雅8〈9月4日(土)、6日(月)〉

文字数 5,734文字

 



 一

「僕は何もしてないです」
 バン、と音を立てて閉まるロッカー。ささくれ立つ感情。苛立ちを隠そうとしない口調は、その場に立ち会ってはいるものの、という事実の裏返しだ。それは、分かる。そもそもこの案件を知っているのはこの子だけなのだから。
 目を合わそうとしない。大きな目は伏せられ、水島はすぐにきびすを返した。
「どういうこと? 説明して頂戴」
 当然の主張をする。今手元には、あれ程悩まされた領収書が揃っている。水島には説明責任があった。
 ついさっき休み明け最初の生徒会の集まりがあった。そこで全員と顔を合わせたが、感覚として違和感を覚えたのは同回の男女四人だった。竹下君は不自然にチラチラと目が合い、兼子君は終始どこかを向いていた。そうして中辻さんと黒田さんは、会議中とうとう一度も顔を上げなかった。進行自体に支障はなかったが、得も言われぬ不気味さが残る。
 問いかけを無視してそのまま生徒会室を出ようとする、その手をつかんだ。一瞬立ち止まった水島は、首だけねじって視線をよこしたが、すぐさま前を向いた。静かに息をつく。
「・・・・・・顧問の先生が知ってます」
 顧問の先生が知っている事を、水島は知っている。
「大丈夫です。この件についても、今後も、あなたに実害が及ぶことはないでしょう」
 だからどういうことなの? 回り込んでそう尋ねると、その口の右端が自嘲気味に上がった。どこかで見た事のある笑い方だった。
「僕の目がある限り、あの人達はもう悪さはしない。出来ないんだ」
 覇気がない。まさか半月前、生意気に会計を買って出たのと同じ人物とは思えない。この薄っぺらい紙のために、何かを消費したのだ。その目がうつろう。
「部活遅れるんで、すいません」
 そうしてつかんでいた手を押し戻して部屋を出た。
 ロッカーからはみ出したバッグの持ち手。全く説明になっていなかった。

 カーテンを引かない廊下は、フローリングの床が外の光をあちこちに反射させている。白塗りの壁が目を突く。時刻は十四時。
「ああ、中辻と黒田が報告に来たぞ。遅くなってすいませんでしたって」
 丸く出張ったお腹をなでながら顧問が言った。スッと頭の芯が冷えるのを感じる。出す声が震えないようにお腹に力を込めた。
「いつですか?」
「この間の・・・・・・水曜日だな」
「その時、他に誰かいませんでしたか?」
「いや?」
「その前後でもいいんです。他に誰か・・・・・・」
「いや、その日俺んとこに来たのは、後にも先にもその二人だけだ」
 顧問の先生が知っている事を水島は知っているが、先生の側は水島が知っている事さえ知らない。やはり本人に聞くしかなさそうだ。
「ありがとうございました。失礼します」
「あ、そうだ。鈴汝、今会計は誰がやってるんだ?」
 その場を去ろうと振り返った時だ。不意打ちに身体が強張る。確か届け出したのは・・・・・・
「今思い出したんだが、あの時『会計の子にも迷惑をかけて悪かった』とも言ってたんだ。直接本人に伝えるだろうから、別に俺は何もしちゃいないが」
「・・・・・・分かりました」
 再度頭を下げると、今度こそ職員室を出る。
 会計の子?
 勝手に名前だけ借りて届け出したのは、四組の竹下君だ。でもそれなら同回の女子が「子」とは呼ばないだろう。そう表現するのは女子、あるいは
〈僕は何もしてないです〉
 年下相手だ。


