聖9〈9月14日(火)〉
文字数 6,007文字
一
突き上げる感情は既にとても制御できるようなものじゃなくなっていた。
小さなイライラが積み重なり、巨大なストレスに進化する。その暴走を殺すことができず、結果、ぶつけるようなパスを出す。その弾道上にいた相手チームの先輩が身体をひねった。
「っぶね!」
射るような視線を無視して中に切れ込むが、ボールは止まったままだ。
だから今欲しいんだよ!
舌打ちを何とかかみ殺す。抜けた先、センターをやっている先輩と目が合った。味方なのに敵のような目をしていた。笛が鳴る。
十六対四。
「交代!」
ごっそり出て行ったコートに入れ替わりの十人が入る。僕は自分の飲料を口に含むと振り返った。小動物並みの早さで脈打つ心臓。汗が背中を伝った。熱気のほとばしるコート。ボールが上がる。
フルコート。今日は本来相方であるはずのバトミントン部が休みのため、バスケ部が体育館を独占している。いつもは横に使うコートを縦に使う。
「水島」
手首につけた蛍光色のヘアゴム。声をかけてきたのは同じチームの野上さんだ。その表情が険しい。
「何あれ。あんなのとれないんだけど」
「完全にマーク張り付いてたんで、早いパスを出しました」
半分本当で半分嘘だった。ゆるいクセ毛。手首につけたままのヘアゴム。野上さんは本番にならないと力を出さない。今もできるだけ動かなくて済むようにしていた。フォワード。斜め四十五度からの圧倒的な得点率が、彼をスタメンとして根付かせていた。
「だったら他出せばよかったんじゃないの。あんなの出されても動きようがないんだけど」
「動けますよどうとでも。あれだけ張り付かれて、ドリブル一本で抜けない方がおかしくないですか」
「水島!」
入ってきたのはキャプテンの円さんだ。
「お前いい加減にしろよ。自分の考えだけが全部正しいと思ったら大間違いだぞ」
得点板の真ん中の数字が〝一と二分の一〟になった。息の上がったコート内から「上がれ上がれ」という声が響いてくる。ビブスの橙が目を突いた。
「何が違うって言うんですか」
「何が、じゃない。お前の考えだけを押しつけるなと言っているんだ。一人一人見ているものが違う。同じ目標があっても辿るルートが違う。お前の描くゴールシーンが全てじゃない」
そうして声を荒げて言った。
「まずは従え。何をしようとしているのか、お前が汲み取る所から始めろ。チームプレイができないなら容赦なく外すからな」
十六対四。四が僕たちのチームだった。スタメンはばらけている。個人の実力で言ったら、決してこんな差にはならない。何より
「パスのタイミングがなぁ。何かやりにくいんだよなぁ」
人よりはるかに動かないとはいえ、一クォーター得点ゼロの野上先輩なんて見たことがない。圧倒的なオフェンス力。このコート上、点取り屋であることが彼の存在意義なのだ。
得点板の真ん中の数字が〝二分の一〟になる。横並びになった先輩達は誰一人目を合わそうとしない。笛が鳴った。
「交代! Aチーム入れ!」
〈お前のはただの自己満足。そんなのに利用されて、雅ちゃんかわいそう〉
冷静になれば分かる事。でもいつだって冷静でいられるはずがなくて、大切な人の前でこそボロが出る。いい格好をしたいという欲が足を引っ張るから、背伸びした所でむしろマイナス。
焼き付いて離れないのは火州先輩を見上げた横顔。「飛鳥様」と呼べない彼女は、想いを発散する術を持たない。持たないが故、表情に仕草に嫌というほどにじみ出る。本当は伝えたい思いがある。なのに目の前にいるだけで、ただそれだけで自分が一杯になってしまう。そんな外部の刺激を一切受けつけない自己完結型の恋愛は、不毛以外何物でもない。そうしてそんな思いにとらわれている人に重きを置く事もまた不毛に違いない。けれども大事なのは鈴汝さんにとって頼れる相手でいることであり、そのためだったら何だって利用すると決めた。決めたのだ。けれど。
モップをかけ終わって倉庫にしまう。出た所でBチームの先輩とかち合った。
「調子乗ってんじゃねぇぞ」
すれ違いざまにドン、と肩をぶつけられる。元々十センチ以上体格差があり、体つきも僕よりずっと恵まれている。
なのに選ばれないってどうよ。
芯に残る衝撃の余韻。あの人と交代する位だったらキャプテンに従おう。なんて。
イライラする。分かってる。全部八つ当たりだ。自分ばかり苦しい思いをするのに耐えきれず、彼女を傷つけたことだってそう。失恋直後だと知っていてわざとスズナを引き合いに出したり、わざと自転車で怖い思いをさせた。本当の事を言えばあの時、このままどこかに突っ込んで死んでしまってもいいとさえ思った。フラれても懲りずに火州先輩を追おうとする事に対する、これは罰なのだと。
イライラする。大事な事をはき違えないために決めた事が、どうしても自分になじまない。頭では分かっていても、大事なのは己のプライドじゃないと分かっていても、どうしてもまだ飲み込みきれないでいる。分かっていても悔しくてたまらない。
本当は僕だけが彼女を大切にしたいのに。
本当は僕だけで完結したいのに。
大事なものこそ、指の間をすり抜けるようにしてこぼれ落ちて行ってしまう。
〈お願い、本当の事を教えて〉
今のままじゃ僕は何一つ彼女の力になれない。
二
ひんやり湿度が上がったような気がするのは、昼間との気温差のせいなのだろう。
「お疲れ様です」
練習が終わると同時に戸締まりをする。戸締まりは一年の仕事だが、人数がいるため数人ずつのグループに分けて交代でやっている。今日は僕たちのグループだった。
「水島ースポドリ持ってくぞー」
手をあげると、シャッターに手をかける。
ガァン。
重量のある錆び付いた雨戸は、動きが悪いクセにごくたまに滑るから危ない。一度だけ指を挟んだ事があるが、しばらく声が出なかった。細心の注意を払いながら一つ一つ締めて回る。三カ所閉めた所で反対側から戸締まりして来ている相手とかち合う。この雨戸が最後だった。
あれ?
