特別編、屋上〈3月18日(金)12時半〉
文字数 6,146文字
一
水は再び巡ることを望んだ。その昏くよどんでしまった目が、リンと輝く鈴によって感情をふき返す。そうして錆び付いていた刻が動き出すと、みるみるよどみは消えていった。上がる透明度。本当はきっかけなんて何でも良かったのかもしれない。ただ再び何かに夢中になりたかった。一心に求めるにふさわしい気高さを、彼女の中に見出した。
鈴は金属。いつだって周りの影響を強く受けやすい体温を持て余していた。悪意にさらされながら拠り所にしたのは、そんなもの歯牙にもかけない圧倒的な力。陶酔という名の現実逃避。淡々と燃える火は、いつ見ても美しかった。
火には目的がなかった。ただ息をしているだけ。最低限の火力は、退屈に今でも押しつぶされそうだった。そんなときに現れた、自分よりずっと弱いはずの生き物。手を伸ばしては払われて、振り回されて。それでもいつしか見ている世界が変わっていた。思い通りにならない雑草。燃えない猫じゃらし。戯れる内に夢中になることを思い出す。
草は静かに見つめていた。自分に似た温度を持つ水。その傍に寄り添うことを願った。よどむ時も輝く時も全て見てきた。そのどこまでもまっすぐで清らかな生き物。手に入れられれば潤うと信じて疑わなかった。
時は流れ、現実に直面して目を覚ました鈴は、ずっと傍で自分を見つめ続けてきた水の想いを知る。癒えない傷も冷たい自分も、全てを包んで赦してくれるその存在に感謝を覚えた。そうして草は
鮫島勤から連絡が来たのは十分もした頃だった。
〈もう行ってもいい?〉
興奮の冷めやらない長身の男は、頭をかくと振り返る。どんなささいな感情の揺れも、上げた前髪は隠すことをしない。その姿を反射する青ぶちのメガネ。その身長差は実に三十センチ。少女は照れ臭そうに笑うと、男の顔を指差した。
「まだ・・・・・・ちょっと、難しいんじゃないでしょうか?」
だからと言って首を揃えたメンツに「待った」をかければ、あらぬ疑いをかけられることは明らかだった。火州飛鳥は元々少女の隠れていた場所に身を潜めると、電話越しに了承を伝えた。
二
通話を切ってものの五分、複数の足音が屋上に到着した。先頭を切ったのはもちろんこの男だ。
「あれ? 火州は?」
ドアから約五メートル。正面に見える手すりの近く、横座りで待つ少女はあいまいに笑う。長い髪が風になびいた。
「別にいいけど」
言いながら寝転がるのは少女の膝の上。草進真琴は眉を下げると、その頭をなでた。
「え」
「え」
「え」
その日常を思わせる光景に、続いた三人が目を丸くする。最初に口を開いたのは、言語化を最も得意とする純文系男子だ。
「どういうことですか? え? 鮫島先輩が、あれ?」
予想外に全然使えなかったため、フォローが入る。
「おい鮫。真琴ちゃんは火州と付き合うことになったんじゃないのか?」
「ん。どだった? 弟子」
「はい。そうなりました」
「そっか。よかったね。オメデト」
男は少女を見上げると祝福した。しかしだからといって動く様子はない。なびく前髪。気持ちよさそうに細まる切れ長の目。まるで無防備な距離感に、聞いた側がむしろ戸惑う。
少女の顔は穏やか。一人の少年が「やさしいやさしい目をしていた」と言ったのは、間違いなくこの男に向けたものだった。横髪を耳にかけて顔を上げると、草進真琴は口を開いた。
「これはリハビリです。私が提案しました」
それは男が無理強いしている訳ではないという確かな免罪符。少女がそう言う以上、理由はどうであれ、本来あるはずの追求は打ち切られた。
「で? どうだった? アイツ、ちゃんとできた?」
