聖15〈1月26日(水)〉
文字数 6,020文字
一
「違うよ。ひじき君、それは違う」
「ひじきじゃないです聖です」
屋上に続く階段。その踊り場は煙った光に照らされてぼんやり薄暗い。今日は雲が厚い分、明るさは低空飛行。明日には回復するらしいが今の所その兆しは見えない。
それは草進さんとの関係を友人に戻した翌日のことだった。
「カン違い。思い違い。温度差ハンパない」
戸惑う。気を遣われるのは嫌だ。でもその一方で衝突は避けられない。
「だから違うって。誰がひじき君なんかに気ぃ遣うもんか。面倒くさい」
「だからひじきじゃないです聖です」
大きなため息は伝わらないことへのイラ立ち。鮫島先輩は頭をかくと、もう一度はっきりと言った。
「俺が好きなのは雅ちゃんじゃないってば」
「ウソだ」
「何がウソなもんか。疑うならウソ発見器持って来てみてよ。絶対反応しないから」
戸惑う。どうしたらいいのか分からない。
鮫島先輩が好きなのは鈴汝さんじゃない。それなら
「だから! お前が雅ちゃんとどうなろうと関係ないっつってんの! もう、何でそんな面倒なことになってんの? まさかひじき君、俺が雅ちゃんのこと好きそうだから身ぃ引こうとしてたってワケ?」
そうだと言えない口から出てくる言葉は、どこかべたついていた。まだ受け入れられない。心が陽と陰を行き来する。
「だって・・・・・・スキー行った時『何が悲しくて野郎とお湯シェアしなきゃなんない訳?』って・・・・・・あれ、鈴汝さんと入る予定だったんですよね? 部屋の露天」
その細い目を見開く。遠回しな肯定に、鮫島先輩は「マジかよ・・・・・・諦められるワケねぇじゃん。ひじき君が」とつぶやくと、手のひらで口元を覆った。途端に歯切れが悪くなる。
「んーーーーーーーーと、まぁ。まぁ? うん、まぁそうじゃないと言えなくもないけど」
「どういうことですか? 身体が目的とか」
「『そだね』とか言えるか。俺この場で殺られんだろ。
・・・・・・違う。違うよ。うーん、うまいコト言えないなぁ。でもあの時と今じゃ違うの。ってかその前から違うの。ホント、そういうんじゃないの」
「分かりません。そういうんじゃないの〈そういう〉を教えて下さい」
「もういいじゃん。お前は仮に俺が雅ちゃんのこと好きだったとしても、もうテメェの気持ちは殺せないって言いに来たんでしょ? だったらもうとっくに用は済んでる。このやりとり自体ムダだよ」
「でも」
「じゃあ俺からも頼むわ」
片足に体重を乗せる。ポケットに突っ込んだ両手。
何を出すか、出されてみないと分からない。
「嫌われるように努力してくんない? 周りが危ない。早めに頼むよ」
嫌われる? 周りが危ない? 何のことだ。
その片頬がつり上がった。
「お前にどっぷりはまってるオトメ。恋に恋しちゃって周り見えなくなってる。加えて後遺症がひどくて、まだキケンなんだよね」
何しでかすか分かんねぇ。そう言うとため息をついた。
「草進さん・・・・・・ですか?」
チャイムが鳴った。昼休み終了五分前の予鈴だ。
応えるまでもないのだろう。鮫島先輩は僕とすれ違って階段に足をかけた。その髪が揺れる。
「何かあったんですか? 危険って・・・・・・」
「何かあってからじゃ遅いって言ってんの。頼むね」
言いながら手すりに沿って折り返す。見上げた目と目が合った。
驚く。
場違い。その顔は今まで見たことのない、穏やかな表情をしていた。
「・・・・・・あと、ありがとね」
穏やかな? 違う。
伝わったのは、悲しさだ。
二
生徒会室の一番奥、部屋の角にはブラックウォールナットのデスクがある。丈夫で変質しづらく、施錠面でも安心なため、代々受け継がれている。この高校と同い年の代物だ。
そんな上座の頂点に君臨するデスクの鍵こそ手に入れたものの、代わりに渡した本人の心ががっちり施錠されてしまうという現実に、バインダーを一つ一つ取り出しながらため息をついた。
〈どうぞお好きに〉
その冷ややかな目。
会計の引き継ぎ以来、鈴汝さんと会っていない。全く来てない訳ではなさそうだが、生徒会室にその気配が薄れつつある。主のいない部屋はどこか冷たく、寝静まるとき屋敷全体がわずかに沈むように、生気がまるで感じられない。
人気のない寒さに単純に呼応するのは侘しさだろうか。全部が全部上手くいくとは思っていない。僕自身、目的のために必要なことだからイレギュラーを買って出ただけで、元々そんな豪胆さは持ち合わせていないのだ。
青と黒のバインダーを見比べた後、一度閉じて背表紙を確認する。それとは別にもう一冊、緑のバインダーを開く。一昨年に当たる二〇〇三年以前は項目ごとにファイリングしてあるのに、去年のモノから時系列での保存方法に切り替わっている。これはわざとだろうか。
