雅9〈9月13日(月)〉

文字数 5,202文字

  一

 数ある色の呼び方を知らないあたしは、白と灰色の間に横たわる無数のグラデーションを正しく共有する事ができない。白に限ってもいくつもあるのだから、さかのぼってお手上げだ。やさしければアイボリー。具合悪そうならライトグレー。太陽との位置関係でころくる表情を変える雲は、長い廊下をけぶった色で覆っていた。湿り気のある床にスリッパが音を立てる。まだ雨は降っていない。授業の終わりはずっと外とにらめっこしていたから間違いない。地面も灰色であって黒じゃない。そうして図書室の前、屋上に続く階段に一歩足をかけた時、全身に怖気が走った。呼吸を忘れる。
 ちょっと待って。
 どうしてあたしは何事もなかったかのように屋上に向かおうとしてる? その前にどうしてそこに向かう前提で空模様の確認をしてた? 一体何をどこから間違って
 九月も半分。それまでちゃんと「あの場所」抜きの生活をしていたというのに。気を抜いていたからか、身体が覚えていたためか。どちらにせよ、あたしの行き先はこっちではない。
 リズムを刻んでいた心臓がギュッと縮こまる。これは、病だ。都合の悪い現実を思い出す。
 階段にかけた足を下ろし、来た道を戻ろうとすると後ろのドアが開いた。
「鈴汝さん?」
 出てきたのは水島だった。その片手に本を持っている。すぐさま反応できない。前を向き直ろうとすると、眼前を白いシャツが覆った。
「っと、大丈夫か?」
 聞き間違いようのない声が降ってくる。飛鳥様は一度足を引くと、まっすぐ目を合わせた。
「・・・・・・っ!」
 それこそ突然の出来事に声が出ない。会わない間何度も夢に見たその人だからこそ、言葉に詰まってしまう。
〈あたしは・・・・・・飛鳥様を・・・・・・一度だって兄だなんて思ったことはありません・・・・・・〉
 本当は謝りたかった。今までの関係を壊したくなかった。離れたくなんかなかった。そのためには今ここで変に気遣わせてはいけない。いけないのに、分かっていて不自然な間が空く。だめだ。早く自然に振る舞わなければ、友人としてさえ
「あの、この間はすいませんでした」
 振り返る。水島はまっすぐ飛鳥様の方を向いて言った。
「宿の階段ですれ違った時の。でも本音でした」
「・・・・・・。・・・・・・お前本当にそれ謝ってるつもりか?」
「謝ってるじゃないですか『すいません』と面と向かって」
「・・・・・・」
 飛鳥様は眉間にシワを寄せたままだったが「では」という一言で話は済んだようだ。水島はあたし達の横を通り過ぎると、そのまま階段を降りていった。

 アイボリー。雲が途切れて、ひんやりとベールの張られた廊下に光が差し込む。
「・・・・・・『この間』・・・・・・って?」
 眉間に寄ったしわがふっと緩む。
「いや、何でもない」
「・・・・・・気を悪くしないでください。あの子、あたしにも同じような物言いをします」
「・・・・・・そうか」
 笑ったのはどちらともなくだった。貴重な昼休み、わざわざ教室を離れてまでする立ち話ではない。偶然逸れた視線、は、同じ方向を向く事で結果的に寄り添った。
 たぶん向き合うことは大切。でもそれだけが正しい訳じゃない。あたしが謝ればきっとそれ以上の力で飛鳥様も謝らなければいけなくなる。それって不毛で、互いを失うだけで、だったら
「悪い子ではないんです」
 離れた所からでも同じものを見よう。その方がずっといい景色が見えそうだ。飛鳥様は一呼吸置くと「屋上行くか?」と聞いた。胸の奥が引き攣れる。
 それこそがあたしの今一番欲しい言葉だった。


