飛鳥15〈1月8日(土)〉

文字数 4,752文字




  一

 現れたのは鮫島だった。
「何だよその格好! お前どうしたんだよ」
 熱い。今にも発火しそうな身体。気付けば肩で息をしていた。
 記憶がない。ただこぶしから伝わる鈍い痛みが、見て見ぬフリを赦そうとしない。
 ズク、ズク、ズク、ズク。
 血管が広がったり縮んだりするのに合わせて、目の前が明るくなったり暗くなったりする。
 記憶がない。断片的にかすめたのは「やめてくれ」「助けて」と叫ぶゆがんだ顔。たぶん俺はケンカをしてきたんだと思う。
「バカ。お前相手にケンカになるかよ。一方的じゃねぇか」
 ついた赤は全て返り血。痛みがうずくのは両のこぶしのみ。確かに他に切れたり腫れたり、増してや折れたりした所なんてどこにもなかった。先に言っておくが、俺は自らケンカを仕掛けた訳じゃない。
「分かってる。お前自ら動くことなんてないからな。でもやられた方は忘れねぇ。それにこりて大人しくしてただろ。子分の、ダチの、兄弟のかたきっつって雪だるま式に増えて、時間差で襲って来やがる。少なくとも今、ジュケンセイがやることじゃねぇ」
 受験生、という言葉に頭の一部が冷える。
 上がるよと言うと鮫島はタオルをぬらして持って来た。
「リカちゃんはどしたの? これ知らないの?」
「会ってない」
「何、別れたの?」
「・・・・・・」
 のぞき込む鮫島の視線から逃れる。思い出してのどが引き攣れた。
「もう会わない。すり減る。全然違う」
 一瞬の間があった。力なくぶら下がった手。それでもあくまで一瞬だった。すぐに続ける。
「いいからとりあえずふけ。あと数分もしたら弟子が来る」
「は?」
 刻まれた眉間の深いしわ。イラついたようだった。
「弟子が来るっつってんの。せっかく『本当はそうじゃない』って思い始めたのに、こんな状態見られたらまたフリダシに戻るよ。もうやり直す時間なんて俺達にはないんだから」
「待て。何で真琴が」
「お前んとこのチビ共が来たんだよガッコに」
「は?」
「いいから! 何、白いのじゃまずかった訳? そんなことよりせめて健全な見た目にする方が先じゃない? タオル一枚と引き換えなら目一杯ツリくんだろ」
 突き飛ばされる。そのまま洗面所に向かうと、なるほどひどい顔をしていた。こめかみに入ったままの力。すでに何人か殺してそうな人相だった。ざっと顔を流して、周りに飛び散った血の跡も一緒にぬぐう。

「鮫島」
「何」
 居間から返ってくる声。外の様子をうかがっているようだった。
「頼みがある。もう大丈夫だから、そのまま帰してくれないか」
「何を? 弟子を?」
「ああ。もう大丈夫だから」
 ズク、ズク、ズク、ズク。
 痛むこぶしは隠しきれない。それにいざ本人を前にしたとき、自分がどうなるのか全く分からなかった。それは水島の
「別れたよ」
 相変わらず首を長くして外の様子をうかがっている鮫島は、何のことない調子で言った。
「別れた。ひじき君と。だから大丈夫」
 コイツの呼び方は独特過ぎて、すぐに名前と顔が一致しない。
「真琴と水島がか? 何で」
「何でも何もあったもんじゃないでしょ。アイツはハナっから雅ちゃんしか見てない」
 朗報? 違う。ぐらりと腹ん中で首をもたげたのは、怒り。
 何だそれ。一体何だっていうんだ。それじゃあ真琴は
「待って、怒んないで。確かにひじき君のしたことは良くない。けどソレ、俺もちょびっと関わってるんだわ」
 したことっつっても実際何もしてないんだけどね、と付け足すと続けて声を上げる。
「来た。逃げちゃダメだよ。まだ間に合う」