「どこまでも自由な男と真琴をのぞく三人」は円を描くように座ると、見上げる男を見下ろした。並びは真琴から順に時計回りで水島、鈴汝、高崎。好奇心いっぱいに見開かれた鮫島の目は、ひたむきに少女を見つめ続けている。この男が気にするのは、徹頭徹尾「見てくれ極振り、出オチの色男」まるで自分の子供に対するような口ぶりに、少女は眉を下げた。
「はい。ちゃんとできましたよ」
見上げる目がほころぶ。顔中が笑顔になる。
「そっか」
「ちょっと待って下さい。え、できたって何をですか?」
黒髪の少年は理解が追いつかない。足りない言葉に説明を求めると「野暮」と一蹴された。聞いた本人は不服そうだったが、傍らに腰を下ろした少女が言葉をつないだ。
三
「あなたは本当にそれでいいのね?」
大きな目に細い鼻筋。元々人形のような造作の少女は、表情を抑えるとことさらツクリモノめいた。覚悟のない想いはすぐさま見抜かれる。
鈴汝雅にとっての憧れでもあり恩人でもあるその人を、それは「本当に大切にしてくれるか」という問いでもあった。
メガネの少女はまっすぐ見返す。
「はい」
そうして関係はようやくイーブン。鈴汝は頬をゆるめると「そう。おめでとう」と言った。口元のホクロ。花の咲くような笑顔だった。
「間に合ったんだな」
野太い声。誰よりも身体の大きな男が、背中を丸めて言った。膝についた肘こそ隣に座る少女の倍程の太さだが、体積ともなるとそれ以上。社会人バレーを続けながらの力仕事は、わざわざ意識しなくても身体の特性を強めた。
高崎聡もまた草進真琴を見ると「おめでとう」と言った。頭を下げることで揺れる髪。青ぶちのメガネが反射した。
「良かったな。ここはともかく、アイツはもう行っちまったらどうしようもねぇからな」
「ホント。アイツ元々二年も探してたか待ってたかしてたクセに、よくそれでこんなグズグズできるよな。この先四年またふりだしに戻るかもしれねぇっつーのに」
「ここ」は高崎の右隣に座った美女を含むペアを指す。鈴汝は憧れでもあり恩人でもあるその人をかばうために思わず身を乗り出した。
「あ、あたし達も生徒会は引き継いで終わりですし、タイミング悪ければ同じように上手くいかなかったかもしれないので、特別飛鳥様だけどうって訳では・・・・・・ねぇ、ひじ」
言い終わる前に押さえた口元。みるみる赤くなっていく顔。ようやく人間らしい表情を見せた少女は身の振り方に窮して顔を伏せた。赤茶色の髪が光を受けて鈍くきらめく。
「ひじ・・・・・・何だって?」
この鬼畜な生き物唯一の美点は、誰にでも平等に鬼畜なことだった。この場合かえって場の空気を和ませる力もあわせ持っていたが、それには及ばなかった。
「そうですね、雅さん」
恥じらいという概念そのものを備えていない少年は、心からうれしそうに笑う。最大の味方でありながら、羞恥心をあおる張本人でもあるこの少年は、まだ少女の手にあまる。全く意味をなさないフォローに再び顔を伏せると、唯一その表情をはっきりと確認できるポジションにいるこの男が口を開いた。
「スキあらばイチャイチャしてんじゃねぇよ。なぁ弟子」
「あはは。ねー師匠」
平和だった。終業式後の昼下がり、縛るものは何もない。鳥の鳴く声が聞こえた。鳥の
四
「ちょっと待てぇぇぇぇ!」
驚いて全員が声のした方を向く。ようやく合流した長身の男は、せっかく戻したであろう顔を真っ赤にして、寝転がった友人を見下ろしていた。
「・・・・・・何? やっと出てきたの? 処理は済んだ? 落ち着いた?」
「処理?」
「処理?」
少女二人が見上げる。つぶらな瞳にたまらず叫ぶ。
「こっち見んな! 処理じゃねぇよ! ちょっ・・・・・・おま、何でコイツの」
純文系少年にも劣らないつんのめり方。出てこない言葉はパニックのせいだけではない。何しろこの男の場合、語彙力そのものに不安があった。