  二

 体育館から明かりが漏れていた。すっかり暗くなった十八時三十分。野球部の照明もまぶしいが、設置されているのはグラウンド一つ分向こうだ。少ない光源一つ一つが、ものすごい力で広大な守備範囲を覆っている。おかげで完全に真っ暗な場所は存在しない。キュキュキュッとバッシュのこすれる音がした。
 着替えを済ませて部室を出る。風が涼しいと感じるのは、スカートに履き替えることで無防備になった太もものせいだ。砂にまみれたローファーが白くなっている。軽くはたくと渡り廊下に向かった。
 部室と体育館の間。トタン屋根の続く渡り廊下には、プラスチック製の板が張られている。よくプールで見かけるものでイマイチ用途が分かりづらいが、皆が皆その上を土足で通行している。おおよそ設置した人物の意図に沿った使われ方はしていない。
「鈴汝さん」
 角度の問題で丁度光源から影になるその場所は、体育館の東側にあるドアが開いた時初めて、輪郭をはっきりさせる。石段三段分高い位置から呼びかけると、水島は肩にタオルをかけたまま外に出てきた。前髪が浮いて珍しく額があらわになっている。大きな目に負けない濃い眉。
「ちょっと待っててください」
「嫌よ」と答える前に水島は部室に飛び込んでいった。石段をまとめて飛び降りる時風圧が頬をかすめたが、嫌なニオイはしなかった。
 あれ?
  その後、まだ濡れたままの髪を拭きながら出てくる。石けんの香りは芳香剤。靴のかかとを踏んづけている。
「お待たせしました」
「あんた、荷物生徒会室なんじゃないの?」
「ええ、今日はこっちを使わせてもらいました」
「一回なのに大丈夫なの?」
「はい」
 満面の笑み。子犬のようだ。片手を腰に当てて尋ねる。
「・・・・・・で『待って』って何? 何かあるの?」
「はい。行きましょう」
 かかとを収納すると同時に歩き出す。その背中に違和感を覚えた。
「あんた・・・・・・ちょっと背伸びた?」
「はい。この半年で三センチ程」
 違う。それだけじゃない。体育館から出てきた時感じた圧力。
「大きくなった?」
「はい。合わせて五キロ程」
「太ったって事?」
 困ったように笑う。
「筋肉の方が重いんです。身長マイナス体重の数値百十が理想で、身長の分体重も合わせないといけないので筋トレを増やしました。その結果だと思います」
「・・・・・・キンモ」
「鈴汝さん、人には言っていいことと悪いことがあると思うんですけど」
「何理想って」
「バスケをする人の理想の体型です」
 自転車を取りに行って来ると、荷台を指す。
「乗ってください」
「嫌よ。怖いわ」
「鈴汝さんにも怖いものがあるんですか?」
「バカにしないで。これでも生徒の鑑よ」
「生徒の鑑・・・・・・ですか」
 カラカラカラカラ。
 自転車を引いていくと、校門に辿り着いた。帰路。通常あたしはここからバスに乗る。振り向いて驚く。肩先の触れあう距離に水島がいた。
「生徒の鑑であらせられる会長様は、屋上に一体何の用があったんですかね」


  三

 怖い。やっぱり怖い。何が怖いかって
「早い早い早い早い!」
「静かにしてください。ちゃんとブレーキかけてますから」
 高校は丘の上にある。だから帰りは誰しも下り坂だ。今宵は満月。天気予報はきちんと当たっていて、今は空一杯の星が瞬いている。まぶしかった人工の光を離れて目が慣れると、かえって遠くの方までよく見えるようになる。
「あんた重いのよ! そのせいでブレーキかけても」
「いや、それを言うなら単純に鈴汝さんが」
「それ以上言ったらシバく!」
 坂を下ると大通りに突き当たる。右折。歩道沿いを走って信号を西。運良く青だったため、ノンストップで渡り切る。その後やっと目的地まで辿り着くと、荷台から降りた途端膝が笑った。近年まれに見る大爆笑だった。手をついて何とかなだめる。
「・・・・・・何かすいません」
 信じられない。何が怖いかって早さ以前に安全の保証が全くないって事じゃない。何回も点検してるアトラクションじゃないんだから、転んだらどうするつもりだったのっていう。
「大丈夫ですよ」
「分かんないじゃない。たまたま上手くいっただけで」
 所詮結果論。しかし当の本人はツンとしている。荷物を持ってさっさと歩き出す。
「スズナの時だって一度も失敗した事ないですから」
 そうしておもむろに振り返る。その背後に夜空が見えた。キラキラ光る無数の星があたし達を見下ろしている。
「どうぞ、座ってください」

