雅6〈8月15日(日)⑤〉
文字数 2,249文字
五
音を立てずに傾いていく太陽。安らかな寝息が二つ。意図せず手に入れた一人の時間によって、肩の力が抜けるのを感じた。
痛い・・・・・・。それは気が緩んだために思い出した、一つの現実。足首。グラスの破片で出来た傷は、意識すると同時に鈍い痛みを次々に発信し始めた。非日常の中でも、決して消えはしない日常。痛む傷。〈前期会計報告書における用途不明金について〉早くどうにかしないと化膿してしまう。
人を好きになるという事は、麻薬を使う事に似ている気がする。夢中になっている間は、今ある現実から逃れられる。でもそれは同時に冷静さを失うことと隣り合わせでもあって。本来の自分に戻るというのは、次に正しい一歩を踏み出すために必要な事かもしれない。
深呼吸をして、ゆっくり首を回して伸びをする。
そうしてそれは本当に偶然だった。身体をひねって伸びをしようとした時、それはあたしの目に飛び込んできた。
胸元にジュースを抱えた草進真琴。その手前に、どこかで見たことのある大柄の男。あたしは考えるより先に立ち上がると、急いでサンダルを履き、地面を蹴った。
「何ですか?」
二人の間に割って入ると、あたしは息を整えながらその顔をにらみつけた。後ろにやった草進真琴は音を立てて震えている。
「ああ? 先にぶつかってきたのはそっちだぜ?」
偶然にしては出来過ぎた話だけれど、あたしが花火の夜ぶつかったあの男、今で言うこの男は、あの時と全く同じ顔をして言った。この子の場合、おそらくちゃんと前を見ていなかったのだろう。
「ん? ネェちゃん、どっかで見た顔だな?」
ぞっとする。あたしは目を逸らさないまま一歩下がった。軽く触れた腕は日の下にいるにも関わらず、やたら冷たい。スキンヘッドの目が過去の場面を探し当てて光った。
「ああ・・・・・・花火ん時の・・・・・・。あん時はよくも」
それでも目は逸らさない。にらみつけたままその場に留まる。
「今日はあの兄ちゃんいないのかい? そりゃ残念だねぇ」
その脂ぎった頭が鈍く光る。黄ばんだヤニの見え隠れする口元。全身を強張らせたまま、どうしたものかと考える。しかしそうしてぼやぼやしているうちに、男の仲間らしき人達が集まってきた。
「何? 何かあったの倉西―」
スキンヘッドの名前は倉西らしい。まるで造作に合ってない。
「ナンパ? うっわ、めっちゃかわいいじゃん」
現れた二人の男のうちの一人が無遠慮に顔を近づけた。締まりのない口元。嗅いだことのない不快なにおい。力いっぱいにらみつけながら、もう一歩下がる。
「いや、俺はこっちの方が好みだなー」
もう片方の長髪の男が、いつの間にか背後に回って、真琴のメガネをとった。
「やっぱり」
「触わんじゃないわよ!」
あたしはメガネ片手に笑う男に向かって、思いっきり怒鳴りつける。そうしてその男からも遠ざけるように、後ろへ回す。
「気ぃ強ぇな、おい」
飛鳥様ほどではないが、背が高いこともあって、真上から見下ろされる。あたしは、震えながらあたしの腕にしがみついている真琴の手を、反対の手で強く握り返した。
「じゃあ、前回の続きと行こうか・・・・・・なぁ、ネェちゃん」
スキンヘッドの目が妖しく光った、その時だった。
目の前を遮られる。次の瞬間、長髪の男が音を立てて尻もちをついた。シャツの首元を押さえているところから、襟を掴んで投げ飛ばされたのだろう。
「何だお前?」
スキンヘッドがうなる。目の前に現れた大きい背中。
飛鳥様は何も言わない。その後ろ姿はピリピリと電気をまとっているかのようだ。
「邪魔すんじゃねぇよ!」
あたしは身体を強張らせて目をつぶる。しかし次の瞬間、またもや聞きなれた声が届く。
「何、またお前?」
そうそう。また・・・・・・
「あん時と全く同じセリフじゃん。芸がないなー」
驚いて首を回すと、寝起きの鮫島先輩がのらりくらりとこっちに向かって歩いて来る所だった。それを見たスキンヘッドの顔色が、頭のてっぺんから変わる。
「なぁ、おい。また遊びたいの?」
思いっきりあくびをしながら頭の後ろをかく。そうして不自然なほどゆっくり目を合わせて、いつものように笑う。
「タコ」
「何、知り合い?」
飛鳥様はそう言うと、タバコに火をつけている鮫島先輩を見た。煙を吐き出しながら口の右端をつり上げる。
「うん、ちょっとね。前にも一回遊んだことがある。ね、雅ちゃん」
あたしは曖昧に微笑むしかない。男達は退散した。というのもあのスキンヘッドが頭だったらしく、その頭が一瞬にして戦意喪失してしまったからだ。
〈いや、無理っす〉
そう言うと、男はあっさり背を向けた。なにそれ。
それはそうと、あの夜鮫島先輩は一体何をしたというのだろう。男の震え方は尋常じゃなかった。軽く聞いてみると鮫島先輩は「内緒」と言ってやはり笑った。
ぽん。
その時、頭にぬくもりを感じて目を上げた。そこには今まで見たことのない、極上の笑顔があった。
「よくやった」
飛鳥様はそう言って乱暴に頭をなでると、もう一度「うん、よくやった」と言った。顔が熱い。ひどく複雑な気分になる。真琴はまだあたしの腕を掴んだままだ。
「・・・・・・いえ」
夕日を目いっぱい浴びて笑う飛鳥様は、ほろ苦くあたしの胸に焼きつく。何故だか大声で泣きたくなってしまって「いつまで掴んでんのよ」と真琴に当たった。