その後②〈4月29日(金)鈴汝家、19時半~〉
文字数 3,588文字
鈴汝雅は腕組みをしていた。玄関先、これからやって来るという『自称彼氏』の男に、どう鉄槌を食らわせようか現在進行形で想像をふくらませ続けている。
約束の一ヶ月から既に二週間が経過していた。今さらどのツラ下げて現れるのか、非常に見物である。
チャイムが鳴った。ドアを開けると、急いでシャワーを浴びてきたのだろう、部活後にしては良い匂いをまとった少年が飛び込んで来た。
「やっと会えた」
たった五センチの身長差は誤差範囲。そんな決して大柄とはいえない少年は、力一杯少女を抱きすくめる。慌てた少女はドアを閉めると、再び息をする前にその身体を引きはがした。危ない。いきなり流される所だった。水島は目を丸くすると正面からその姿を見つめた。
「な、何よ。今の今まで何の音沙汰もなかったクセに。都合良いわ」
「遅くなってすいません。やっと一段落したんです」
「勧誘祭の後も反省があったのね。随分かかったものだわ」
一拍おいて、少年の頬がつり上がった。ゆるむ、というよりは意地悪そうに見える。
「あーそっか。寂しかったんですね。それはすいませんでした。もう大丈夫ですよ。これからは」
「ヤリ
「! 何てこと言うんですか」
「彼氏だなんて名ばかりよ。あんたなんか『自称彼氏』よ。とんだ自己満足だわ」
自称彼氏って・・・・・・と呆然とする少年は急いで付け足す。
「一人にしてすいませんでした。ただ、本当に大事な時期でして、もう明後日から予選が始まるんです」
「知ってるわよそんなこと。こっちだって一緒だわ」
プンむくれである。一応承知の上での一ヶ月だったため、思いっきり没頭していたのだが、どんな理屈を並べたところで彼女が黒と言えば黒なのだ。正論なんて何の役にも立たない。水島は答えに窮すると、秘密兵器として持っていた小箱を差し出した。
「・・・・・・何?」
「あげます」
少女はいぶかしげな表情でそれを開けると
「ケーキ」
パッと表情を変えた。ただ単に喜んで欲しくて調達したものだが、水島自身、まさか保身のために使うことになるとは思っていなかった。その目の輝きを見てホッと胸をなでおろす。
「どっちがどっち? あたしチョコでもいい?」
「お好きな方を」
「どうぞ。こんな所じゃあれだから上がって頂戴」
糖分最強説。ここまで来ると世界平和に必要なのはご立派な志ではなく糖分なのではないかとさえ思えてくる。到着して十分。やっと上がりまちを越える。
「あの・・・・・・ヤリ
「いいわよもう」
いいんだ。
「あと『自称彼氏』って・・・・・・僕今でも彼氏で大丈夫ですよね? 付き合ってますよね?」
「そうね」
ギリ彼氏で良いらしい。部屋につくと鈴汝は早速ケーキを食べようとフォークを取り出した。急いでそれを取り上げる。次の瞬間、水島に向けられたのは飢えた獣の目。下手すると殺気で人を殺せるレベルだった。
「デザートは最後です」
人質を取れば、ある程度安心できた。水島はその手を引いて立ち上がらせると、ベッドに押し倒す。はずむスプリング。少女の目が少しだけ戸惑いに揺れた。
「ヤリ
「はい。目的ではありませんから。あくまで経由、中継地点です。ならサッサと終えておいた方がいい。後はのんびり歩きましょう」
少女はまだ何か言いたげだったが、再び抱きすくめると大人しくなった。少年のあごの下に鼻先を押しつけると、息を吸い込んでやんわり微笑む。
「聖」
声だけで分かった。水島はその頭をなでるとキスをした。
この人は感情をたったの数音で伝える。わざわざ共通の言語に戻さなくても伝わる。
「会いたかった。会いたかった。ずっと。寂しかった」
だからわざわざ変換しなくても伝わるんだってば。
そのあごを掴んで上を向かせると、舌をねじ込んだ。頼むからあおらないでくれよ。ただでさえ、もうとっくに限界を越えてるんだから。
「雅」
そこから先を、覚えていない。
目を開けるとすっかり夜だった。間接的に下から届く電灯が白で輪郭を縁取っている。身体を起こす。頭の真ん中が重い。
「なっがい経由だったわね。道草メインで一体どこにたどり着きたかったのかしら?」
頭が働かない。テーブルにケーキのフィルムが見えた。
「おいしかったですか?」
「ええ。ごちそうさま。あなたの分、冷蔵庫に入れてあるわ」
