飛鳥3〈6月19日(土)②〉
文字数 1,301文字
二
吐き気は少しだけマシになった。
「お前、このやろ」
言うと、鮫島はタバコをくわえたまま口の右端を吊り上げた。膝を折って目の前にかがむ。
「俺ちゃんと言ったもん『後で文句言うなよ』って。聞こえただろ?」
言われてみればそんな気もするからどうしようもない。それでも鮫島は「悪かったな」と言った。そうして上着ポケットから携帯灰皿を取り出す。灰を落として再びそれをくわえた。
「で?」
携帯灰皿のふたを閉める。
「何があった」
高崎が、いろんな人のいろんなことを知ろうとするのに対して、鮫島は自分が興味を持った相手のことだけ詳しく知りたがる。その代わり、高崎が自分のことをほとんど話さないのに対して、鮫島は必要ならば惜しげもなく何でもさらす。
自分と相手の考え方が真逆なんだろう。しかし形はどうであれ、互いを必要としている。それだけは何があっても変わらなかった。
「あいつを見つけた」
「あいつって? あの草進とかいう子に何か関係あんの?」
言いながら後ろにケツを下ろす。
「関係が、じゃない。本人だ」
「は?」
その顔がゆがむ。
「俺、今『あん時』お前を助けた奴の話をしてるんだけど、もしかして違ってた?」
「違ってない」
その表情は曇ったままだ。もちろん納得していない。
「その内高崎にも話す」
「待って。じゃあ『あん時』お前を助けたのが草進って子だって言ってんの?」
「そうだ」
数秒にわたる沈黙。その後鮫島は「よく分かんね」とつぶやいた。
前に『このこと』を高崎と鮫島に話したが、その時名前までは出さなかった。
「でもなら何でとっとと叩かないの?」
「それが、どうも向こうがそん時のことを覚えてないらしいんだ」
「・・・・・・本当に本人で間違いない?」
「あぁ」
マジかよ、とつぶやく。
「最初は見つけて叩いて、それで終わりだと思ってた。けど」
頬のあたりに視線を感じる。
「どうもおかしいんだ。あんな弱そうなやつが『あん時』のやつとは思えない。けどあいつなんだ」
おかしいのは分かっている。ただ、たぶん間違ってはいない。
「それで、怯んだわけだ」
鮫島は気を遣わない。その通りだった。
「だろうね。で? 今は?」
「とりあえず何かきっかけに思い出さねぇかと思ってるんだが・・・・・・。向こうが覚えてないんじゃ意味がない」
「何か変わった?」
「・・・・・・」
「だってよ、火州。普通忘れなくない? 男四人の中に女一人で飛び込むんだよ?」
イカれてるとしか思えねぇよ、とスリッパの裏側をくっつけて膝を揺らす。
「でもその子はそんな思い切った行動をとったわけでしょ? それを忘れちまうってことは何か他に精神的なショックがあったとは考えられない? 例えば雅ちゃんみたいに」
「もういい」
さえぎる。
「俺は今ここにいる。『あの時』あいつが来なければなかったかもしれない」
間違いなく助けられてんだよ。と言うと、鮫島は膝の動きを止めた。
光の入る角度が変わる。ゆっくりと暗くなる。階段の下はやけに明るい。人が通るところはちゃんと蛍光灯がつくからだ。