雅16〈2月3日(木)、4日(金)〉

文字数 5,387文字





  一

 溶ける。
 頭が一杯になって、背中から堕ちていく。
 しびれるのはキスを繰り返した唇。鼻先の触れ合う距離でささやく水島は、熱に浮かされているようだった。
 何て無防備な顔をするのかしら。
 余分なものがこそぎ落とされていく。言葉などなくても伝わる。雄弁な目は己の想いを放つと同時に、こっちの反応を根こそぎとらえてさらっていく。呼吸をするように繰り返されるやりとりは、熱くなるほどにこっちも巻き込んだ。その頬が緩む。
「かわいい」
 ズン、と腰に来る。鈍痛。たまらずうめく。
 本当に感情が高ぶったとき、喜びも怒りも悲しみも全て深いところで一緒くたになる。
 物理的な精神的な、それは痛み。だから反応として泣きそうになるのは至極まっとうなことだった。
 思わず身体を縮こめる。恥ずかしくてたまらない。どうしてこの子は平然としていられるのだろう。
「やめて」
 顔を覆った手をつかまれる。
「やめて」
 抵抗したつもりが、あっさりよけられる。
「どうして」
 爛々とした目。だから、そんなにうれしそうにしないでってば。
 脳が溶け出す。漏れ出た吐息は外との温度差に色をまとう。
 どうしようもない、底の見えない深い闇。一体どこまで堕ちるのか分からず、怖くてしがみつく。本当にもう許して欲しかった。
「鈴汝さん」
 その時だった。一段階部屋の明かりが暗くなる。
 目を見開く。驚いてはねのけると、入口に向かう。ドアを開けると廊下の向こう半分の照明が消えていた。時刻は二十時。戸締まりが始まったのだ。
「帰るわよ」
 あわてて荷物を取って入口を振り返る。早くここを出なければいけない。と、次の瞬間身体がのけぞった。手首を取られたためだった。
「何」
 目尻が下がる。今までがウソのような豊かな表情。水島は心からうれしそうに口にする。
「『一緒にいく』」




 家に着くと疲れがどっと押し寄せてきた。何てことないいつもの平日。普段なら部活帰りというだけでも疲れているのに、今日はその倍位エネルギーを消費したようだった。
 バッグを放ると、自身もベッドに倒れ込む。スプリングが音を立ててきしんだ。
 どうしよう。
 問題はここからだった。数日前まっすぐ対峙した真琴の姿を思い出す。
〈水島君のことを好きにならないと誓って下さい〉
 両手のひらで顔を覆う。
 知ってる。あの子がどれだけ一途に水島を追っているか。海。球技大会。付き合うことになったと喜んでかけてきた電話。雪山で見た幸せそうな横顔。
 何でよりによってあの子なのよ。何でよりによって水島なのよ。
 頭を抱える。気が触れるんじゃないかと思う程の温度差。
 生徒会室を出る前、水島は「もう少しだけ」と言ってキツく抱きしめた。それを繰り返すこと三回。いい加減にして頂戴とムリヤリ引きはがすが、あらがいきれなかったのは結局自分もうれしかったからだ。安易な感情論に今さら反省する。
〈誰が見てるか分かりませんから〉
 ぐっと唇を噛みしめる。あたしはまだしも、あの子は生徒会長を引き継ぐつもりでいる。そんな子を危険にさらしてはいけなかった。少し前に教師と生徒の間でうわさになるようなこともあったばかりだ。決して他人事ではない。
「同罪・・・・・・」
 真琴の顔がかすめる。雪山での明け方、あの子は必死であたしを信じようとしていた。そうまでして信じたがっているように見えた。
〈挨拶代わり〉が笑わせる。後から気づいた首元の色素沈着は、間違いなくキスマークだった。暗い中だったため、水島本人はつけた自覚がないのだろう。
 先に気づけばいくらでも対処できた。前日着ていた首元の出ない服もあったし、上着もマフラーもあった。着こんでも不自然じゃない季節であるにも関わらず、それを活かせなかったのは、とにかく早く元の顔に戻さなければという思いと、真琴に気づかれないようにするためのつじつま合わせに頭をフル稼働していたためだ。寝起きであるため、身なりに気を遣うとかえって不自然ということも手伝った。それでも鏡くらいは見ておくんだった。
 結果、水島から別れを告げられた真琴の不審がこっちに向いても何らおかしいことはない。
しかし何にせよ〈誓って下さい〉と言われたあの日、元はといえば鮫島先輩に依頼されたことについて聞くつもりで呼び出したが、あの時聞けなくてよかった。今となってはどの口がという話だ。
 ふと視線をずらす。
 水島は真琴と別れたのは始業式の日だと言っていた。おおよそ一ヶ月前。鮫島先輩に依頼されたのは三週目の水曜日。だからやはり「教育」に水島は関係ない。
 大きく息を吸って吐く。堂々巡り。何を考えたところで、自分という枠を出ない以上何も変わらない。近いうちに真琴に話をしよう。それでどんなにさげすまれたとしても、自分が選んだ道だ。きちんと向き合おう。
 まぶたが重い。次第に厚くなっていくベール。意識の境界がなくなって溶け出す。それと同時に思い浮かんだのは大きな目。
〈鈴汝さん〉
 ふっくらと内側から満ちていく。
 あの子に触れたいと思った。
 恋しい、と思った。