その時だった。見覚えのある人影を見つける。
「鮫島先輩」
すっかり日の落ちた外は暗い。鮫島先輩はまぶしそうに目をすがめて歩みを止めると、ギリギリ届く大きさの声で「何」と言った。
「今帰りですか?」
その細身のシルエットがゆっくりと光に照らされる範囲までやってくる。本当にまぶしそうだ。深い眉間のしわ。細い目がもはや線だ。
「そだけど」
「一対一やりませんか?」
「えー」
俺ヒマじゃないんだけどーと言っているのを片耳で聞きながら「山川」と同級生を呼び止めてバッシュを借りる。体型こそ山川の方が骨太だが、身長が同じ位だからサイズも近いに違いないと思ったのだ。さっさと体育館に上げてしまう事で足止めをする。聞きたいことがあった。
「これちょっと大きいんだけどー」
一緒に戸締まりをしていた同級生に施錠を引き受ける旨を伝えると、入口の扉を閉めてボールを持って戻る。思ったよりもずっと素直にバッシュを履いているつむじを見下ろしながら口を開いた。
「・・・・・・草進さんから聞きました。僕に渡そうとしたカップケーキを鮫島先輩に食べられてしまったと」
「ん。ねぇ綿とか持ってない? 先っちょ詰めるの。これだとカポカポしちゃう」
「持ってる訳ないじゃないですか。ぬいぐるみじゃないんですから」
「ぎゃはは。『僕の綿をあげるよ』ブチィみたいな?」
こぇぇと言いながら靴紐を締め直している。長く余った部分を二重の蝶結びにする。
「『カップケーキ二個でこの間の件はチャラにする』と聞きましたが、本当ですか?」
キュ、とバッシュを鳴らす。「うん、おっけ」と言うその顔が上がる。
「ほんとだよ」
「見くびらないでください。そんな事で相殺されるような案件じゃない。本当はもっと大きな」
「対価が必要。そだね。でも本来それを払うのは水島君じゃない」
寒気が走る。まっすぐ見つめる。どうしても見上げる形になる。
「鈴汝さんは・・・・・・」
「大丈夫だよ。雅ちゃんは何も知らない。俺も認知しない。だから支払い義務は発生しない。よかったね」
言いながらボールを要求する。渡すと同時にドリブルを始めた。
三
ダム。ダム。ダム。
両手で落としてとる。落としてとる。落として、とる。
試合中にやったらダブルドリブルだが、まなざしそのものは真剣だ。
「バスケ、やってたんですよね?」
「ん? まぁ」
「キャプテンって呼ばれる程上手かったんですよね?」
「そなの? 知らね。でもホント、何でもできちゃうって罪だよね」
ダム。ダム。ダム。
その音が止まる。鮫島先輩はボールの表面をなでると顔を上げた。
「ん。で? 何がしたいの?」
「一対一を」
「ん。だからその目的は何? 俺抜けばいいの? あのカゴにボール入れたらいいの? 華麗に舞えばいいの?」
「・・・・・・。・・・・・・二番で」
「いいの? 本当に舞わなくていいの?」
「はい。リアクションする僕の身にもなって下さいよ」
「ふーん。じゃあ俺攻めだけでもいい? 制服だし、あんま動きたくないんだわ」
学ランを脱いで、今は白のワイシャツだけだ。細身のラインがさらに際立つ。
「はい」
ボールを脇に抱える、その口角が上がった。相変わらず偏った笑み。
「で、何点取ったらいいの?」
僕が攻めることがない以上、二点で充分だろう。何本かやって、その内一回も決めさせなければ僕の勝ち、ということだ。
「おけ。じゃあお前現役で俺OBだから、二回攻めさせてよ。あのカゴに入れればいいんだよね?」
「え、鮫島先輩OBなんですか?」
「一度言ってみたかっただけ! そこ食いつかなくていいの!」
地団駄を踏んでみせるが、もちろん全くかわいくない。僕は「分かりました」と言うと、ボールを受け取った。先輩はスリーポイントラインの外側で手のひらを向けて待っている。
一応やっていたんだな。
一対一はいきなり始めない。一旦ディフェンスにボールを預けて返されると同時にスタートする。僕はキャプテンどうこう以前に、鮫島先輩がバスケ経験者であることを確認して、どこかほっとしてボールを返した。
しかし次の瞬間、僕はその愚かさに深く反省を強いられることとなる。
鮫島先輩は再びボールを受け取ると、フェイントも何も一切入れず額の前にボールを掲げた。はっとして身体を動かすが、もう遅い。
