飛鳥13〈12月3日(金)〉
文字数 4,509文字
一
風が冷たくてもさえぎるものがあればいい。空気が冷たくても日の下にいれば気にならない。そういう意味で俺達の拠点は無敵だった。
「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思へば」
屋上からながめる、全く動く気のない雲。特にこんな陽気な日は、号令をかけなくても勝手に集まる。寝そべった視界に逆さまの顔が映り込んだ。
笑ってはいない。片頬だけつり上げた、ゆがんだ顔。
「何だよ」
「いや、お前自分の顔鏡で見たほうがいいと思うよ」
「何だよ」
「いや、俺自分で自分のことカッコいいとは思うけど、お前も大概だと思うのね」
お前でもそんな顔するのな、と俺の足元に座る。
「この世を我が世って・・・・・・それ『欲しいもん全部手に入れたからお腹いっぱい』って意味だっけ」
まぁ間違ってはいない。コイツに通訳させたら早い段階でフランクな関係が築けそうだ。
「随分心にゆとりが出来たようだね。何、何かいい事でもあったの?」
少しの間。ふいにその顔がこっちを向いた。
ほほ笑む。あるのは動かない雲と青空と野郎なのに、見ている全てが華やいで見えた。
「・・・・・・ほんとにいい事あったんだね。分かりやすいよ、火州は」
これだから顔のいい奴は、とぼやくと後ろ手をつく。その骨張った指。
細い手首。ひんやりとした手のひらを思い出す。
「ほか、知ってるか?」
「何」
思わずふき出してしまった。
「『をば』の使い方」
二
細い手首。ひんやりとした手のひら。触れたところから伝わる情報を何度でも思い返す。それは触れようとするとき、全神経がそこに集中するからなのだろう。自ら取りにいった知識は忘れにくいのと同じように、情報も消えにくいのかもしれない。
それでもまた触れたいと思う。正確には保存できない感覚をあいまいな想像で補うのではなく、日々確かなものとして更新したい。
〈悪い大人です〉
まるまる子供の顔つきで笑ってみせる。悪いことを悪いと知っててやれるのは、それが許される間がらだから。共犯意識。根付く結びつき。真琴はあの瞬間、俺に心を許したのだ。
「あのさぁ。全然いいんだけど、いい加減気持ち悪いよ」
全然いいんだけど、とつけ足すが、いい加減と言っている段階で許容ハンイギリギリだ。はっきり気持ち悪いと言われて口を押さえる。そのまま頬もほぐすが「直ってねぇよ」と言われた。すぐにはムリだ。
昼休み。十三時を回る。低い位置を通る太陽は、早くも西の空に片肘をついている。この時期一番高い所をこえてあと惰性で動く光は、あっという間に橙にそまる。
「なぁ、最近高崎見なくね?」
「ああ、最近アイツ忙しいからな」
ケンカっ早い鮫島や、売られたケンカはきちんと買う律儀な俺と違って、元々高崎は平和主義者だ。大方、俺達には放っておけないペット感覚で接しているのだろう。そんなヤツが、卒業と同時に実家の酒屋をつぐと言った。
「親父さんの腰の具合が良くなくて、本格的に治療を始めたんだと。十月末ぐらいだったかな。で、ムリさせられないから、学校終わったら帰って納品手伝ってる。卒業はしなきゃいけないから、ちゃんと授業は出てるだろ?」
「・・・・・・俺サボってばっかだから分かんね」
その横顔にかげりが出る。めずらしい。本当に聞いていなかったようだ。
「え、で何。だからもうずっと家手伝わなきゃいけないの?」
「いや、週に何回かは社会人バレー行ってるらしいから、ずっとって訳でもないと思うが」
「社会人バレー? 何ソレ。いつから」
「親父さんの体調どうこうの前だから、十月真ん中ぐらいじゃねぇの? お前もしばらく音さたなかったじゃねぇか」
