飛鳥18〈3月14日(月)、18日(金)〉
文字数 6,623文字
一
部屋を出ると、途端冷たさの残る風にはたかれた。無防備な首元をすくめる。
まだ信じられない。自分から別れを切り出したはずなのに、数日もすればここに戻ってきている気がした。思えばだから切り出せなかった。身体目的の関係がなくなってもつながっていたのは、そのどこかに甘えがあったから。追い出されて初めて気づく自分の価値。まだリカの香りが残っている。
終わりの境目が見えたらいいのに。身体や物に輪郭があるように「ここから先は別物」と。思い出すのは海と空。挟まった青はどっちつかず。煙れば簡単に境界線なんてなくなる。
まばたきをする。昨日水島と話している時の真琴は楽しそうだった。その間を行き交う感情は分からない。外から見えない分、余計にじりじりする。
〈何ですかその殺気〉
気持ちは、にじむ。瞬時にくみ取れる水島なら、アイツが今何を考えているのかもすぐ分かるのだろうか。
〈お前さえいなきゃ仲良くやれたのに〉
同時に浮かんだのは細い背中。
〈フッフーン。ハイ俺の勝ちー〉
二人揃って運び込まれた病院。大事にされたのは最初だけだった。始めこそ回復の早さに驚かれたが、入院施設のある市立病院はただでさえ混み合うというのに、若い男二人がベッド二台を占領して仲良く大富豪しているという現実。それを看護師のボスが点滴の量と一緒に記録していた。次の包帯交換の事を考えて鮫島に声の大きさを絞るように注意するが、当の本人は笑いながらボスの背中を指差した。
〈制服パンパン〉
やめろ。
トランプを切る。その目がボスの出て行った入口を見つめる。少しだけ、間があった。
〈アイツ、来ないね〉
二
次期生徒会長候補者演説と同じ日、終業式もまた午前中でしまいだった。全校生徒の集まった体育館を出ようとすると、首根っこを捕まれた。腕力で俺を捕まえることのできる奴なんて、この高校には一人しかいない。続いてつかれたため息。図体のでかい方のダチは、心底俺を哀れんでいた。
「で? アイツの方が大事にできそうだから真琴ちゃんのことはあきらめるのか? どっかで聞いたことのある話だな」
何のことか聞くと、こっちの話だと言われた。その太い腕を組む。
「分かった。なら動かなきゃいい。アイツはお前ほどグズじゃないし、本気になればなるようになるだろう。でもそれでお前の問題が解決する訳じゃねぇ。お前はお前でけじめをつける必要があんじゃねぇのか?」
卒業式が終わればものの数分で全校生徒の移動が完了した。その声は館内によく響く。
「どっちにしてももう時間はねぇんだ。いい加減白黒はっきりつけようぜ。ねぇ頭使ったってロクなことになんねんだから、その場で決めたらいい」
背中をはたかれる「だからお前の普通は一般人の強打」だと何年言い続けても結局直らなかった。
「だがそもそもその場にさえ行かねぇってのはどうかと思うぜ」
体育館を出ると格技場前のベンチに水島が座っていた。一ヶ月半前に俺自身、真琴と並んで話をした場所だ。目が合って立ち上がる。
「・・・・・・ひよりましたね。あなたは最初現れた時、立場も周りの目も一切気にせず突っ込んで来ました。目的は復讐、でしたか。それがこうも動けなくなるものなんですか。
避けようとすれば避けられるから、ぶつからず諦めるつもりなんですか? 慣れない人が半端に真面目になったところで、いいことばかりじゃないんですね」
相変わらずぬけぬけと言いやがる。昨日の生徒会長候補演説の時も思ったが、コイツのしゃべる量は俺が一の時十くらいだ。とてもまともにやりあう相手じゃない。そらされることのない視線。
「あなたはなまじ今さら一般生徒の仲間入りをしたので、正しいものを正しいとして、あくまで戦うという気性がなくなって、因果だとか、成仏だとか、いくじのない、へりくつをこねて、僕を説きふせようとしているんですか」
「何も言ってねぇよ」
「無駄ですよ。理屈じゃない」
〈何でも何もあったもんじゃないでしょ。アイツはハナっから雅ちゃんしか見てない〉