 肌寒さを感じたのは、芝生の表面が照り輝いているのを見たためか。水分をはじくそれは、はじいた分だけ周りの温度を下げる。汗が冷える。制服はまだ夏のままだ。いつもなら部活が終わったら即行帰宅するから、汗が冷えるなんて想定していない。
「あんたの部活って体重管理までするものなの?」
「はい。全員が全員って訳ではありませんが」
 水島は前を向いたまま答えた。
「でもたかが部活でしょう? そこまでする必要があるの?」
「あなたと変わりませんよ。あなただって日焼けしてまで外で戦ってる」
「それはテニスを選んだ時点で覚悟した事だわ。汗臭い蒸し風呂の中で戦うことを選んだのと同じだと思うけど」
「相変わらずすごい言い草ですね」
 風がなでた。思わず腕をさする。それに気づいた水島がバッグをあさった。
「すいません気づかなくて。使ってください」
 そうして肩に羽織るようにかけられたのは大判のタオルだった。
「いいわよ」
「気休めです。誘ったのは僕ですから。一応使ってないものですけど、荷物詰め込んだ中にあったんで、汗臭かったらすいません」
 アシックス。白地に赤い文字で描かれた大きなロゴ。再び座り直す。
「・・・・・・好き、の形の違いじゃないですかね」
 その横顔を見る。遠くにある電球。ぽっかり浮かぶ月。星がよく見えるここは本当に静かで、何にも邪魔される事なく、言葉がまっすぐ入ってくる。
「あなたにとっては対象の傍にいる事が愛情表現。その事だけを考えて、勝敗に振り回されて、それでも好きだからそこに幸せを見いだす」
 違いますか? そう言った頬のなめらかなこと。館内で蒸される事によって老廃物すべてが出ていくのかもしれない。幼さと言ってしまえば簡単に片付けられた。でもそうできなかったのは、分析して言葉にするその力が年の割に大人びていたからだ。
「そうかしら」
 ゆるやかな目元。その様子はただ純粋に会話を楽しんでいる様にも見えた。


  四

「・・・・・・一方僕は対象とは別に目標があり、そこに辿り着くために必要なものを揃えていく。内一つが肉体の管理であって、それは競技そのものを楽しむためにも必要なものだと思っている」
 競技、と聞いて我に返る。必ずしも競技の事だけを言っている訳ではないように思えた。
 うっすら白いローファー。いつの間にこすれたのか、指一本分の線が甲を横切っていて、かえって汚い。だったら全部真っ白の方が元々そういうものとして見られる。水島の靴は半年経った今もキレイだ。館内スポーツの部室だから砂も入り込まないのだろう。
「火州先輩はもういいんですか?」
「・・・・・・え? ええ」
 これ見よがしにつかれるため息。
「それだとまだ良くないように聞こえるんですけど」
「うるさいわね。あなたに関係ないじゃない」
「それ本気で言ってます? 関係ないはずないでしょう。僕は」
〈スズナの時だって一度も失敗した事ないんですから〉
 冷たい風が吹き抜ける。薄ら寒い。瞬間、今あるやりとり全てが無駄な気がした。
「違う」
 胡乱。しぶしぶ顔を上げると、水島は片手で自分の頭を掴んでいた。前髪が落ちかかる。
「違う。僕はこんな事を言うためにあなたを呼んだんじゃない」
 苛立ち。その中ににじむ、何か大きな葛藤。続くはずの言葉がなかなか出てこない。
 深呼吸。静かな夜風。少しして水島はようやく落ち着きを取り戻した。
「・・・・・・信じてください。僕はあなたの味方です」
 息を呑む。平然と「好きだ」と言い放ったこの男が、そんな事よりずっと言いにくそうに言葉を紡ぐ。
「あなたの力になれる。だから何か辛い事や不都合があったら言ってください」
〈僕は何もしてないです〉
 そう言っていたのは確かにこの子だった。けど
「・・・・・・領収書の件で先生に聞きに行った時、黒田さんと中辻さんが『会計の子にもよろしく』って言ってたって聞いたわ。それってあなたの事よね?」
「・・・・・・はい。僕がやっている事にしました」
「兼子君と竹下君も?」
「いえ、二人は知りません」
「どういうこと? 二人に協力してもらったんでしょ? 知らないって」
「目的は」
 強い口調に押し黙る。はっとして水島は一つ頭を下げた。
「・・・・・・領収書をそろえること。だからそれ以上は不問にしていただけませんか」
「都合の悪いことは隠したままで信じてなんて無理よ」
「あなたのためなんです」
 分かってる。そんな事目を見れば分かる。水島はウソをついていない。けれども本来あたしが知らなければいけない何かを隠している事もまた事実だ。
「あなたこそお願い」
 これは、だから、この件を経由して痛感した事だ。
「あなたの力を借りたいの。そのためにお互いクリーンでいたいわ。お願い、本当の事を教えて」


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登場人物紹介

草進真琴(そうしんまこと)

高一女子。モットーは「私はただの高校生。それ以上でもそれ以下でもない」

6月10日生まれ、A型。


作画、いく。

火州飛鳥(ひしゅうあすか)

女嫌いの高三。美形。

9月2日生まれ、B型。


作画、いく。

鈴汝雅(すずなみやび)

男嫌いの高二。美人。

3月3日生まれ、O型。


作画、いく。

水島聖(みずしまひじり)

病んだ高一。思い込みが激しい。

6月27日生まれ、A型。


作画、いく。

鮫島勤(さめじまつとむ)

高三。飛鳥の友人。

2月2日生まれ、AB型。


作画、いく。

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