緑と青のバインダーを押しやって、黒を開き直す。右上に記された日付。最終十二月二十二日は終業式の日だ。めくると十二月七日、十一月八日、十月十三日とその書面の受理された日付が続く。ちなみに十月のは僕が届け出を出した『運動部の活性化を目的とした、球技大会における部員対抗試合』の申請書類だ。こっそり下の方にはさんでおいたが時系列で並べ直されている以上、きちんとお目通しを受けたのだろう。勿論その日付は僕の筆跡。
書類をめくる手が止まる。
五月二十八日。
違和感。ページを戻る。めくってめくってその正体にたどり着く。
十一月八日。
「八」の字が違う。右上に結びが来るものと、中央に来るもの。これは別人の筆跡だ。
五月二十八日「町内会長への挨拶」
背筋が粟立つ。これは誰の字だ。去年の日付。鈴汝さんの許可あっての行動だろうか。
八割白紙。それはただ要件だけ書かれた書面だった。わざわざ紙一枚使うまでもない、メモのようなモノ。けれどもその余白の多さが、かえって圧倒的な位の高さを示しているようにも見えた。丁度価値ある商品の一点一点が距離をとって展示されるように。そのたった一行は
「何してるの?」
肩がはねた。入口を振り返ると、立っていたのは竹下さんだった。そのメガネが反射して、表情が見えない。
「あ、いえ」
無意識にデスクの前に立つ。見られてまずいものではないし、見られてまずい事をしている訳でもない。それでも上級生を前に出過ぎた行動をしているという自覚はあった。
竹下さんは音もなく近づいて来ると、僕の後ろにある黒いバインダーをのぞき込んた。その目と目が合う。
「何してるの?」
スラリというよりはひょろりと背の高い竹下さんは、僕が見ていたものを把握した上で重ねて聞く。その厚いまぶた。僕はあわてて口を開いた。
「まだ提案の段階ですが、次回の生徒会総選挙を一ヶ月前倒しして行う可能性があります。ある程度引き継ぎしやすいようにしておきたいので、年間行事の手続きにどんなものがあるのか目を通していました」
「君が生徒会長に立候補するってこと? 会長の許可は?」
黙ってデスクの鍵を差し出す。クマのキーホルダー。スペアにはない、会長本人のマスターキーだ。
〈どうぞお好きに〉
その冷ややかな目。
思わず唇を噛みしめる。
三
相談? したかったに決まってるじゃないか。
本当はちゃんと伝えたかった。でもきっと今の僕は、会えばきっとそんなことどうでもよくなって彼女で一杯になってしまう。それが我慢ならなかった。
〈・・・・・・あと、ありがとね〉
そう言って穏やかな、底抜けの悲しい顔をして見せた鮫島先輩。
〈内緒よ。水島君ならきっとツトム君の背中を押せる〉
次に僕ができることは。
本当に大切な人を手放さず済むのなら、他に怖いものなんてなかった。あの人が抱えるものに寄り添うために僕ができることは
「そこ、座って」
「え?」
横長の机。パイプ椅子を持ってくると、竹下さんが腰をおろした。
「早く。誰かに見られたくない」
「どういうことですか? 何かあるんですか?」
メガネが反射する。強いクセっ毛。つむじから一部、まとまった白髪が見えた。細く尖った顎。鼻先をつまみながら口を開く。
「引き継ぎ。会長がしてくれないんでしょ? 僕がする」
なるほど、右上に結びのある「八」の主は竹下さんだった。
「どうしてなのか分からない。でも本来僕が会長をやるはずだったんだ」
そう言うと、その鼻先をつまむ。うつむいた顔。目立つ白髪。どこか心許ない輪郭。
衝撃の真実に反応できない。
「表には出ないけど、この高校の会長は代々男なんだ。だからその流れを汲んで僕に回ってくるはずだった」
項目ごとのファイリング。角のそろった資料。
「でも僕たちの代で変わった。今の会長が適任、ということになって、一部の人間が押し通した。獲得票数は開票時にかさ増しされてる」
鼻先をいじり続ける手。爪でかいた分赤くなる。
「先輩は勿論、先生も伝統を重んじてる。そんな中、彼らは票数のかさ増しを鈴汝さん自身がしたと思ってる。だから誰も手を貸さない。手元にある資料をなぞったってイレギュラーには対応できない。例えば毎年学祭前に必ず行かなければいけないところがある。それが」
「『町内会長への挨拶』」
右上に結びのある八の字。
竹下さんは一瞬顔を上げたが、すぐまた鼻先をいじり始めた。
「そう。地元の大地主だ。その人の許可があって初めて学祭ができてる。書面だけだとそれがどれだけ重要なものか分からないだろう?」
その後竹下さんは青と緑のバインダーを並べると、慣れた手つきで『始業式の備品発注』のページを開いた。
「春先そうそう、前倒しで生徒総会開くなら備品にも気を遣う必要がある。毎年のことならルーティンに組み込まれてるが、そうでなければ放送機器、ビニールマット、生徒数分の椅子など、自分で手配しなければいけない。それらは当日すぐ用意できる訳じゃないから、前もって打ち合わせしておく必要がある」