  二

 生徒会室に戻ってくると、奥のソファに腰掛ける。二人用のそれは当然真ん中がくぼんでいて、誰用でもない、収まりの悪いその場所がなぜか落ち着いた。
 カーテンは引いたまま。まだまぶしい時間帯から護ってくれるこの場所ともあと九ヶ月でお別れだ。いつまでも「今」が続く訳じゃない。逃げ場を失う事は、同時に重責からの解放でもあった。プラスなのかマイナスなのか、いつだってどちらかに割り切れるような感情ばかりではない。
〈もう少し一緒にいたかった。それだけですが何か〉
 あとたったの九ヶ月だ。間に冬休みや春休みだって入るのだから、実質八ヶ月。四捨五入すれば半年。たった半年頑張ればいい。水島の言う通り〈あの人達はもう悪さはしない〉のだとしたら、何におびえることもない。まっすぐ立っていればいいだけの事。ただそれだけの事なのだ。でも、
 ゆっくり息を吐ききると同時にソファに横になる。天井がぐるりと回るようだった。浮かんだのは、らしくないそのうつろな目だった。
 今回の事で水島は確実に不利益を被っている。自ら防波堤になって、あたしに降りかかるはずの災厄を代わりに受けたのだ。
〈覚えておいて下さい。僕はあなたのことが〉
 あたしへの想いを消費して。
 笑いが漏れた。そこ? 大事なのはそこじゃないでしょう。
 高い天井。ロッカーからはみ出たバッグの持ち手。低い角度から照らすようになる日の光。あたしは災厄の大きさばかり気にして、まだ伝えるべき事を伝えていない。事の大きさが分かって、だから何だというのだ。どうせ謝ることしかできないのだから、そんなことよりもまず
 ガラッ。
 驚いて飛び起きる。驚いたのは水島も同じだったようだ。ドアに手をかけたまま動きを止めている。
「・・・・・・」
 その後水島は足早に壁沿いを進んだ。その手には無造作に制服がつかまれている。ロッカーからはみ出していた持ち手を引っ張ると、以前も見たエナメルのバッグがずるりと出てきた。制服をつっこむと、そのまま来た道を戻る。
「ねぇ」
 止まらない。その背中を追いかけた。
「ねぇってば」
 バッグのひもをつかんでやっとその動きが止まる。ヒリつくような空気。その肩から感じる気配は迷惑そうだ。喉が引き攣れるようだった。
「こっち向いてよ」
 何その言い方。言い回し一つで誤解が生まれる。慎重に言葉を選ばなければならない。ただ今に限っては、自分にとっての一大事を間に挟んでいるのだ。お願いだからきちんと向き合って欲しい。ゆっくり息を吸って吐く。
「・・・・・・お礼が言いたかったの」
 わずかに強張った肩。身じろぎの気配がする。
「ありがとう」
 振り返るその大きな目と、ようやく目が合う。
「いえ」
 水島は一度だけ首を振った。分かりやすく動揺していた。
「違うんです」
「何が?」
「僕じゃない」
 見方によっては泣きそうだ。もう一度首を振ると、その口を手で覆った。
「・・・・・・先輩の協力があったから」
 すぐさま脳裏に浮かんだのは、不自然だった竹下君と兼子君だった。しかし
「・・・・・・」
 そう尋ねた所で水島は黙ってしまった。隠す意味が分からない。どんな形であれ関わった人全員にお礼を言いたい。ただそれだけの事なのに
「もういいじゃないですか」
 苛立たしげにそう吐き捨てられる。水島にも大変な気苦労をかけたのは分かっている。それでもあたしにとっては今までのやり方を根本から見直さなければいけない大事件だった。責任のとりようがなかったのだ。全て抱え込んではいけないと思い知らされた。だから
「ええ。もういいわ。本当にありがとう」
 そうして水島を帰した。ここから先はあたしの仕事だった。