 翌日のお昼、久しぶりに屋上に向かうと、出迎えてくれたのは高崎先輩だった。
「最近集まり悪いんだよな」
 めずらしいことではないらしい。聞くところによると飛鳥様も鮫島先輩も全く来てない訳ではないようだが、来ても大して話をする訳でもなく、それぞれ自分のテリトリーでくつろぐだけだそうだ。そのためか、近頃ここに来ること自体減ったとか。
「皮肉なもんだな。元々アイツらこそここの住人だったんだがな。待つ側はこんな気持ちだったのか」
 あたしも水島や書類整理のことがあったため、今年に入ってから全くここに来ていなかった。だから高崎先輩に会うのも久しぶりだ。
「ご無沙汰してます。二ヶ月ぶりですか?」
「そんななるのか。俺も年末は忙しかったからな」
 気温一桁の屋上でも高崎先輩は相変わらず軽装だ。基本の学ランに薄いTシャツ。あとは着ていても下着ぐらいだろう。
 分厚い背中。蓄えた筋肉自体が何よりの防寒具だった。
「お家の方はもう落ち着きましたか?」
「ああ。年末年始は休みなしだったからな。その分今休んでるカンジだな。ようやく親父も治療に集中できる」
「お父さんもずっと働き詰めだったんですか?」
「いや動くのは俺だが、どうしても気になっちまうんだよ。気持ちは分からんでもないが、おかげで治りが悪いのなんの。もう若くねぇんだから、二三日寝てれば回復するなんて思い込み、早く捨てて欲しいもんだぜ」
 大木を荒く削り取ったような横顔。その雄々しさ自体飛鳥様に近いが、もっとずっと荒い。身動き一つで揺れる空気の塊。強い野生の香。圧倒的な質量。わざわざ誇示するまでもなく、蓄えたものは異なるものを静かに制圧する。
「少し見ない間に随分様変わりしましたね」
「そうだな。センター試験も終わったことだし、火州に至っては明日明後日で私立の受験だ。アイツらもそれなりに大人になっていければいいんだけどな」
「いえ、私が言っているのは『高崎先輩が』です」
 その大きな輪郭。つぶらな瞳がこっちを向いた。
「進むべき道が明確になると、こうも変わるものなんですか? 随分精悍な顔つきになったように見えます。何かありましたか?」
 その目尻にシワが寄った。
「気が紛れるんだ。ずっと身体動かしてると。立ち止まった途端によどんで溜まる。いらんもんは全部出してるおかげだろうな」
 そう言うと前を向いた。
 受験。流れる風。いつもここに、後ろ手をついてあぐらをかく飛鳥様がいた。薄いドアの上から聞こえる寝息。遠くチャイムが鳴り響いていた。当たり前に見ていた景色は、決して当たり前ではないのだと気づく。
「寂しいですね」
 空気が揺れる。大きな肩。笑ったようだ。
「ああ。寂しいな」


  四

 昼食を済ませると十三時のチャイムが鳴った。今日は空が高い。どこまでも透き通って、宇宙まで見渡せそうだ。少ない雲が足早に流れていく。
「聞いてもいいか?」
 それは静かな声だった。まっすぐ正面を見つめる目。
「その、雪山はどうだった?」
「え、あ、楽しかったですよ」
 何を聞きたいのか分からない。後ろめたいことがある以上、下手に話はできなかった。
「写真が送られて来たから、楽しそうなのは分かった。そうじゃなくて・・・・・・その、鮫と何かあったか?」
 喉が鳴った。偶然にしてはタイミングが悪すぎる。干上がる舌が張り付いて声がかすれる。
「何も。それより毎年高崎先輩や飛鳥様が行く所を、代わりにすいませんでした」
「いや、俺らが断ったんだ。それはいいんだが」
 嫌な予感がした。鮫島先輩が何をどこまで高崎先輩に話しているかは分からない。分からないけれど、誤解していることだけは確かだった。
「鮫島先輩とは本当に何もないんです。以前誤解を受けることがありましたが、あれも違うんです。鮫島先輩が好きなのはあたしではありません」
「そうなのか?」
 まっすぐ信じる様子は見えない。あたしは身の潔白を照明するために躍起になる。
「はい。それを言うなら真琴の方がよっぽど正しい関係を築いています」
「正しい関係?」
 聞き慣れない言い回しに、高崎先輩の眉間にシワが寄った。急いで補足する。
「きちんと向き合って、話をして、精神的な架け橋を築くという意味です。あの子はあたしのあずかり知らない所できちんとその関係を構築しています。実際大事な場面であの子が呼ばれることがありました」
「球技大会の後か?」
 見ていたなら話は早い。うなずく。
「あれだけ感情をむき出しにした状態で向き合うのは、相当心を許していない限り難しいです。何よりあの子は一回生です。驚きこそすれ、ただでさえ精神的に追い詰められやすい立場であるにも関わらず、あの子は全くおびえていませんでした」
「何で分かる」
「別件で『拒絶しようと思えばできる』と本人を前に言っているのを聞きました。水島も知っています」
 座り直す。アスファルトの地面は相変わらず痛い。相手が話し始める前にたたみかける。
「あたしからもお聞きしてよろしいでしょうか?」
 冷たい、風が吹く。小さな目は冷静。静かにうなずく。
「先程二人は『来ても大して話をする訳でもなく、それぞれ自分のテリトリーでくつろぐだけ』とおっしゃいましたが、お二人の間にこそ何かあったんでしょうか?」
 下がった眉。頭をかくその様子は、ただ単純に困っているようだった。
「・・・・・・それ、俺も聞きたかったんだがな」