ため息一つ、鮫島が口を開く。
「何これデジャヴ? 弟子、頼むわ」
「リハビリです。私が提案しました」
キョンシーのお札のごとく、免罪符を額に貼り付けられる。ケンカとなれば自分より身体の大きい相手にもひるまない男が、この時ばかりは一歩後じさった。その姿を横目に鮫島は続ける。
「奈良かー。旅行にいいな。シカ見て、寺回って、うまいもん食って。日帰りはキツいから間二泊ぐらい欲しいなぁ。弟子、お前どっか行きたいとこある?」
「おい」
「USJ行きたいです。スパイダーまん食べたいです」
「奈良じゃねぇし。それにスパイダーマン食いもんじゃねぇだろ」
「『スパイダーまん』って肉まんみたいなのがあるんです。かわいいですよ」
「へぇ。・・・・・・ん。確かに乗り継ぎ二本で行けるな。じゃあそれと」
「おい」
「楽しそうね。あたしも行きたいわ」
「僕も行きたいワ」
「水島キモ。いいよ。じゃあみんなで行こっか。高崎も女連れて来いよ」
「がはは。楽しそうだな。乗った」
「おい」
「決まりね。部屋どうする? 縦割りでもいいけど、翌日気まずきゃ男女別にしようか?」
「めずらしく鮫にしては気が利くな」
「フッフーンまぁね。でもどっちにしても大富豪やるときは集合かけるからねー」
「おい」
「楽しみだなぁぁぁぁ。どうしよう! 俺前日わくわくしすぎて寝られるかなぁぁぁぁ」
「おいぃぃぃぃぃ! いい加減にしろよ!」
合間、必死に話に割って入ろうとするが入れず、話が一段落したところでようやく入れてもらう。その様子を鮫島は目を丸くして見上げた。
「火州に会いに行くって言ってるんだよ? チラッと立ち寄るから」
「チラッとって完全についでじゃねぇか! それに問題はそこじゃねぇ!」
「あ、大富豪やりたかった? じゃあ二日目の夜そっち泊めてよ。そこでやろう」
「そこでもねぇよ! そもそも部屋にこんだけ入るか! お前んちじゃねぇんだよ!」
「大丈夫。一位のペアから順に、寝るとこベッド、床、廊下ね。賭けるものあると燃えるでしょ?」
「僕は廊下でも構いませんが、鈴汝さんが一緒となれば話は別」
「待て待て待て! 話を進めるな! 大体何でペアの前提がお前と真琴なんだよ! おかしいだろうが!」
「あっちなみに、悪いんだケド場所の関係で、お前大富豪終わったら誰か知り合いんとこ泊めてもらってね」
「何が『悪いんだケド』だ! 人の話を聞けぇぇぇぇ!」
笑い声が上がった。めずらしいのは女子二人。元々声を上げて笑うタイプではないだけに場が華やぐ。うれしくなって水島も笑った。大口を開けて高崎も笑った。
「何だよ。だったらお前も来る?」
「行くに決まってんだろ!」
それを聞いてようやく身体を起こすと、
「ぎゃはは。決まりね。約束だよ」
鮫島も笑った。子供のように無邪気な笑顔だった。その後尻をずって手すりに向かい、そこに背中を預ける。オールバックの額から免罪符がペロンと剥がれ落ちた。微かにした笑い声。ツヤのある黒髪の少年。水島聖が大きな目を細めて笑っていた。
五
「空きましたよ」
言いながら立ち上がる。並んで立つと、どうしても十センチ以上の差ができた。でも少年はひるまない。すれ違う瞬間、男にだけ伝わる音量で口にする。
「・・・・・・いつまで持ちますかね。あなたに四年の歳月は無謀だと思いますけど」
男もまた同じ音量で返す。
「お前こそ、人目気にしてせいぜい安パイなつながりで満足してることだな。言っとくが服着たまま続けてると、突然女がキレ出すことあるから気をつけろよ」
「自分の巣に引きずり込んでしまえばこっちのものですか。さすがですね。今後は何があってもご自身で制御できるような理性を身につけて下さい。くれぐれも周りを巻き込まないように」