 橙が差し込んでいた。形あるもの全てを焼くような強い光。代わりにできた長い影。思い出したのは水族館の帰り「帰っちゃうの?」と真琴を引き止めた小さな二人の姿。
 ズク、ズク、ドク、ドク。
 身体がおかしい。やたらうるさいだけの心臓は、鳴った分だけの働きを全身に伝えようとしない。動き方を忘れる。
「飛鳥・・・・・・」
「あすかおにいちゃぁぁぁぁぁん!」
 現れた二人は鮫島に向かって頭を下げると、すぐ様こっちに向かってきた。
 うり坊顔負けの容赦ないタックル。最後に受けたのはいつだったか。
 その小さな頭をなでる。少し離れた所で立ち止まった楓は「もういいの?」と聞いた。
「ダメそうだったからよめつれて来たけど、もういいの?」
 ヤモリのごとくはい上がって背中に落ち着いた礼奈とは対象的に、そのどこまでも冷静な目。ギリギリまで我慢した上だったのだろう。合間に鮫島の顔色をうかがうそぶりを見せる。
「どうですかね? アスカおにいちゃん」
 つり上がる口角。鮫島は腕組みすると廊下の壁に寄りかかった。それと同時に
「火州さん・・・・・・」
 真琴が姿を見せた。
 ドクン。
 身体がおかしい。全身の血が沸騰する。痛みさえ感じるほど鋭く尖った神経。
「どうか・・・・・・したんですか?」
 頭が真っ白になる。
 答えられずにいると、いつの間にか目の前に来て俺の手元を見ていた。
「ケガしたんですか?」
「いや、これは・・・・・・」
 後ろめたさに手を隠すと、悲しそうなまばたきが見えた。
 沈黙。一度だけカラスの鳴き声がした。橙が赤に変わっていく夕日。影の占める割合が音もなく増えていく。視線をかえず、真琴が口を開いた。
「楓君」
「なに」
「タオルある場所教えてくれる?」
 何故だか怒られた気がした。楓より先に「こっちだ」と取り出すと、真琴は黙って冷蔵庫に向かい、保冷剤を包んで戻ってきた。
「礼奈ちゃん、一回下りようか。お兄さん、手当しなきゃ」
 静かな声だった。礼奈は素直に言うことを聞くと、楓の元に向かった。すると楓は再度鮫島に頭を下げて、礼奈と一緒に二階に上がっていった。そのムダのない動き。空気を読むことについては間違いなく一流だ。
「座って下さい」
 手のひらで指し示したのは畳のある居間。縁側に続くガラス戸も開放しているため、まっすぐ夕日が届く。その中に座った。


  三

「いっ・・・・・・!」
 その後ひんやりとしたタオルを巻かれた。保冷剤が脈打つ患部の神経を叩き起こす。触らなければ忘れたままだった。あっという間に両手分巻きおわる。
「痛みますか?」
 静かな声。目は合わない。タオルを巻いた手に手を添えたまま見つめる。桃色のつめ。冷たい水を触ったからだろう。白い肌の節々が赤い。ズクズクわめいていた痛みが再び遠のき始める。
「いや、」
〈別れた。ひじき君と〉
 こんな時にそんなことを思い出す俺はどうかしてる。
 なめらかな頬に落ちた影。メガネのフレームの青。テレビで見た、教会のステンドグラスみたいな透明感はそのまま、夕日が照らす。毛穴の見えない鼻。その引き結ばれた唇に目がとどまる。
 脈打ってるのは本当に心臓か。
 うるさいのは自分の音。ガンガン鳴り響く頭は、目の前のものを処理するのに必死だ。
 全神経が集う。
 触られている所から血がわき出す。生まれた思いが全身を巡る。本当はたぶん、謝らなければいけなくて。楓や礼奈が悪かったと。ここまで来させて悪かったと。そんな顔をさせて悪かったと。でも
 全身がすくみ上がる。トラウマ。これは恐怖だ。次に何を言われるか想像して動けない。
〈もう・・・・・・私に関わらないで下さい〉
 同じ過ちをおかす。次はないかもしれない。もうこれが本当に最後になるかもしれない。気づくと震えていた。
「火州さん・・・・・・?」
 怖い。
 歯を食いしばる。隙間から息が漏れた。今目の前にあるものが永遠に奪われる、そのことが恐ろしくてたまらない。唯一見下すことのない「女」を通して、やっと知る。俺は誰かを大事にしたかった。ただ同じように愛し愛されたかった。
 渇望するところから始まった想いは、だからもう一人では成り立てなくて。
「火州さん、何かあったんですか?」
 動けない。失うのが怖くて、何か言ってしまったら、それをきっかけに全部なくなってしまう気がして。吐く息が声にならない。その影が再び動いたかに見えた、その時だった。