そらされることのない視線。風にあおられて前髪が浮いた。濃い眉は強い意志の象徴。
「あなたは正統な権利ということばかりにとらわれて、じぶんの欲ばりなことにお気づきにならない」
見返す。見覚え、聞き覚えのある言い回し。試しているのか。
「崇徳院。讃岐の島流し・・・・・・西行か」
舌打ち。悪態をつく横顔ににじむのは、いびつな形をした敬意。
「その無駄な記憶力、何かに活かせるといいですね。
頭で割り切れることじゃない。少なくとも僕は無理でした。あなたは絶対に後悔する」
廊下の真ん中。立ちふさがる水島は「絶対に」と強調した。その強いまなざし。しかし一方で解せぬこともあった。
讃岐の島流しによって悪霊化した崇徳院の話なら、出典は雨月物語。だとしたら言っていることが矛盾している。
「『春にあおあおとしげる柳を、庭に植えるのは、考え物です』」
「僕が引用したのは『白峯』です」
「ほらな。どっちにしたって雨月物語じゃねぇか。それなら看板は『菊花の契』だ」
妻を残して旅に出た男が何年もの年月を経て戻り、一夜過ごした家も妻も既になくなったものだと翌朝青空の下で目を覚まして気づくという『菊花の契』
柳は「口先だけで、誠実のないひと」の象徴だった。
「あなたは勝手だ。彼女がいるくせに他の人を欲しがるなんて。そうしてかき乱しておいて、自分だけこの地を離れようとしている」
反論はしない。その通りだった。
「一つだけお伺いします」
こういう奴と向かい合うとよく分かる。正直に生きている人間が一番強い。
「リカさんとの関係は続いてますか?」
首をふる「終わらせた」と言うと、水島はようやく息をついた。
「草進さんに怖がられてて怯んでるんですって? 今更じゃないですか。僕からしたらわざわざ口にする防衛線は突き破ってしかるべきと考えますが。意外と小心者なんですね」
いびつな形の激励。きちんと皮肉を添えてよこす。その目が下を向いた。
「・・・・・・柳というには剛毛でしょう。あなたがそんなしなやかさを持ち合わせているとは思えません。聞けてよかったです。後ろめたいことなく、あの人にちゃんと伝えられる」
「・・・・・・」
「『飛鳥サマ』のブランドは今でも健在なんです。失望させないで下さい。そうしてとっとと幸せになって下さい」
間違っても戻って来ることのないように、ということだろう。向けた背中に声をかける。
「鈴汝が『今幸せ』だと」
勢いよく振り返ったその口から飛び出したのは、
「うるさいうるさい! ほっとけバーカ!」
今までのコイツの言動からは想像できない、小学生並みの罵倒。どこか鮫島を思わせる感情の投げ出し方をして走り去る。
かすめたのはスキーの写真と、それを見たときの真琴の笑顔。
関わり方によっては、アイツ案外面白いかもしれないと思った。
三
教室に戻って荷物をとると、北棟に向かう。その間にも校舎を出ていく生徒。おのずと流れに逆らう形になる。既に廊下にほとんど人気はなかった。結果的に会えなかったなら、それはそれでいいのかもしれない。
そう思いながら進む矢先、屋上に続く階段に鈴汝がいた。組んでいた腕をほどいて口を開く。
「遅いですよ! 何してらっしゃったんですか。あの子帰っちゃいますよ」
今日はよく叱られる。そういう日なのだろう。しかし「帰っちゃいますよ」ということは
「まだいるのか?」
聞くと鈴汝は一瞬口をつぐんだ。続いたのは大きなため息。本当はこんなこと言いたくありませんが、と前置きをした上で続けたのは、どっかの誰かのような罵倒だった。
「とんだ腰抜けですね。怠慢にも程があるでしょう。あの人が頭下げたの、飛鳥様のためだったってやっと分かりました。分かったから許せません。あるはずのない道切り開いてもらってお膳立てされて、それでも動けないなんてどうかしてます」
少し見ない間に鈴汝は変わった。全てにイエスだったのが、自らの芯に従う。まっすぐな言葉は刺さる。けれどもその強さこそ本来の持ち味だった。正しいと思う方向に突き飛ばす。