  三

 休み明け月曜の放課後、授業終了のチャイムとともに四組に向かうと竹下君を探す。丁度入口に向かってくる所だったため、そのまま呼び止めた。
「・・・・・・何すか?」
 どこか気まずそうに目をそらす。周りの目を気にしてかもしれない。単刀直入に言った。
「お礼を言いに来たの。文化祭の時の領収書、ありがとう」
 息を呑む。その目が大きく見開かれた。ずれたメガネを直しながら「あ、いや、あれは」とどもる。その時だった。中央階段を挟んで反対側のクラスから「竹下」と呼ぶ声がした。振り向く。五組の兼子君だった。兼子君はぶしつけな視線をよこすと「何、どしたの」と竹下君に聞いた。
「お礼を言いに来たの。領収書の件で」
 そう言うと、いぶかしげな目がこっちに向けられた。すでに何度も顔を合わせているというのに、今更上から下まで値踏みするように眺められる。彼らもまた、この件で何かを消費したのだろうか。
「デキてんの? あいつと」
「・・・・・・え?」
 突然の問いかけに言葉を失う。何を言っているのか分からず、頭が真っ白になる。
「だからデキてんの? まぁごまかしたきゃそうすればいいけど。そうでもなきゃあんなかばい方しないだろうし」
 耳元でばくばく音がする。デキてるって水島と? だから領収書を回収できたって?
 少しずつ冷静さを取り戻していく。腹の底で静かに煮えていたのが「怒り」だと認識する。これは自分を軽んじられたと感じたためのものではない。
「馬鹿にしないで。そんなはずないじゃない」
 兼子君がひるむ。すかさず竹下君が「やめとけって」と割って入った。その様子がおかしい。まるで何かにおびえているかのようだ。兼子君は「どうだか」とつぶやくと、竹下君に促されるまま中央階段に向かった。
「とんだクソビッチだな」
 捨てゼリフにキィン、と高い耳鳴りがした。全ての雑音が遠ざかる。周りの生徒が兼子君を、そしてあたしを見た。
 沸騰する頭。一瞬場違いにかすめたのは、鮫島先輩だった。


  四

 夏休みの後半、それまでは青天井に突き抜けるようにして盛っていたまぶしい光が、少しずつ落ち着きを取り戻し始める。周りが見えるようになって空気を読み、高い青空だけ残してくつろぐ。突き刺すようだった紫外線の先端がどこか丸みを帯びる。
 打ったボールが緩やかな弧を描いてベースラインに落ちた。
〈出た! 西部地区名物、ロブ対決〉
 マリエの声が聞こえた気がした。練習中、わざとロブだけで打ち合う事があった。穏やかな空気。きちんと面に当てて返す。いくらでも続くそれは、まるで放課後の会話のようだった。もう一本、返ってきたボールを高く打ち返す。
 打点は前。テイクバックを小さくした分、早くスイングに入る。押し出しきって自然と上がるフォロースルーが、スピンの付加価値をつける。基本フラットで叩き続ける自分には数少ない球種の選択肢だ。滞空時間の長さが心に余裕を生む。
〈あの時、助けに入ったのが俺だったら、俺を好きになっていた?〉
 バウンド。テイクバック。インパクト。フォロースルー。
「一球」
「ごめんなさい」
 一球分、アウト。返ってきたボールをサービスライン上に返す。
 それは、夏の一場面。ネットやブラシの入った倉庫。伸び盛りの日の光。橙。焼き尽くす。防波堤。焼けた肌。熱い舌。息づかい。浮かされる。片側に寄った笑顔。のぞき込む目。
「一球!」
「ごめんなさい」
 一度かすめてしまうと修正がきかない。なぜアウトしたのか、ボールの回転不足、自分の打つ位置とボールの軌道のズレ、あるいは純粋に打点を損なっていたためか。瞬時に気づければ直しようがある。しかし修正のきかない事となると
「ちょっと鈴汝さん、アウト!」
 鋭い打球が飛んできた。振り遅れてネットに引っかける。ラリーが止まった。
「ごめんなさい」
「ごめんなさいじゃないわよ」
 交代する。三球交代。次の人が打ち始める。カゴからボールをとって最後尾につく。
 かすめると言うには粘度の高い、忘れると言うにはインパクトの強い残り香が、今もまだ身体のどこかに残っている。
 修正のきかない事。上から塗りつぶすようにした所で、ニオイまでは消えない。
〈相手に言い訳さえつくってやれば、女は案外簡単に手に入るもんなんだと〉
 言い逃れようがない。自分がこんなにだらしない人間だとは思わなかった。それは鮫島先輩だから受け入れてしまった行為か分からない。少なくともあの時はまだ心は飛鳥様の元にあったのだ。
〈とんだクソビッチだな〉
 だからあたしはあの言葉を否定出来ない。これではあれほど忌み嫌っていた母と同じ生き物ではないか。女を武器に、世の中から金銭をかすめ取る。そうして生かされている身である以上、とやかく言う資格はないのだが、自分はああなりたくないと思っていた。もっと勉強して、あたしはあたしにしか出来ない仕事をして生きていくのだと。
 頼りない首元やくるぶしに対して、肉付きのいいデコルテと二の腕。できる限り見ないようにしてきたその身体に、意識すればする程近づいている気がして身震いした。
 男が嫌いで女が嫌いで、違う。そんな性別の話じゃない。あたしはただ、甘えたいだけだ。辛い時、無条件でなでてくれる手が欲しいだけ。でも
〈はい、べー〉
 あの時あたしは女だった。悲しい程に女だった。