「やめとけ。今日はもう仕舞いだ」
 真琴の肩をつかんだのは鮫島だった。その腕をつかんで立たせる。俺はその存在を思い出して顔を上げた。目が合う。驚いたのは、思っていた表情とのギャップ。
「帰るよ」
 よろめいた真琴がようやくまっすぐ立つ。そうしてこっちを気にしたまま、さっさと背を向けた鮫島の後を追う。
「し、師匠」
「鮫島」
 ちょっと待てよ、とその肩をつかむと、思いのほか強い力で振り払われた。冷ややかな目。突然のことにぼう然とする。
「何だよ急に」
 まばたきをはさまない。射ぬくような視線に自然と身体が強張る。さっきまで話していた相手とは思えない。ため息一つ、よこされた問い。
「お前にとっての俺って何?」




 思いも寄らないことに上手く言葉が出てこない。その様子に鮫島はイラ立ちをを深めた。静かな声の中にトゲが混じる。
「いいよな。お前は黙ってても周りが動く。ただそこにいるってだけで完結してんだから」
「何を言ってる」
 仁王立ち。そのあごが上がる。
「なんだかんだ真っ先に駆けつけたの俺だよ? 別にコイツと全く同じ反応しろとは言わないけど、ここまで温度差あるとホント何なのって思うよね」
「いや、お前は原付(アシ)があったから・・・・・・」
「だから! なんだかんだって言ったでしょ。全く同じじゃない。俺はただ・・・・・・」
 目線が落ちる。その後押し黙ると、鮫島は「何でもねぇ」と言った。悲しい目。眉間に寄ったままのシワ。
 歪む。一対一では不安定なパワーバランス。ただ、いつものことではある。高崎が合流して本体が見えれば、いつだって元の距離に戻ることができた。
 俺は鮫島をあなどっていたのかもしれない。

「・・・・・・ずっと思ってた。お前は俺と同じ気持ちじゃないんじゃないかって。俺がいなくても全然平気だって」
「そんなことはない」と言った声は届かない。鮫島は真琴の肩を抱くと、自分の後ろに回した。小さな身体はいとも簡単にその影に隠れる。突然のことに目を丸くした真琴は、顔だけのぞかせて鮫島の様子をうかがった。
「お前にとっての俺。答えは『絶対』それ以外受けつけるつもりなんてなかった。無回答なんて論外だよ」
「ししょ、」
 不安そうに見上げる。まるで自分が傷ついているかのようだった。思わず一歩前に出る。
「・・・・・・ここまで言ってもまだコイツなんだな」
 顔を上げる。しまった、と思った時にはもう遅かった。その手が再び真琴の肩を抱く。
「手を出すな・・・・・・だっけ?」
 自嘲気味に笑う。不気味な空気が漂い始める。
 それは、九月のことだった。
〈言っとくけど貸しだからね。いつか俺の気が向いたとき、一発殴らせてもらうから〉
 あの時そう言った。鮫島は
「あの時の借りを返すよ」
 行くぞ弟子、と言うときびすを返した。
 息を呑む。一瞬全ての音が止んだ。全く状況が飲み込めない。
 ちょっと待て「一発殴る」なら分かるが、何で真琴。何だって急に。いや、それ以前に何で真琴は抵抗しない。まるでいつものことみたいに・・・・・・。
 そうだ。そういえばあの時もそうだった。この二人のこの距離感は何だ。
 混乱。止めなければいけないのは分かっているのに動けない。貸しがあったのは事実で、それに対する後ろめたさがあることも事実だった。
 玄関のドアを開けて再度振り返る。哀れむような目。鮫島は小首をかしげると口を開いた。
「あ、一応確認しとくけど、ホントに『もう大丈夫』なんだよね? これでまたチビ共ガッコよこすようなマネしないでよね。おニイちゃん」
 そうして「じゃねー」と言い残すとドアを閉める。ガラス戸の向こう、萌えるような夕日の中で二人の影が重なって見えた。






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登場人物紹介

草進真琴(そうしんまこと)

高一女子。モットーは「私はただの高校生。それ以上でもそれ以下でもない」

6月10日生まれ、A型。


作画、いく。

火州飛鳥(ひしゅうあすか)

女嫌いの高三。美形。

9月2日生まれ、B型。


作画、いく。

鈴汝雅(すずなみやび)

男嫌いの高二。美人。

3月3日生まれ、O型。


作画、いく。

水島聖(みずしまひじり)

病んだ高一。思い込みが激しい。

6月27日生まれ、A型。


作画、いく。

鮫島勤(さめじまつとむ)

高三。飛鳥の友人。

2月2日生まれ、AB型。


作画、いく。

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