雅3〈6月19日(土)、23日(水)③〉
文字数 1,897文字
三
六月二十四日。今日は久しぶりに晴れた。とはいってもすっきりという訳ではなく、六割がた雲が空を覆っている。以前クイズ番組で見たのだが、雲が空の二割から八割を占めているのは「晴れ」に分類されるそうだ。雨が続いていたから、少しうれしい(勿論、雨も好きだけれど)梅雨明けも近いのだろう。
昨晩、一通のメールが届いた。鮫島先輩からだった。仲良くなったついでに、何か飛鳥様に関する情報が入ったら教えてもらおうと、この間聞いておいたのだ。
〈火州が話があるらしい。明日昼、屋上〉
「火州」という字を目にして、心臓が跳ね上がる。メールは本当に用件を伝えるだけのものだったが、それ故より強く目を逸らせない現実を突きつけられた気がした。震える指先で〈分かりました。ありがとうございます〉と送る。しかし、送った直後に飛鳥様はどんな感じだったか聞けばよかったと後悔した。それでも、前と同じように笑いかけてくれることはないと覚悟しておかなければならない。座っていた自室のいすから立ち上がり、ベッドに突っ伏すと、その日はそのまま寝てしまった。
夢の中で会った飛鳥様は、二度と振り返らなかった。
ひどく長く感じた一、二限目に比べ、三限目は驚くほど早いスピードで進んでいった。それは確実に心臓の音の速さに比例している。
授業の内容がまるで入らない。得意とする英語でさえ、指名されても答えられなかった。クラスの人間の薄気味悪い笑い声が耳に入ったがどうでもよかった。
チャイムが授業終了の合図を告げる。終了したのが本当に授業だけだったかは分からない。
屋上へ向かう時はいつだってわくわくしていた。体が軽くなって、頬が緩みきって、どうかしたらスキップしてしまいそうなくらいだった。今日もいい天気。そんなことさえいちいち幸せだと思えるほど、あたしは豊かな人間になれた。
だから初めてだった。屋上に向かう足が鉄球をつながれたかのように重たい。心臓が、常と似ているけれど全く種類の異なる音を立てる。屋上へ続く階段の前で一度立ち止まり、屋外へ出るドアの前でもう一度立ち止まった。時計を見る。十二時半。深呼吸をする。そうして、何度も口にしてきたその名を呼んだ。
いつもより早くドアが開いたと感じるのはやはり、自身の体内時計による効果なのだろうか。そこには、変わらずはにかんだ飛鳥様がいた。たったそれだけのことに、涙腺が緩んでしまいそうになる。それはもう二度と、自分に向けられることはないと思っていたからだ。息が詰まって、声が出ない。
飛鳥様はドアを引くと、あごで屋外に出るように促した。
うまく歩けているか分からない。膝が、少しでも力を抜けば途端に崩れてしまいそうだ。意識して顔を上げる。泣くのは許しを請うようで、卑怯だと思った。
朝見たときは空の半分以上を占めていた雲が、今ではその半分ぐらいになっている。パステルの水色が目に優しい。振り返る。
「・・・・・・鮫島先輩と高崎先輩は・・・・・・?」
「あぁ、席を外してもらった」
分かりきっている事をわざと聞く。それでもこの場合、それは必要なことだと感じられた。
頬をなでる風は生暖かい。今日は湿度が高い。じっとしていてもじんわり汗をかく。
何を口にしていいのか分からず、相手が口を開くのを待った。
飛鳥様は閉めたドアを後ろ手にその場から動こうとしない。下を向いたままで、そのせいかいつもより目つきが柔らかい。隠し事ができないのはきっと惜しげもなくさらした額のせいで、百八十センチ近くある身長は少しだけ猫背。そのすべてが愛しいままの飛鳥様だ。
「鈴汝」
誰が呼んでも同じはずなのに、あなたが呼ぶと特別に響くのはどうしてだろう。続く言葉におびえながらも、ギリギリの快楽を愉しむ。その目が、意を決してあたしを捉える。
「悪かった」
頬をなでていた風が止む。と同時に、混乱してひどく取り乱す。あたしが謝る理由はあっても、飛鳥様が謝る理由が見つからない。
「え、な、何を」
おっしゃっているんですか、と続けようとした時、飛鳥様は再び目を逸らした。
「全部、鮫島から聞いた」
カッと顔が熱くなる。全部・・・・・・って、鮫島先輩はあたしの何を、どのように飛鳥様に伝えたというのだろう。
「いえ、でも・・・・・・」
続く言葉が見つからない。しかし飛鳥様はそのことについて詳しく語らず、その話は終わりにしてしまったようで、唐突に話題を変えた。こっちが本当に伝えたかった「用件」なのだということはすぐに分かった。
「鈴汝、真琴はお前の恩人なんだ」