食べるか聞かれたが断る「あげます」と言うと「悪いわ」と言いながらすり寄ってきた。もはや小悪魔なんてもんじゃない。ド悪魔だ。
携帯を開く。二十二時になろうとしていた。
「時間は大丈夫ですか?」
「今さらよく聞くわ。大丈夫よ。今日は帰ってこない」
水島はホッとして再び身体を横たえる。頭の中心がぐらんと揺れた。
〈なぁ、お前何か食うとき、好きなもんあったら先に食べる派? 後にとっとく派?〉
少年は笑った。あの時鮫島の言っていたことの意味が、ようやく分かった気がした。
「あの人は・・・・・・前を向けたのかなぁ」
「何?」
「いえ、」
言いながらその身体を抱き寄せる。腰痛っ。おいおい復活が早すぎるんだけど。あんまり調子乗ると心身共に締め出し食らっちゃうんだけど。
「大丈夫よ。卒業式の日、職員室の前で鮫島先輩を見かけたわ。その時先生方も帰り支度を始めた所だったんだけど、ドア開けて開口一番『今まですいませんでした』って。きちんとするって。一年かけて取り戻すって。だからよろしくお願いしますって」
少女はくしゃっと笑った。
「『目的』を果たしたのね。全然違ったわよ。雰囲気がまるで別人だった」
「そうですか。これで引きずり出せるといいんですが・・・・・・」
「引きずり出す? これでおしまいじゃないの?」
「違いますよ」
少年の見る先が変わる。鈴汝を抱きかかえたまま、壁の一点を見つめる。カーテンが微かに揺れた。
それは勧誘祭の後、反省会でのやりとりだった。
〈お前こそ師匠って呼べよ〉
あの時どう動けばよかったのか、どこを見なきゃいけなかったのか。すりあわせをしているときに大きなため息をつきながら細い男は言った。ぐぅの音も出ない少年に、意地の悪い笑みを浮かべて続ける。
〈ガツガツに鍛えるからな。お前今日から弟子な〉
水島は一人の少女の顔を思い出した。この人にはそんな呼び方をしている相手が既にいた。
〈そだね。かぶると何かと面倒か。俺も呼び方困るし。じゃあお前は
髪の長い少女。少年は見ていた。
まっすぐ師匠と呼ぶまなざし。球技大会でのやりとり。雪山の帰り、普段からおおよそ考えられない力強さでその人をたしなめたこと。
〈俺が好きなのは雅ちゃんじゃないってば〉
〈じゃあ俺からも頼むわ〉
〈嫌われるように努力してくんない?〉
〈何で離れなきゃなんないお前が毎日一緒にいて、この俺様が労力のムダ遣いしなきゃなんねぇんだよ〉
〈アイツ、やさしいんだ〉
「ねぇ、前に鮫島先輩にお願いされたことがあったんだけど」
身じろぎ。目は合わない。
「あの子・・・・・・その、男女関係ちょっと疎いみたいで、教育してやってくれって。犯罪者を生まないためだって、頭を下げられたの」
〈ひじき君は知る必要のないコトだよ〉
やさしいやさしい目。男女にしては近しい距離。
「あなたが考えてること、ちょっと分かるわ。でも『飛鳥様で本当にいいの』って聞いたら、あの子はちゃんと『はい』って応えたのよ。それが全てじゃない」
「草進さんが鮫島先輩の思惑を知っていたとしたら?」
鈴汝は息をのんだ。
「鮫島先輩の望み通り動こうとしていたら? 鮫島先輩は鮫島先輩で草進さんの本当の幸せを願っていたとしたら?」
〈俺にはもう誰かを好きになる資格なんてねぇんだよ〉
水島は鈴汝を抱き寄せる腕に力を込めた。胸が痛いと思った。
〈お前こそ師匠って呼べよ〉
〈じゃあお前は
〈なぁ、聖〉
最後に顔を合わせたのは昨日。帰り際にポツンと残した一言。
〈一年って長いと思う?〉
あれから結局弟子なんて一度も呼ばれてない。だから僕も師匠なんて一度も呼んでない。だから「アイツを変える」必要なんてどこにもなくて。
「やめましょう」
静かな声。鈴汝は水島の背中に腕を回した。
「あたし達が関わる問題じゃない。放っておいてもなるようになるわ」
そうして少年の頬に口づける。水島も確かにその通りだと思った。
「そうですね。ピロートークはこの位にしましょうか」
「・・・・・・え、どこが? 何が? あんたそれ使い方間違ってると思うわよ」
時刻は二十二時四十五分。よい子はいい加減寝る時間だ。
その耳に噛みつく。でもまだ全然足りない。
「まだするの?」
「嫌ですか?」
ため息。その目が蕩けた。
「・・・・・・嫌じゃない」
この人もまた、悪い子。