  五

「飛鳥様」
 はっとする。気づいた時には口をついで出ていた。
「フォルト」
 審判役のコールに、ポケットからボールを出し、二度バウンドさせる。ラケットを振りかぶる。インパクト。
「ダブルフォルト」
「ごめんなさい」
 調子が悪いどこの騒ぎではない。元々立場の悪いあたしが結果を残せないというのは不要と同義だった。苦しい時、行き詰まった時、つぶやくだけで心を軽くする事の出来ていた魔法の言葉は、もうあたしを助けてくれない。今まで飛鳥様のためにあった容量分の大きな穴が出来て、その中は真っ暗なのだ。片っ端から黒く塗りつぶされたその色。本当は大事に守っていられれば、セピアかパステルの、もっとやさしい思い出になっていたのかもしれない。
「ゲームセット。ウォンバイ・・・・・・」
 ラケットを抱える。さっさと行ってしまった〈仲間〉気づけば取り残されていた。いつの間にかナイター用のライトが点いている。影法師。どうした所で一人だった。
 飛鳥様。
 あたしがいなくなって、少しは寂しいと思うだろうか。呼び方を変えたら同じくらい傷ついてくれるだろうか。ふっと笑えた。
 あくまで願望。だから何だというのだ。決して傷つけたい訳じゃないのに。
〈火州さんは・・・・・・男の人として好きなんでしょうか?〉
 歪んだ愛情は嫉妬。いつの間にか真琴は飛鳥様を「火州さん」と呼ぶようになっていた。前は「火州先輩」と呼んでいたのに。
 ジジ、と音がした。強い光に引き寄せられて、熱に焼かれた虫の羽音。知らずに死んでしまえば、それはそれでありかもしれない。ただ焦がれてなくなる。
 本当はあたしだってキレイなままでいたいのだ。
〈とんだ〉
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登場人物紹介

草進真琴(そうしんまこと)

高一女子。モットーは「私はただの高校生。それ以上でもそれ以下でもない」

6月10日生まれ、A型。


作画、いく。

火州飛鳥(ひしゅうあすか)

女嫌いの高三。美形。

9月2日生まれ、B型。


作画、いく。

鈴汝雅(すずなみやび)

男嫌いの高二。美人。

3月3日生まれ、O型。


作画、いく。

水島聖(みずしまひじり)

病んだ高一。思い込みが激しい。

6月27日生まれ、A型。


作画、いく。

鮫島勤(さめじまつとむ)

高三。飛鳥の友人。

2月2日生まれ、AB型。


作画、いく。

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