「むぅ」
何がむぅ、だ。
鮫島は口をとがらせたまま黙り込むと、俺の足を叩いた。
「・・・・・・俺だけ仲間外れ」
「今言ったが、お前もしばらく音さたなかったじゃねぇか」
「何も聞いてない」
「お互い様だろ。アイツだって同じだ」
「俺は、バスケしてた」
「別にいいじゃねぇか。報告しあえば」
俺の足を叩き続ける手をとる。
「どうした」
「・・・・・・」
とった手。握りこぶしが微かに動いた。
「お前は卒業したらどうすんの?」
センター試験まで残り一ヶ月。
「分かんねぇよ。・・・・・・ただ、やりたいことがある。間に合えばそっち行こうと思ってる」
「どこ。こっから遠い?」
「ん、まぁ」
振り払われる。そのこぶしが再び俺の足を叩いた。
「痛ぇって」
「俺達は」
混じる、複雑な感情。
不安。寂しさ。焦り。迷い。
「絶対だよな」
ざわめく。振り下ろされたこぶし。その向こう。
見てはいけない表情を見た気がした。
三
高崎の件がこたえたのだろうか。その後めずらしく教室に戻っていった鮫島に遅れること五分、自分の顔がまともに見られるものに戻ったのを確認してやっと身体を起こした。昼休みが終わる。十三時二十分。あと五分で三限が始まる。
全く動く気のない雲。特にこんな陽気な日は、号令をかけなくても勝手に集まる。勢いよくドアが開いた。いくらアルミ製とはいえ、ハナから重力など存在しないかのような開きかたに後ずさる。一歩間違えれば引かれていた。
部活を引退して少しずつ線が細くなっていく同級生の中を逆行するでかい図体。高崎は息を切らして俺の名をつぶやいた。ちょうどいい。声をかける。
「どうしたお前。ついさっき鮫島が」
「お前知ってるか?」
聞いちゃいねぇ。どっかのぼっちゃんが寂しがってることよりも、ずっとホットなニュースを抱えてきたらしい。
「おい」
肩をつかんでゆさぶられる。ノーヒントの横暴はもはやマウント。コイツは自分の腕力を分かっちゃいない。
痛みに割と本気で抵抗すると、その手をとった。鮫島の倍ぐらいの厚みがあった。
「何だよ。何のことだ」
「水島と真琴ちゃんのことだよ」
水島と真琴がなんだ。
「付き合ってるんだと。知ってたか?」
冷たい、風がふく。
切れ味のいい刀のような言葉の軌道上に、間違いなく俺はいた。しかし見事な太刀筋にまだ切られたと自覚できないでいる。
つきあってるんだと。みずしまとまことちゃんのことだよ。おい。おまえしってるか。
巻き戻る。そのまま巻き戻って、あの日の夜までたどり着く。
〈いいお兄ちゃんですねぇ〉
そう言ってからかうように笑った口の端。段差に乗っても小さいままの背丈。キレイ、とつぶやいた目に映り込んだ明かり。
「おい」
再度ゆさぶられて意識をとり戻す。その手をつかみ直す。
焦点が合わない。まだ飲み込めない。だが時間は止まりはしないし、当然巻き戻りもしない。高崎はため息をついた。
「・・・・・・だよな。俺もついさっき知ったばっかなんだ。それも雅ちゃんから。何でも、今週の火曜かららしい」
こんしゅうのかよう。出かけた二日後だ。
悪い大人です、とうれしそうに隣の穴に手を突っ込む後ろ姿。
〈これで許されたんでしょうか〉
悪寒が走る。すさまじいまでの温度差。アイツにとっては、本当に義務だったんだ。
やっと、飲み込む。ああそうか。分かっていたはずなのに。
顔を上げたのは、不安とはいえ心に余裕ができたため。次の瞬間、無防備な首元から上がる血しぶき。
高崎の声がやたら遠くに聞こえた。
四
「やだー、ケンカしてきたの?」
出迎えるなり、リカは眉間にしわを寄せた。一旦洗面所に行って戻ってくると、汚れたままの頬や手を拭う。