その柔らかな手首から放たれたボールは、大きく弧を描いて「カゴ」に吸い込まれていった。一度だけリングの手前を揺らしたが、その後は音無しくその枠におさまる。
呆然とする僕はあることに気づく。
「あーよかった。危ねぇ危ねぇ」
そう言う鮫島先輩がいつの間にかゴール下まで移動していた。僕はボールを目で追うのに夢中で、それさえ思いつかなかった。
「俺の勝ち」
いつもの通り口の右端だけ吊り上げると、バッシュを脱いでその場に揃える。そうしてさっさと帰ろうとする背中をあわてて呼び止める。
「ちょっと待ってください。今のは・・・・・・」
「言ったはずだよ」
行く先を向いたまま、その声は放たれる。
「俺は二回まで攻めてよくて、その内に二点取ればいい。方法は何でもよくて、あのカゴに入れればいい」
僕はその背中を食い入るように見つめる。
「おまけつきだよ。今の三点だからね」
ゆっくりと振り返る。
「大したことないね。もう試合出てるって聞いてたから結構やるのかと思ったけど、ボール返すと同時に腰も落とせないんじゃ、まるで素人だよ」
カッとなる。握った手のひらに爪が食い込む。
〈もう試合出てるって聞いたから〉
前もって把握していたんだ。どう考えたって、丸一年ブランクのある人間が、現役の僕と対等にやりあえる訳がない。増してやあの人は喫煙者だ。きっとドリブルだったら僕の方が
〈俺抜けばいいの?〉
息を呑む。背筋を汗が伝った。だからあの時わざわざそう尋ねたんだ。
〈だからその目的は何?〉
何を比べたいのか、何で勝負したいのか、鮫島先輩はあの時きちんとそれを尋ねていた。僕がその意味をよく考えなかっただけで、ちゃんと機会は与えられていたのだ。
四
外は静かだった。鮫島先輩は上着を着て革靴を履くと、そのまま帰ろうとした。その姿が闇に溶け込む直前、もう一度呼び止める。正しくあるために犠牲になったプライド。この人がいることで日に日に劣等感が募っていく。どんな形でもいいから一発食らわしてやりたかった。
自覚はある。僕は今、悪人の顔をしている。
「・・・・・・カップケーキ、あれだけの案件をチャラに出来るほどおいしかったんですか? 本当はそれだけの価値を見いだしたんじゃないんですか?」
振り返る。薄い身体。その表情は変わらない。
「手作りに」
変わらないが、代わりに得体の知れない圧をぶつけられた気がした。
「逆だよ。俺宛じゃないから食えた。アナタのために、とか絶対無理。すごいプレッシャー感じちゃうもん」
向き直る。暗闇の中で光る目。光の中にいるのは僕なのに、恐れるほど引きずり込まれるような心地がする。闇に呑まれない光は、だから強い。
「ただ、今のは弟子に対して失礼だよ。あいつが何考えてるか知らないけど、誰にでもやれるもんをわざわざお前用にとっといたんだ」
低燃費。最小限の労力で動くその人が声を張る。さっき感じた圧の正体は怒りだったのだと認識する。
「うまかったよ。少なくとも人一人笑わせられる位にはね」
突き刺さる。自分には出来ない事を突きつけられる。僕はただ、彼女の役に立ちたいだけ。それはそうする事であの人の喜ぶ顔が見たかったからだ。
申し訳なさそうにチャラの件をを伝えに来た草進さんは、そもそもそんな労力を使う必要もなかった。ゼロがマイナスになる訳じゃない。何も起きなければゼロはゼロのまま。たぶん鮫島先輩が何も言わなければゼロで終わったものを、僕に必要な情報として提供したのだろう。労力として本人にマイナスが生まれても、僕には確実なプラスになる。あの時ちゃんと感謝を伝えただろうか。
「もう帰っていい?」
「あ、はい。すいませんでした」
なんとも情けない声が出る。何に対しての謝罪かも分からない。自分の言動に吐き気がした。闇夜に影が溶けきった後、最後のシャッターを閉める。時刻は二十時を回っていた。ボールを片付けて入口の施錠をする。
〈お前の考えだけを押しつけるなと言っているんだ。一人一人見ているものが違う〉
狭い視野を自覚する。己の余裕のなさが他の誰かを傷つける。
〈まずは従え〉
ゆっくり息を吸って吐く。目を閉じる。
「調子乗ってんじゃねぇぞ」
つぶやく。ちっぽけな自意識がなんだ。そんなもの守る価値もない。今の自分を受け入れなければ、スタートラインにさえ立てない。
ゆっくり息を吸って吐く。目を開ける。
完全に僕の負けだ。