「え、でもルーティンも何も、夏休みとか冬休み前の終業式と同じじゃないんですか?」
「ビニールマットは消耗品だ。春先始業式に向けて業者を通して一度手入れをしている。ここに戻すまで一週間は見た方がいい。椅子も全てここで管理している訳じゃない。普段椅子なんか使わないだろう? これもまた貸し出しの許可が必要。さっきも言ったが、例年通りならオートで整うが、イレギュラーだとそれなりの手順を踏まないと大変な事になる」
言いながらつまむ鼻はもう真っ赤だ。
「・・・・・・そのほかにも自分から発行手続きをとらないといけない書類はデスクに入れておいたり、記入の仕方が形式に沿ってなかったら修正して提出し直したりした。全部が全部手元に残る訳じゃない。だから顧問の手元にはいくつか僕の書いたものも混じってる」
「だから」
その目が上がる。厚いまぶた。にごった目がレンズごしに反射する。
促す。僕はようやく口を開いた。
「だから会長を一人にした訳じゃない。そうおっしゃりたいんですか?」
四
その目が見開かれる。鼻先から手が離れた。
「ち、違う。確かに鈴汝さんは大変な思いをしたかもしれない。でも結果的に良かったんだ。僕は人前で話すの得意じゃないし、あの二人にも逆らえない」
「あの二人・・・・・・」
かすめたのは、全く同じ後ろ姿をした、キレイだけど近寄りがたい印象の女性二人だった。
〈いえ、自分も手伝うとは声をかけましたが断られました・・・・・・。邪魔だからいい、と〉
「でも、それでも僕には先輩から引き継いだ責任がある。僕にだってできることがある。だからできることをしようとしたんだ」
血走った目の奥に見え隠れする自己正当化「だから僕は悪くない」その目が伏せられる。
「そうして無事何事もなく任期を終えられればそれでよかった」
「ふざけないで下さい」
ふつふつと湧き上がる感情は怒り。孤独な後ろ姿。
「大変だったかも知れない? そうに決まってるじゃないですか。知っててどうして」
「だから、表立って手伝ったりなんかしたらまたあの二人が鈴汝さんに何かするかもしれないだろう? そう考えると不容易に手を出せなかったんだよ」
くもったメガネ。ズレたそれを指で押し戻すが、汗で滑ってうまく元の位置に戻らない。
「それにそもそも何で僕に引き継ぎをしたのかも分からないし、消去法で僕だったら断らないって思われてたんじゃないかって・・・・・・。そんなだったら」
神経質そうなこめかみの筋が二度動いた。その時だった。
「違ぇよ」
二人して勢いよく振り返る。大きな肩の筋肉。入口に立っていたのは兼子さんだった。教室の密度が上がる。
「それは違う。秋山さん(前会長)言ってたぜ。アイツなら任せられるって」
僕以上に驚いてるのは竹下さんだ。汗で滑るメガネを同じ調子で何度も直している。
「兼子・・・・・・」
「『見えるモノだけが全てじゃない』秋山さんからしたら『パフォーマンス力のある人間は大抵ハリボテ。実力が伴わない』んだと」
その、勢いのままに伸びた眉は太い。大きな二重と合わせていささか濃いめの顔立ちは、謎の説得力をもって竹下さんに迫った。
「・・・・・・悪かったな言わなくて。お前は黙ってフォローし続けてたから、まさかそんな風に思ってるなんて気づきもしなかった」
その目と目が合った。思わず立ちすくむ。
「俺もコイツと同じだ。前会長に『竹下を頼む』って言われてた。けど俺はコイツみたいに黙々と裏方やれるタイプじゃねぇ。ただ、曲がったことは嫌だから中辻と黒田に注意した事はあったが、全く意味なかった」
言葉を失う。
〈いえ、生徒会の事ですよね? 経費のこととか関係者じゃない人にお話しする事はないと思うんですけど〉
この人もまた、動いてはいた。己の無力さに打ちのめされて、その後鮫島先輩(上級生)によって二人が大人しくなった事も知った。
「お前、変えられんの?」
「え?」
「会長になって変えられることがあるかって聞いてんだよ。いい加減『内申目的の、足の引っ張り合いで何の進歩もない集まり』やめにしようぜ。何でもいい。一歩踏み出せたら、周りも、この先生徒会に集まってくる奴らも変わるかもしれねぇ」
「兼子・・・・・・」
気づくと竹下さんの汗が引いていた。厚いまぶたを押し上げる目。焦点が合う。
「なぁ」
竹下さんに向かって一つうなずくと、僕に向かって呼びかける。
「変えられんの?」
喉元が引き攣れた。
全部が全部上手くいくとは思っていない。僕自身、目的のために必要なことだからイレギュラーを買って出ただけで、元々そんな豪胆さは持ち合わせていない。でも
腹に力を入れる。
目的のために
「変えます」
まっすぐその目を見返す。兼子さんはしばらく黙っていたが、おもむろに右のこぶしを胸元に持って来た。
ドン。
胸を叩かれる。全身に響く振動。
「頼む」