では、と言うと、そのまま屋内に続く入口に向かう。鈴汝もそれに続いた。
風がなびく。春とは言え、なんだかんだまだどこか冬の冷たさは残る。白い肌。長時間ここにいる真琴には堪えるかもしれないと男は思った。ただでさえ制服は風を通す。
「・・・・・・おい、行くぞ」
友人の前、気恥ずかしさから名指しで言えない男は、かえってそれが彼らを面白がらせていることに気づいていない。少女は立ち上がると振り返った。
「師匠、またね」
バイバイと手を振ると高崎にも頭を下げた。ころくる向きをかえる度に、そのスカートの裾が揺れる。その後前を歩く男がドアを開ければ、あっという間に屋内に消えた。その瞬間「この場にいなければ死んでいるも同然」と聞いたことがあるのを鮫島は思い出していた。今、この瞬間傍らにいる男以外は一時的にみんな死んだのだ。
虚無感。空になる寂しさ。空いた穴。何度くり返しても慣れない。しかしそのために
「今日のMVPだな」
身体の大きな男はいた「絶対」一人にすることのないよう、その場にとどまる。
冷たい、風が流れた。桜の気が早いのか、気温が追いつくのが遅いのか。景色に、暦に身体が追いつかない。立てた膝。鮫島は細い指先で口元を覆った。見上げる先には橙を秘めた空しかない。水色、煙った光。そのグラデーションがどうしようもなく綺麗だ。
「月・・・・・・か」
「ん?」
「いや、」
鮫島は地面に目を落とすと「お前は?」と聞いた。それを受けて大きな身体が動く。細い身体二つ分空けて、同じように手すりに背中を預ける。
「継ぐぜ。実家を」
「そっか。すげぇな」
それは純粋な賞賛だった。自分が何はともなくここにとどまる一方で、いつも隣にいたはずの友人は養われる側から養う側に回る。短い言葉に含まれた決意にただただ圧倒された。それをただただ寂しいと思った。
六
「鮫」
重低音。腹に響く安定感のある声はから得るのは、いつだって安心感だった。けれども今は違う。その声はシャカイに向けて息づき始める。友人ではなく、護るべきもののために。鮫島は自立した男の声に息を詰まらせた。
「俺達も決着つけようぜ」
一拍置いて振り向く。高崎はまっすぐ前を見たまま言った。
「水島が話があると。生徒会室だ」
予期せぬことに目を丸くすると、その頬がゆるんだ。
「何だよ。何も仕掛けんのはお前だけじゃねぇんだよ。今度はお前が聞く番じゃね?」
その手が伸びる。細い身体二つ分なんて、距離でも何でもない。分厚い手のひらが男の頭をなでた。
「大丈夫だ。お前を一人になんかしねぇ。ずっとここにいる。何より優先してやる」
「・・・・・・スノボ断った」
「そうだな。じゃあこの先ずっとだ」
絶対に、と言うと、鮫島は目元を拭った「目がかゆい、花粉症かな?」とつぶやく。
「なぁ、決着って言えばお前、
高崎は頬をつかむようにして口元を覆うが、その端から口角がはみ出していた。
「正直が一番と思ってな『アイツ恋をこじらせちまって頭おかしくなってるんだ赦してくれ』って言ったら、すげぇ納得して大人しく帰ってった。もう充分ボコボコにして借り返した後ってのもあったんだろうけどな。代わりに多少おもしろいウワサにはなるかもしれんが、四年はアイツここ離れるし問題ないだろ」
「ウケる」
お前変なとこ頭いいなぁと言うと、男は得意げに胸を張った。
「だから俺達もちゃんとケリつけようぜ。終わったらここで待ち合わせだ」
それは約束。何もない自分でも、少なくともその時までは存在することを赦される。鮫島は立ち上がると、屋内に続くドアに向かった。いつの間にか冷たいはずの風に寒さを感じなくなっていた。
「鮫」
見送る。それこそが最大の愛情表現。
「愛してるぜ」
男は「はっ」と笑った。