雅2〈5月19日(水)④〉

文字数 1,067文字



  四

 夕闇。
 鮫島先輩はやっとあたしの方を向くと、いきおいよく起き上がった。
「あ、いやでも別に全部が全部その子のところに行っている訳ではないと思うし」
 先輩はあたしの正面に座り直すと「ごめん」と言った。頬を伝う感覚。気がつけば泣いていた。
「泣くなよ。ごめんて」
 そのぶかぶかの袖を手のひらでつかむと、あたしの頬に押し当てる。染みついたタバコのにおいが直に鼻を刺激した。
 先週末、油断していたとはいえ、水島に抱きしめられたことが堪えていた。飛鳥様が笑いかけてくれたら、特別事情を話さなくてもそれだけで大丈夫だと思った。早い話が、あの出来事自体なかったことにしてしまいたかった。
 涙が止まらない。我慢していたものがここぞとばかりに一気に溢れていく。
 止めどなく涙を落とすあたしに、鮫島先輩はもう一度だけ「ごめん」と言うと押し黙った。
 いつしかぴたりと風が止んでいた。あたしは鼻をすする音が響き渡って恥ずかしく思う。先輩に染み付いたにおいには、まだ慣れない。

 とっぷりと日が暮れる。今宵は下弦の月。
 屋上の、出入り口のある突出したコンクリートの上は、遮る物が何もなく、月の光が二つの影を完全な状態で地面に映した。
 鮫島先輩はようやく腕を下ろした。今は静かにあたしの口元を見つめている。そうして
「ねぇ」
 目を上げる。鮫島先輩の細い目が正面から見据える。
「雅ちゃんはなんで火州がいいの?」
 湿度の高い空気は肌に優しい。それは乾いた頬にとってこそかもしれない。
 半分以下の面積でありながら、今日の月は明るい。その光に照らされて、一瞬鮫島先輩がこの世の人ではないように思えた。女のあたしが言うのもなんだが、それほど儚げに見えた。対照的に強い、確かなまなざし。
 流れ出るタイミングを逃した涙が右頬を伝う。すかさず先輩の袖がそれを拭う。
「言いたくないならいい」
 先輩は目を逸らさない。その光に、あたしは嫌でも水島を重ねた。
 何も言えないでいるあたしを見つめながら、鮫島先輩は「雅ちゃんはかわいいんだから、そんなことで泣いちゃダメ」と言った。
 単語の意味は分かるのに、全体がつながっていかない。
 月は南東。引き結んだ口元。鋭利な目。
「泣かないで」
 先輩はもう一度そう言うと、あたしの頭をぽんとなでた。
「もう帰ろう」
 あたしは黙ってその後につく。途中で時計を見るともう十九時を過ぎていた。その日は帰ってお風呂も入らずそのまま寝てしまった。
 満月でもないのに、やけに明るい夜だった。



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登場人物紹介

草進真琴(そうしんまこと)

高一女子。モットーは「私はただの高校生。それ以上でもそれ以下でもない」

6月10日生まれ、A型。


作画、いく。

火州飛鳥(ひしゅうあすか)

女嫌いの高三。美形。

9月2日生まれ、B型。


作画、いく。

鈴汝雅(すずなみやび)

男嫌いの高二。美人。

3月3日生まれ、O型。


作画、いく。

水島聖(みずしまひじり)

病んだ高一。思い込みが激しい。

6月27日生まれ、A型。


作画、いく。

鮫島勤(さめじまつとむ)

高三。飛鳥の友人。

2月2日生まれ、AB型。


作画、いく。

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