「千嘉が憤慨してたんだがな」
 突然出た女性の名に一瞬ひるむが、すぐに高崎先輩の彼女だと把握する。普段ほとんどその存在をにおわせないため、結構な月日が経ってもまだ耳になじまない。
「最近火州だけじゃなくて鮫もそっちの教室に顔を出すことがあるらしくてな。あまりに不自然だから鮫に『Sランクの二人がどうして真琴ちゃんに構うのか』って聞いたんだと」
 Sランクの二人がどうして真琴ちゃんに。それは真琴を見下しての発言だ。本人をAとしたらBやCといった。歯に衣着せぬ、というのはこういうことを言うのだろう。真琴自身はそれを聞いたのだろうか。
「ああ。その場にいたらしいからな」
 信じられない。何その子。普通の人の神経とは思えない。
 高崎先輩は肩をすくめると「悪い」と言った。
「どうしてもかばう形になっちまうが、千嘉は千嘉で言うほど悪気はないんだ。ただ気が回らんだけで。本人は疑問に思ったから聞いただけだと思ってる。でも聞く相手が相手だから、下手すりゃもっと大ケガしたかもしれねぇ。そこはたいしたことにならずに済んで良かったんだがな」
「鮫島先輩は何とおっしゃったんですか?」
「『Sランク? 何ソレ。コイツトリプルAだけど』だと。そのまま真琴ちゃんを連れてその場を離れちまったからそれ以上聞けなかったらしいが、結構な爪痕は残るわな」
「それで憤慨してたんですか?」
「いや、それは鮫が『お前誰?』って聞いたから。こっちも悪気はないんだが、千嘉は前鮫に紹介したこともあるし、まさかそんな言い方されるとは思わなかったんだろうな」
 それは・・・・・・気の毒かもしれない。元を辿れば鮫島先輩は他人に興味を持たないタイプだ。でも気にかかるのはそんなことよりも
「真琴は・・・・・・大丈夫なんですか? あの二人が顔を出すなんて、本人にとっては悪影響しかないと思うんですけど」
 高崎先輩はため息をついた。だからアイツらもそれなりに大人になっていければいいと思ってんだけどな、と。
「アイツらバカだから。学力どうとかじゃなくて、もっと別のとこが。分かってんだろうけど放っといたって真琴ちゃん自らここに来る訳じゃない。だったら連れに行くしかねんだ。驚くぜ? 火州なんか図書室とか行ったりするんだぜ? あの髪色、場違い過ぎんだろ」
 軽口を叩くその横顔は戸惑っていた。持て余しているようだった。
「でも見境なくじゃなくて一応ルールはあるらしい。何でも週一、放課後のみ。真琴ちゃんは部活があるから結局水曜って事になるんだが、それ以外は教室に来ないで欲しい、と」
「真琴が言ったんですか?」
「てっきりそうだと思ったんだが、そうでもないらしい」
 その頭をかく。俺ももうよく分からん、と言った。
「慶子ちゃんって子が関わってるみたいだ」



ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

草進真琴(そうしんまこと)

高一女子。モットーは「私はただの高校生。それ以上でもそれ以下でもない」

6月10日生まれ、A型。


作画、いく。

火州飛鳥(ひしゅうあすか)

女嫌いの高三。美形。

9月2日生まれ、B型。


作画、いく。

鈴汝雅(すずなみやび)

男嫌いの高二。美人。

3月3日生まれ、O型。


作画、いく。

水島聖(みずしまひじり)

病んだ高一。思い込みが激しい。

6月27日生まれ、A型。


作画、いく。

鮫島勤(さめじまつとむ)

高三。飛鳥の友人。

2月2日生まれ、AB型。


作画、いく。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み