飛鳥2〈5月26日(水)④〉
文字数 1,023文字
四
タチの悪い話だ。
二年前のある日「そのほんの数日前に訳あってケンカした連中」に拉致されたことがあった。『あの時』は鮫島が一緒だったが、いくら何でも一対四じゃ頭数が違いすぎる。
沈みかけた夕日。さびれた工場の裏で、ボッコボコにされて意識も失いかけていた時、目の前に影が落ちた。ゆがんだ石油缶にもたれたまま目を上げる。そこにいたのは、正面から夕日を浴びて悠然と立っている、一人の少女だった。次の瞬間気を失う。覚えていたのは、そいつの背中と、長い黒髪と、そのバッグに付いた傷だけだった。
その後病院を出てからというもの、海高の連中は二度と絡んではこなかった。病院に運ばれた時、俺の近くに落ちていたという西中の生徒手帳はその時の女のものだった。胸くそ悪くて、すぐに捨ててしまったが、
助けられたのだと思った。自分が見下して止まない女に。すぐさま腹の中に巻き起こったのは、自身を焦がすような憎悪だった。
女は馬鹿だ。
それらしくうなずいておけば、勘違いして勝手に落ちる。相手はいつだって年上だった。身長のせいでそう子供に見られることもない。甘えるフリをして見下す。そうして母親を見下す。
女は馬鹿だ。
「おにいちゃん」
ただ一人、礼奈をのぞいて。
振り返る。年が離れているせいもあり、俺は小さな妹をこの上なく大事に思っていた。
「保育園は楽しかったか?」
ちゃんと手を洗ってから、その頭をなでる。こいつさえ不自由なく育ってくれたら、それだけでよかった。
「飛鳥様?」
一歩後ずさる。
「あ、ああ」
葉のこすれる音がした。結局あの後、草進真琴をそのまま帰した。俺自身もどうしていいのか分からず一度出直すことにした。
「そんなに驚かれなくても」
そう言って笑う。目の前には体操服を着た鈴汝がいる。一階の校舎をつなぐ渡り廊下。教室に向かう途中ではち合わせした。パッと見なごやかではあるが、まっすぐ見つめる目はやけにしつこく視線を残す。
「今日はサッカーなんです」
そう言うと、鈴汝は最後の最後まで視線を残して去って行った。その後ろ姿を見つめる。走り方がどこか幼い気がするのは、俺の色メガネのせいだろうか。振り返って再び歩き出す。
勝手に眉間にしわが寄った。腹ん中に引っかかったものがとれない。何をしていても集中できない。大元を解決しなければ同じだと思い、俺はその日もまた草進真琴のいる教室に行くことにした。