特別編、生徒会室〈3月18日(金)14時〉
文字数 5,849文字
一
「一ヶ月会っちゃいけないって何でそんなことになってるんですかぁぁぁぁ! 意味が分からないんですけどぉぉぉぉ!」
本来大声で叫ぶところだが、人気のない廊下に響き渡るのは不都合なため、音量三で行われるやりとり。水島はその身体につかみかからんばかりの勢いで男に迫った。
「だからお前全然足りてねぇんだって。よくそれで俺とまともにやり合うとか言えるよな。今のお前は今のメンバーだから動けてんの。気持ちよく動かさせてもらってんの。そこんとこ分かってる?」
「分かってますよ! 先輩達のおかげで僕は思う存分力を発揮できて」
「だからいつまでそこにいるのって言ってんの。お前の先パイ達はいつまで一緒に戦えんの? 引退した後のコト、ちゃんと考えてる?」
ぐ、と言葉に詰まる。だからなんだと水島は思った。
「勿論今を大事にするのはイイコトだけど、その向こう側を一ミリでも想像したコトある? お前同回のチームメイトと仲良くやれてんの?」
人にはそれぞれ温度がある。三十六度五分はあくまで平均体温。三十七度が普通の人もいれば、三十五度が普通の人もいる。その差二度はあまりに大きい。
温度差と、そこに生じるゆがみ。
「いや、もうね、いろんなヤツいるから全員と仲良くやれっつーのはムリなんだけど、だからと言ってハナっから閉じちゃうのもどうかと思うンだよね。お前このままだといくら頑張ってもロクな結果残せずに終わるよ」
この人はいつ、どの瞬間に、何を見抜いたんだろう。
「それでもいいの? この調子で行ったら一ヶ月後ぶっちぎりで勝負決まるよ。今度の試合、そこを見据えてお前の大事な仲間が俺をチームに入れるって言い出した」
息をのむ。そんなこと聞いてない。
〈今のお前は今のメンバーだから動けてんの。気持ちよく動かさせてもらってんの〉
〈だからいつまでそこにいるのって言ってんの〉
「言おうか? メンバーは円、高野、杉下、山崎。ココに俺が入って上級生チーム。だから必然的にお前は残りのメンバーと戦うことになる」
そうして細い指を水島の胸元に突き立てる。
「いつまで甘えてるつもりなの? いい加減自分で立ちなよ」
その目はまっすぐ射ぬく。水島は一瞬、高野のことを思い出した。あの人はきっと、この目に当てられた。
「今までお前が見てきたものは何? 目の前に手本があったんだろ。今度はお前がそれをやるんだよ。四の五の言ってるヒマなんかねぇんだよ」
縮み上がる。背筋を這い上がるのは焦り。嫌な汗がにじむ。
堪えるのはどこかで分かっていて目をそらしてきた問題だったから。的確に突かれて身動きがとれない。
「例え互いの関係が危うくても平均体温を上げる方法はある。ただ教えるつもりはない。存分にあがいて、苦しめ。それができたらもっと気持ちイイコト教えてやるよ。そのために俺はここにいる」
その後鮫島は一歩下がった。水島の心臓は突き立てられた指の感触を記憶する。離れても尚、同じ早さで刻み続ける鼓動。
「・・・・・・それでも構わないなら好きにしたらいい」
まさか。これだけあおられて動けないようなら男じゃない。本気で水島はそう思った。その目に宿った光を見て鮫島は頬を緩める。
「そうだな。俺だったらできる努力をして好きにする」
ゆるやかな弧を描く目元。
「バスケも、女も」
主導権はとりたいタイプ。と続けるとその腕を組む。
「で、お前はどうすんの?」
「僕は」
「『カッコいいと思った』って言われたくない?」
「すごい言われたい。よろしくお願いします」
ぎゃははと笑う。あとはもうただの二人だった。
「本と、お前雅ちゃんが関わると良くも悪くもバカんなるよなぁ。何ていうか、ここまでくるとうらやましいわ」
二
時刻は十三時四十五分。人気のない校内。職員、あとは自分たちの関係者以外無人と言ってよかった。
「で、用はコレだけ?」
ゆっくり深呼吸。深いところで心臓が音を立て始めていた。
「・・・・・・まさか」
生徒会室の前。水島と鮫島。思い起こせば初めて二人が出会ったのもこの場所だった。
そう。水島は気づいていた。この人はここに来ることはあっても、一切この中に入ろうとしない。どこへでもついてくる男が唯一自分を離れる場所。それは「関係者ではないために引いた一線」良識に寄るものなのだろうか。そんな良識自体、この人が持ちうるのだろうか。どこまでもわがままで勝手で自由な人が、ここにだけ見せる特別。この人を縛っているのは規則なんかじゃないんじゃないか。
「話があるのは僕ではありません。・・・・・・沙羅」
呼ぶと同時に生徒会室の引き戸が開いた。突然のことに鮫島はその身体をわずかに強張らせた。次の瞬間、