ついたのは自信。鈴汝はずっとキレイになった。
「あの人が頭を下げた?」
「こっちの話です。逃げないで、ちゃんと向き合って下さい。あたしにはそれを見届ける義務があります」
道を開けて頭を下げる。
「・・・・・・暴言をお許し下さい。飛鳥様はいつまでもあたしの恩人です。あなたの幸せを心から願っています」
〈飛鳥様〉
いつでも追いかけてきた声。これは真琴だけじゃない。一緒に過ごしてきたやつら全員との別れでもある。
「どうか」
その声が震えた。これはただの願いではない。
「・・・・・・上か?」
はじかれたように上がった顔。うなずく。俺はその頭をなでると階段に足をかけた。
四
「遅いよー。もう帰ろうかと思ったー」
青い空。いつも昼休みはここで過ごした「絶対」と呼んで共有したこの鍵も使い納め。俺はその変わらぬ友人の向かいに立つ。
「真琴はどこだ」
「弟子? 知らないよ。それにもう関係なくない?」
その髪がなびいた。片足に乗せた重心。
「だよね? だってお前はもういなくなるんだし。だからちゃんとリカちゃんとの関係も清算したんでしょ?」
「違う」と言うとその口角が上がった。心底面白がっているようだった。
「どっちでもいいよ。で、どしたの? 俺に会いに来たワケじゃないの?」
言いながら空を見上げる。
「・・・・・・早かったな一年。お前と高崎は長い付き合いだろうけど、俺はここに来るようになったの遅かったからな。もっといたかったって思っちゃう」
「お前はどうするんだ」
「どうしようね。まだ考えてないんだよなぁ。ああでも楽しかったなぁ」
寂しがりな鮫島が声をかければいつだって集った。何故かは分からない。分からないがコイツを一人にしてはいけないという思いがあった。それが崩れたのはいつからだっただろう。雪山。スノボの誘いを断った時のことを、鮫島は今でも時々口にする。
「休みには帰ってくる」
「休みって毎週末?」
「それはムリだ」
分かっていて聞くのは駄々をこねたいからだ。そうすることで譲歩を待っている。鮫島の寂しさは、俺や高崎によく染みこんだ。こいつのわがままによってここにいることを赦された。無条件でいられるというのは当たり前じゃない。
「じゃあ隔週」
「無茶言うな」
ため息をつくと、その眉間にシワが寄った。
「それなら本当に向こうの人になっちゃうんだ。じゃあその間にこっちで何があっても文句は言わないでね」
不穏。見返す。何のことないようにその口が動いた。
「弟子、俺がもらうね。別に俺じゃなくてもいずれ誰かのものになる。それなら相手が俺でも問題ないよね?」
巻き起こる。全身を包んだのは底抜けの憎悪。たった今まで大切な友人だと思っていた相手に向ける類いの感情ではない。
「ダメだ」
瞬時に反応する。口をついで出た声は自分のものとは思えなかった。どす黒い想いが渦巻く。どんな手を使っても手に入れるという、それはただ幼い欲求。
「別に許可はいらないよ。したいようにするから。でもホラ、一応ね。黙ってってのはよくないと思ったから。礼儀として」
「ダメだ」
短絡的なやりとりに鮫島はたまらず苦笑いした。頭の後ろをかく。その腰に手をついた。
「ねぇ、冷静になって考えてもみてよ。お前もう半月もしたらいなくなるんだよ? その後は長い休みがない限り帰ってこない。向こうでの生活が軌道に乗れば、その長い休みも帰ってこなくなる可能性だってある。そんな中で弟子をどうしたいワケ?」
〈なら動かなきゃいい〉
〈・・・・・・ひよりましたね〉
〈とんだ腰抜けですね〉
うるさいうるさいうるさいうるさい。
俺はアイツを。真琴を。
「誰より俺が大事にしたいだけだ。他の誰にもゆずるつもりはない」
「・・・・・・他の誰かのものになるのが嫌だからでしょ? それってただの執着だよね?」
「違う」
それは違った。なぜなら自ら伸ばした手だから。元々与えられた中から選んでない。確かに自ら起こした波。ピンポイントでつかもうとしているもの。
「向こうにもいっぱい出会いはあるだろうし、自分で自分の首絞めなくても良くない? 何もコイツにこだわらなくても」
