真琴6〈8月15日(日)②〉
文字数 1,707文字
二
海から約十分。堤防沿いの道路をずっと走って宿に着くと、突き当たりの階段を上がる。三階まで辿り着いた所で廊下を行くと、水島君や火州さんの部屋の前に差しかかった。その時だった。三○四号室のドアが開いた。私は突然の事に固まる。
「み、水島君・・・・・・」
水島君は私に気付くと「ああ」と口にした。同じ館内にいるとは分かっていても、思わぬ遭遇に頭が真っ白になる。
「それ・・・・・・あったんだ」
水島君が私のメガネを指差して言う。激しくうなずいた。ヘドバン認定を受けられるレベルだったと思う。
「よかったね」
その口元が微かに緩んだ。都合の良い解釈だろうか。最近水島君は優しくなった。というか、何となく雰囲気が柔らかくなった。そうしてはっと思い出す。
「あ、そうだ! 今日、あの、ここに来るときありがとう・・・・・・ね。あの、肩! 肩貸してもらったから」
必死になって伝える。水島君は閉めたドアの前で半身を向けたまま「うん」と言った。
「う、うれしかったからっ・・・・・・」
出る時は開いていた廊下の窓が閉まっていた。そのせいで空気がこもり、濃度が上がる。息苦しい。濃い。空気が、濃い。私はうつむいたまま、そっと息を吐く。でも言えた。今まで言えなかった気持ちが伝わる。
「うん、よかった」
微かに上がる頬。私はそれをじっと見つめる。やっぱり、柔らかくなった。これは少しづつでも近づけているということなのだろうか。抑えようとしても、気持ちが勝手に浮上する。浮かぶ風船は、油断して一度手を離してしまったが最後、どこまでも昇っていく。どこまでも、どこまでも、際限なく昇っていく。
「あ、あとね、今日星すごくキレイだったよ」
調子に乗った私は、ここぞとばかりになけなしの勇気を振り絞る。花火の夜、水島君が言っていたことを覚えているよ。そうしてその時一緒にいた私を思い出して、と声をかける。
「・・・・・・そっか。教えてくれてありがとう」
その後こっちに向かって歩いて来る。再びうつむく。「ううん」と言った声はいつもと同じ大きさに戻っていた。
「用事あるから、またね」
そうしてすれ違うと、階段に足をかける。近くを通った時、無意識に息を止めていた。自分の心臓の音が聞こえてしまわないか不安になったのだ。ほっと胸をなでおろす。
「あ、そうそう」
床から一センチほどが浮き上がる。冗談抜きに心臓が飛び出すかと思った。その後水島君は、二段だけ階段を下りたところでこっちを見ずに言った。
「そのパーカー、脱いでいった方がいいと思うよ」
全身を強張らせる。今羽織っている白のパーカー。火州さんに借りたものだ。血の気が引く。その後階段を下りていく足音だけが残った。脳が、焦げ付く。頭じゃなく、心臓で考える。何してるんだよ、私。
むせ返るように濃い。私はそれに耐え切れず、急いでお手洗いに駆け込んだ。
こういったところのお手洗いというのは、一貫して怖いものだ。修学旅行では、夜中起きてしまったとき一緒についてきてもらうことを、友人同士、堅く誓いあった。そんな恐怖を、いっそ吹き飛ばす程の事情が存在することを知る。背中だけが燃えるように熱い。
〈今日、星すごくキレイだったよ〉
私は自分が言ったことを思い返す。それは今しがた外にいたことを表す。
〈そのパーカー、脱いでいった方がいいと思うよ〉
火州さんと一緒に。
その場にしゃがみこむ。目の前にある鏡を見る勇気もなかった。水島君にどう思われたのだろう。火州さんとは何もないのに。そんな言い訳をしたところで仕方ないのだが。
どうして気付かなかった。あれだけ長い時間歩いて戻ってきたのだから、気付くチャンスはいくらでもあったはずなのに。全ては今更。分かっているのだけれど、悔やんでも悔やみきれなかった。
静かな館内。高い耳鳴りがした。どれくらいの間そうしていたのだろう。いい加減立ち上がる。
「・・・・・・っ!」
立ちくらんで手をつく。ハレーション。まばたきする度に蛍光色がはじける。パーカーを脱いで、腕にかける。背中が急に冷えるように感じた。