水島はその身体を力一杯押すと、引き戸を閉めた。途端、扉越しに聞こえたのはつんざくような悲鳴。女のような、けれどもそれは間違いなく男の、鮫島のものだった。
「オイコラふざけんなァ! 開けろ! オイ、コラァ!」
続いたのは一転、落雷のような低い怒号。聞いたことのない巻き舌気味の声色。普段ひょうひょうとしている男の、これが本来のエネルギー量。そうと分かると今さらながら足がすくんだ。
「オイ聖ィ!」
何でこんな時にちゃんと名前を呼ぶんだよ。
水島自身、最初こそ疑わなかったが、これが本当に正しいことなのかブレ始める。人格さえ変えてしまうとんでもない獣を呼び覚ましてしまった。下手すればもう二度と関われないんじゃないかという不安がよぎる。
恐怖。震える指先。迷いがわずかな隙間をつくり、引き戸がガタガタと音を立てた。
歯を食い縛ってうつむく、その時だった。わずかな隙間がぴしゃりとしまる。現れたのは
「高崎先輩・・・・・・」
仲間イチの腕力の持ち主だった。水島のずっと上の方についた手。なりふり構わず激しい抵抗をし続ける相手に、片手で扉の主導権を握る。
「代われ」
水島が引き下がると同時に両手で押さえる。かかとを壁について力を込めれば扉はピクリとも動かなくなった。
「・・・・・・間違ってないぜ。分かってても俺はこんなことできなかったがな」
やさしいまなざしは全力の獣を相手にしている真っ最中であることを忘れさせた。その腕の筋肉に浮き出た血管だけが動く。
「・・・・・・どうしてここへ?」
「心配だったからさ。失敗できねぇ。こんなこと二度とないんだろ?」
のどが引き攣れた。その通りだった。
思い出す。そうだ。これは僕だけの問題ではない。僕以上のリスクを負っている人がいる。その人を何が何でも守らなければ。
〈大事な友人が大切にしてる子だ。だから俺達にとっても大切なんだ〉
大事な人の大切な人を。
エラの張ったあごの骨。浮かぶ首筋の筋肉。余計なものをそぎ落とした精悍な横顔。水島が見つめる先で男は室内に呼びかけた。
「おい鮫、いい加減腹くくれよ。言ったろ決着をつけるって」
「・・・・・・っ高崎ィ!」
少年の推理は当たっていた。神経がむき出しになっている場所、嗅覚。反射するフローリングの表面、ワックスのニオイ。鮫島にとってそれこそが「彼女」に直接つながっていた。全てが二年前に戻る。事件が起こる前「彼女」と初めて出会った場所、生徒会室。
少しして扉の揺れがおさまった。相手が悪いと知って、ようやく観念したようだった。静寂。長い間があった。不安になって再び呼びかけようと扉に近づいた時、中から声がした。
「・・・・・・出ない。代わりに席を外してくれ」
「絶対か?」
「ああ。絶対」
三
高崎は手を下ろすと、水島の肩を叩いて階段に足をかけた。一段下りたところで振り返る。「雅ちゃんは?」
「・・・・・・職員室の前の階段に」
「お前の指示か?」
「いえ、鮫島先輩のためだと言ったら自ら」
「賢いな。イイ女だ」
いい声だった。普段耳にする何倍も深みを増す。それは純粋な賞賛だった。大きな身体を揺らして階段を下りていく。
「高崎先輩は・・・・・・?」
「俺もやることがある。あと頼むぜ」
一本一本が太い指。ヒラヒラと振ると高崎は階下へと消えた。
その後水島は「階段を挟んで反対側にある暗室のドア」を開けると同時に、唇に指先を当てた。
「今話してるとこだから」
中にいた少女はうなずいた。カーテンの開いた暗室に差し込む光はまぶしい。その特徴的なシルエット。
できることはやった。あとは待つだけだった。
「どういうつもりだ」
息を切らしていたのは、必要な酸素量と運動量が見合わないためだけじゃない。緊張による浅い呼吸が、身体の悲鳴を嗅ぎ取っていた。
白い天面。事務用の横長の机に片手をついて鮫島をまっすぐ見つめているのは、大きなマスクをした少女。その蛍光色のヘアゴムが、薄黄色のカーテンにろ過された光を受けてぼんやりと主張する。
「・・・・・・伝言を」
咳払い一つ、再び目を上げる。
「お姉ちゃんから。卒業おめでとう。私は元気だから心配しないでって。つとむくんも」
「違ぇよ」
頭をかきむしりながら大股に歩み寄ると、少女はたじろいだ。男は迷わずそのマスクをむしり取る。
「何でお前がココにいるんだよ」
驚きに開かれた口からのぞいた八重歯。あわてて隠した所でもう遅い。
「梨沙」
四
鮫島は続けてカーテンを引いた。室内に差し込む強い光。冬であるにも関わらず、まだ去年の夏を引きずっているような肌の色。
「髪は・・・・・・伸びるもんだな」
少女は眉間にシワを寄せると、いたずらっ子のような顔をして笑った。
「・・・・・・いつから気づいてた?」
「始めからだよ。何ソレ。変装のつもり?」
