」
「え?」
「危ない」
 危ないから降りろ、ではない。仕方なく利かせた融通。
「いいお兄ちゃんですねぇ」
「しばくぞ」
 笑った。
〈もう、いいにしねぇ?〉
 バツが悪そうにかいた頬。嫌な思い出があると言っていた。この人もまた、本来しないような事をしていたのかもしれない。だとしたら
 この人から暴力を引いたら、ただのやさしいお兄ちゃんしか残らない。
 その手を取る。高い体温。予想外に驚いたのは身体だった。
 あつい。
 熱が伝わる。ふつふつと、汗ばんだ手。伝わる。もっと別の、何かが、
 手の取り方一つで。
 転ばないようにちゃんと足元を見る。その合間、かすめた横顔。
「・・・・・・ゆっくりでいいから転ぶなよ」
 喉が鳴った。返事ができなかった。
 こっちを見ない横顔を、行き交う車のヘッドランプが照らす。その真っ赤な耳。
 動揺。再び踏み外す。
「はい終わり。お前もうこっち歩け」
 大きな身体。長い腕に巻き取られる。ムリ、なんて口では言っても、この人はきっと私一人なんてゆうゆう担げるのだろう。その服に擦れる頬。火州さんのニオイがした。
 高い体温に守られて、寒さを忘れる。自分が、一杯になる。
 熱が伝わる。




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登場人物紹介

草進真琴(そうしんまこと)

高一女子。モットーは「私はただの高校生。それ以上でもそれ以下でもない」

6月10日生まれ、A型。


作画、いく。

火州飛鳥(ひしゅうあすか)

女嫌いの高三。美形。

9月2日生まれ、B型。


作画、いく。

鈴汝雅(すずなみやび)

男嫌いの高二。美人。

3月3日生まれ、O型。


作画、いく。

水島聖(みずしまひじり)

病んだ高一。思い込みが激しい。

6月27日生まれ、A型。


作画、いく。

鮫島勤(さめじまつとむ)

高三。飛鳥の友人。

2月2日生まれ、AB型。


作画、いく。

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