聖3〈6月23日(水)②〉
文字数 1,714文字
二
今日は水曜日だから部活は休みだ。目先に待つものがない時ほどだるい授業はない。
生物。担当の先生が、パブロフの犬について熱心に語っている。犬に餌をやる時、直前に鈴などで合図をして与えるということを続けていると、その音がしただけで唾液が分泌されるようになるらしい。
ふぅんと少しだけ視線をずらす。
草進さんは、腰まであった髪の毛を肩甲骨の辺りまで短くした。気の毒な話だ。その髪は長くても手入れが行き届いていた。着物なんかよく似合ったんじゃないか。
彼女自身、あれから特に変わった様子はない。本当の所は分からないが、まるであの出来事自体なかったかのようだ。見かけによらず強い子なんだな、と思う。
本日日中最高気温三十度。いよいよ夏本番。今週一週間は制服の衣替えの期間で、来週からは全員夏服で統一される。もう週の半ばという事もあって、半分以上の人間が衣替えを済ませている。
男子はシャツに黒のズボンという、上着を脱いだだけのあまり変わり映えのないものだが、女子は、紺地に白襟のラインだったものが反転して、白地に紺襟のラインのものになる。控えめだったエンジのリボンは、白地に映えて急に鮮やか。スカートは夏用だと生地が薄くなり、うっすら太ももが透けたりする。だから思わぬラッキーに遭遇する確率が高いというか、
ため息をつく。目先に待つものがないとそんな事に頭が行ってしまう。そう、今は目先に待つものがないからそんなことばかり考えてしまうだけで、これら全ては目先に待つものを作った方がいいという教訓なのだ。
やっとのことで放課後、もしかしたらと生徒会室に足を運ぶ。まぶしい日差しが突き刺す新緑。雀の声が立て続けに響いた。自然豊かな中庭を横目に突き進む。
しかしそんな僕の邪心はあっさり天に見透かされてしまったのだろう。都合よくいるはずもなく、肩を落として生徒会室を出た。その時同じように、隣接する大会議室の向こう側からも人が現れた。後ろ手にドアを閉める。黒。まだ冬服の男だった。
既視感。はっと目を見開く。保健室に現れた、あの時の男だ。こっちに向かってくる。こっちには大会議室と生徒会室しかない。大会議室を素通りして来ているから、生徒会室に用があるのだろう。しかし関係者としてその姿を見たことはない。
その人は目の前まで来ると立ち止まり「雅ちゃんいる?」と聞いてきた。
雅ちゃん?
よどんでいた不審が急速にその色を濃くする。保健室でも思ったが、この人は会長の知り合いなのだろうか。
会長の、何だ?
見上げる。日に弱いのだろうか。焼けた部分が真っ赤だ。三白眼気味の細い目。ツンと尖がった鼻。薄い唇。その顔にこれといった特徴を覚えることはなかったが、全身の細さがやけに気味悪く残った。吐く息は喫煙者のものだ。
「・・・・・・いません」
たぶんいても同じように答えたと思う。
「ほんとに?」
その人はさらに目を細くして、僕を見下ろす。
「はい。どうぞご自分で確認してください」
その人の横をすり抜けた所だった。振り返ると、けだるそうに背中を丸めているその人は、口の右端を吊り上げて言った。
「ターコ。冗談に決まってんじゃん。もしかしたらと思っただけだ」
こめかみに力が入った。奥歯が合わさる。その目、立ち振る舞いもそうだが、目が一番己と相手の関係性を表す。品定めの目。この時点で既にこの人は僕を見下している。思っても出さないのが礼儀だとしたら、この人は礼節を欠いている。僕は思いきって尋ねてみた。
「あなたは会長の何ですか?」
「何、って何? 雅ちゃん主体の関係を聞きたい訳?」
鼻で笑われる。ケンカ売ってるのかと思う。
「なんてね。友人前後ってとこ? お互いアドレス知ってるし」
前言撤回。ケンカ売られてる。確実に。
「そうですか」
じろじろとその姿を観察する。ずっと感じているまがまがしい雰囲気は、そのゆがんだ体躯から醸し出されているものなのだろうか。
「お前こそ」
その口が動く。聞き取り可能な最低音量。消費エネルギーを最小限に抑えている感じだ。
「雅ちゃんの何なんだよ」