言われると同時にホラ、とドヤ顔で見せたヘアゴム。正面から見えるよう、ご丁寧に横結びにしている。肌の色は化粧で調整したが、手の甲や足まで行き届かなかった「花粉症」と答えようとしていたマスクに至っては、聞かれる前にとられてしまっている。
「だから全部中途半端なんだよ。相変わらずお前よくそれで『お姉ちゃんから伝言』って言えたな。声まで似せようとしてかえって違和感あおってるし、そもそもアイツはお前のこと『お姉ちゃん』なんて呼び方してなかったからな。あと」
少女は眉間にシワを寄せたまま眉を下げた。
「もういいよぉ」
自分ではいけるつもりだったのだ。だます気満々で行ってダメ出しを受けること程、落差の大きい立場逆転もそうない。この時点で充分報いは受けていると言ってよかった。現に梨沙は既にちょっと泣きそうになっている。しかしこの鬼畜野郎は一切耳を貸さない。全て伝えきるまで止まる気がなかった。
「お前自覚してねぇんだろうけどな、お前が名前呼ぶとひらがなになるんだよ」
「・・・・・・え?」
「だから、それだけで分かるの。間違えようがないの。分かった?」
少女には理解出来ないことだった。けれども自然とこぼれた笑みは、理解しうる部分もあるということでもあった。鮫島の横を通り過ぎると振り返って、跳ねるように一歩下がる。
「・・・・・・良かった『伝言』じゃ本当に伝えたいことが伝わらない所だった」
沙羅のゆるい、と言ってスカートのお腹周りを調節すると再び顔を上げる。
鮫島勤と多須梨沙は「二度と二人を会わせない」ことを条件に、過去に金銭のやりとりが行われている。だからこの場に梨沙は存在してはいけない。いるのはあくまで沙羅だった。
「わたしね、高卒認定受けたよ。来月から看護学校行くんだ。看護師になるの」
男の顔色が変わる。大きく見開かれた目。思いもしないことに息をのむ。同時に、過去にその妹から聞いたことを思い出していた。
〈知りませんよ。案外姉の方が先進んでるかも〉
「だから大丈夫。むしろつとむくんの方が大丈夫? これからどうするの?」
肩まで伸びた髪。干上がるのど。答えられない鮫島はムリヤリ聞き返す。
「何で看護師?」
「んー何でだろ。病院でいっぱいお世話になったから? 違うな」
ほころぶ。誰にでも春は来る。
「助けられたからかな? つとむくんのお父さんに。お医者さんってスゴイんだね。わたしもあんな風に人の役に立ちたかった」
これって罪滅ぼしのつもりなのかな。ギゼン? と言うと、梨沙はもう一歩下がった。引っ込む八重歯。見つめるその目は静か。
五
「・・・・・・ねぇ『もう人を好きになる資格はない』ってどういうこと?」
「・・・・・・関係ないだろ」
「関係なくないよ」
舌打ち一つ「アイツ」とつぶやく。梨沙は胸を張ると、室内に響く声で言った。
「関係なくない。だってわたしは、つとむくんといて楽しかった。悪いことばっかしてたけど、そんな自分をまっすぐ受け止めてくれたよね? 何の補正もかけず、ありのままの自分を受け入れてくれたじゃない。それって、ただの愛だよね」
対価を求めない。己にかかる不利益を顧みない。当然のように注ぎ込む、それは『
「声デカい。抑えて」
その忠告は、届かない。少女の「届けたい」という思いの方が
「つとむくんに大切にされる子は本当に幸せだよ。だから、お願いだから、もう人を好きにならないなんて悲しいこと言わないで」
つとむくんに会えてよかった。幸せだった。と言うと、もう一歩下がる。そのすぐ後ろに扉はあった。
「ありがとう」
それを聞いた男の喉が少しだけヒクついたようだった。
出ない声。息を吸っては飲み込んで、息を吸っては飲み込む。
〈それってフェアじゃないと思わない?〉
本当に伝えたかったのはそんなちゃちな恨み言じゃない。
本当に伝えたかったのはたった一言、それを言えなかったがために歪んでいたもの。
体内で十二分にあたためられた想いは、今確かに少女に届く。
「幸せになってくれ」
何の力も保障もない、それは祈り。腹の底から出た最後の贈り物。
梨沙は扉に手をかけた。
「・・・・・・つとむくんも」
時刻は十四時半。扉を開けると梨沙は妹を迎えに行く。たった三十分の魔法がとける。
「待て」
それは梨沙が暗室のドアを開けた時だった。鮫島は中に水島と沙羅本人がいるのを確認すると、口を開いた。
「家に着くまでが遠足だよ。三分後、ココを出たら最短で敷地外を目指して。・・・・・・水島、頼んだぞ」
言うときびすを返す。向かったのは生徒会室と逆方向。
息をのんだ三人は互いの顔を見合わせるが、すぐに手元の時計を確認した。十四時三十二分。三分後は三十五分だ。水島は二人に声をかけた。
「大丈夫。あの人は護ると言ったら必ず護る」
ニセ者の沙羅が笑った。
「・・・・・・うん、知ってる」