「ちょっと、ここ色変わってるじゃない。どうしたのよ」
湯につけてしぼったタオルはじんわりとあたたかい。かえってしみる気がする。脈に合わせてうずくキズ口。
ズキン。ズキン。ズキン。ズキン。
ふり払う。その拍子でタオルが床に落ちた。その手首をつかむと、引きずるようにしてベッドに向かう。
「アスカ?」
手を放す。スプリングがきしんだ。その目に不安の影がさす。
「アスカ?」
脱いで落とした上着。ベルトを外すと、ベッドに片ひざをつく。
「脱げ」
「待って。今日はやだ」
何を言ってるのか分からない。その肩をつかんで押し倒すと、ズボンのジッパーを下げる。
「お願い、やめて」
悪いな。あの昼の段階でもう俺の耳イカれちまってんだわ。
始めてしまえばすぐに大人しくなると思っていたが、今日に限ってしつこくリカは抵抗した。結局ムリヤリその下着を脱がす。その時だった。くっ、と鼻が反応する。生々しい女のニオイ。目をやると重たい下着の内側、ずっしりとしたパッドが赤黒くそまっていた。
次の瞬間上がる悲鳴。完全な拒絶を訴える声はただの騒音。その口を手でふさぐと、再び身体を沈める。感覚がとぎすまされていく。キリキリと鋭く、全てを忘れさせるだけの快感が集まる。目をつむれば自分の置かれている状況全てを遮断できた。
耳の奥に打ち寄せる波の音。それは寄せては引き、寄せては引きを繰り返し。
歯を食いしばる。手放しそうになる意識。ギリギリつなぎ止めて首をふる。耳をすます。耳の奥にこびりついた波の音。その一回を探し求める。しかし、ない。どこにも。ある場所を探さなければないことは分かっているのに。
それでも、何か近いものでも何でもいいから。何でもいいから身体の芯が反応するものを。例え辿りつく先はいつだって同じだとしても。
五
「・・・・・・っ!」
奥の奥に吐き出す。自分の目には決して触れることのないところへ。くだらない思いごと処分してしまえるように。
崩れ落ちる。激しい疾走感。息をすることさえ、おっくう。その口を押さえていた手をどけると、小指の側面がぬれていた。鼻をすする音。
重たい腕をすべらすと、ティッシュをまさぐる。遠い。もう少し。届かせようとして上体を起こすと、用の済んだモノがずるりと抜けた。ぬれそぼったそれは、到底自分のモノとは思えない顔色をしている。急いで何枚か抜きとると巻き付ける。組みしかれた身体。その白いだけの腕もようやく動いた。力なくティッシュの箱を引き寄せる。もう何かいろいろ処理しなければいけないものが足元にたまっている。俺はベッドを下りると、巻きつけた中をのぞいた。
「・・・・・・フロ借りる」
サッと下半身だけ流して上がる。部屋をのぞくと、リカが横になったまま布団にくるまっていた。今は何も見たくないのだろう。
「アスカ」
「ん」
「私のこと好き?」
どこまでハッピーな脳みそしてんだか。
回らない頭。だからこそシンプルに思う。
「ああ」
ここまでしてもまだいけるのは、予想外のラッキーだった。着替えを済ませると部屋を出る。もう一秒でもあのニオイの中にいたくなかった。
冷たい風を正面から受けて、思わず首をすくめた。
浮かぶ白い息。さえぎるものがないから、直接身体を冷やす。
息を吸って吐く。通っていた図書室。静かに年月を重ねていく、ホコリをまとった本の群れ。似合うのは白い指先と黒の髪。あの場所の住人はアイツらだ。
風に押されて雲の流れがはやい。ぽっかり出た半月の上を次々と通り過ぎていく。
息を吸って、吐く。
あるべき姿に戻ろう。元の自分に。なに、本来の居場所に戻るだけ。束の間の平和はもう終わりだ。
狭い路地裏。行き場をなくした風が渦巻く。