「いや、アイツがいい。誰でもいい訳じゃない。俺は」
そこまで言った所で口を押さえる。自らの失態に気づいた鮫島も同じ格好をしていた。
五
明るい屋上。遮るものは何もない。ただただ太陽に近いところで光を目一杯受ける。
ここへ続くドアのついたコンクリートの立方体。その影。まさか。
片手を壁についたまま大股でその周りを進むと、二つ目の角を曲がったところで
「・・・・・・っ!」
真琴にぶつかった。真っ赤な顔。見上げた目は潤んでいた。引き結ばれた唇がわななく。
「師匠!」
「だー悪かったって」
額を押さえたまま下を向いている。どうやら本当にミスったらしい。こいつにしてはめずらしい。そんなことより
「お前っ・・・・・・ずっと聞いてたのか?」
「ち、違うんです。師匠が隠れとけって言うから・・・・・・」
元々隠れるつもりはなかったらしい。普通にあいさつをするつもりだったという。ならばどうして
〈あの人が頭下げたの、飛鳥様のためだったってやっと分かりました〉
「いや、本とは本音吐かせてからコイツ呼ぼうと思ってたんだけど、思ったよりもストレートで俺が動揺しちゃったって言うか、ちょっとムキになっちゃったっていうか」
〈あるはずのない道切り開いてもらってお膳立てされて〉
「鮫島、お前まさか」
「違う違う違う。俺はお前に後悔して欲しくなかっただけ。カタツムリみたいなペースではぐくめるような時間ないじゃん? だからちょっと強引にでもどうにかしなきゃって」
何が違うんだよ。まんまじゃねぇか。
「・・・・・・ここに来るまでに見知った顔全員に会った。それもお前の仕業か?」
思わぬ失態にまだ立ち直れない鮫島は「そんなのどうでもいいじゃん」と両手で顔を隠した。真琴が寄り添う。
「もういいですよ。師匠」
ルートはずれても目的地にはたどり着いた。真琴は打たれ弱いその背中を押すと、ドアを開けた。その向こうに見えたもの。
次の瞬間、背筋が凍った。
「ふ」
俺の声に反応した鮫島が振り返る。その顔はもう満面の笑みだった。
「ふざけるなぁぁぁぁぁ!」
わーっと階段を駆け下りる足音は複数。全員ここに集められていた。
頭に血が上ったまま追おうとすると、そでをつかんで引き戻された。
真っ赤な耳。うつむいたままそでをにぎるのは
「・・・・・・っ!」
真琴しかいない。強く噛みしめた唇からは今にも血がにじみそうだ。震えるその手。
「師匠はっ」
はっきりと言う。強めの声は震えないための工夫。ちゃんと伝えるべきことを伝えようとする努力。思えばコイツはいつだって震えていた。
「師匠は、火州さんのことばかり考えていました。アイツいい奴だって。カッコいいんだって。時々いじわるするけど、それは師匠も構って欲しくて、ないがしろにされたくなくて。でもやっぱり火州さんのために動いてました」
その目が上がる。表面に張った膜。それは、何だ。
「私にも不安にならないようにって・・・・・・そのためにさっきもわざとつっかかったり、嫌な言い方したりして。嫌われ役を買って出てくれたんです」
震える指先。親指が食い込む。
「だからなんだ。その目は何だ。どこを向いている」
我慢がきかない。きく気がない。もはやどこを向いていようと関係なかった。
「だから、師匠を嫌いにならないで。大事にして。お願い」
揺れる。かすれた声。
「私みたいに」
インスピレーション。眉間を貫くくさびに覚えがある。理解するより先に返事したあの時。
その手をとって引くと、いとも簡単にふところにおさまった。こんな簡単なことのために丸一年使ったと思うと、なるほど鮫島がカタツムリと言ったのもうなずける。
その小さな身体をしっかり抱きしめる。渇望した髪の香りに脳がしびれた。
「誓う」
真琴の力が抜けた。その手がそっと俺の背中に回される。
ふいに鼻のつけ根が痛んで、抱きしめる腕に力をこめる。
帰ってこようと思った。何度でも。
寂しい思いをさせないように。コイツがちゃんと俺で満たされるように。
大事にしようと思った。