飛鳥16〈2月9日(水)〉

文字数 6,682文字






  一

 反射だった。思いっきりドアを開ける。
 まだ橙は橙のまま。赤にも紫にもならない空に、見た目だけぬくもりを蓄えた雲が浮かぶ。俺は驚いて固まっている真琴から目をそらすと、手前の細い肩を引いた。
「・・・・・・あれ火州、どしたの。試験お疲れサマ」
 勢いで振り返るその身体。奥歯を噛みしめる。今度の返答は「何してんだ」じゃない。
「離れろ」
〈あの時の借りを返すよ〉
 コイツは今、分かっていて自ら手を伸ばしている。真琴に向かって。それはいくら鮫島とはいえ、許せることではなかった。見上げる目は少し早い三日月紋様。
「やけにタイミングいいじゃなーい」
「殴りたきゃ今殴れ。それで借りはなしだ」
 やだぁそんな野蛮なコト、と肩をすくめると、鮫島は俺の手を払った。立ち上がる。その姿にどこか違和感を覚える。
「俺には俺のやり方がある。少なくとも借りは命令されて返すようなモノじゃない」
 あごの辺りに感じる視線。真琴は座ったまま俺達を見上げていた。その様子を気にかける間もなく声が飛んでくる。
「もう一回言うよ。やけにタイミングいいじゃない。何。何かイヤな予感がして駆けつけたの? それが丁度このタイミングだったの? よくできた演出だね。まるでドラマだよ」
 なびく髪。薄い眉に白い額。その表情がさらされる。ブレることのない視線。
 違和感。こんな風に向かい合うなんていつぶりだろうか。
「ホントのコト教えてよ。いつからいたの?」
 伸びた背筋。相変わらず流れるような糾弾は逃げ道を残さない。
 俺は不安げに下から見上げる目をわざと視界の外に追いやると「ついさっきからだ」と言った。
「『ついさっきから』じゃ分かんないなぁ。俺でも分かる言い方にしてもらわないと」
 まだ消えない違和感、は、なじんだ口調からはにおわない。ゆがんだ口元。それもいつも通りだ。
「俺の名前が出た所からだ」
 あごの辺りに留まるまなざし。息をのむ気配がした。結構前じゃね? とぼやく鮫島は「で?」と続ける。
「何で今の今まで待ってたの? 邪魔しちゃ悪いとでも思ったワケ?」
「違う」
 不安げに見上げる視線。いくら視界から外した所で気配までは消せない。その気配が俺の心臓をつかんでいる。息がしづらい。
「コイツの口から俺のことが出たから驚いて」
「で、動けなかったの?」
 胸がつまる。ただ単に苦しい。
〈分かりますよ〉
 信じてもらえる。何を言った訳でなくても、俺ならそう動く。そう思われていたことに動揺した。少なくとも今の所、真琴の中で俺は肯定的に捉えられている。だからこそ話がしたかった。鮫島に邪魔されてる場合じゃなかった。
「驚くだろ。話聞かれてたって知ったら」
「だからって時間差使っても薄まらないよ。聞いてたのは事実だ」
「そんなこと言ってられなくなったから出てきた。それだけだ」
 高い口笛。その目をすがめる。
「色男は言うことが違うねぇ。堂々としてて。こっちの方が恥ずかしくなっちまう」
 言いながらずらした重心。途端、まだ消えない違和感が一緒にぐらりと動いた。
 右足に寄った姿勢。それでもまっすぐなままの背筋。姿勢。そうだ姿勢だ。
 違和感の正体はその「伸びた背筋」目の前にいるのは友人としての鮫島ではなく、一人の独立した男としての鮫島勤だった。
 息をのむ。
 本気なのか?
 不安げに見上げる視線は俺と鮫島の間を行き交っていた。
 不穏。
 おととい、高崎に言われたことを思い出す。


  二

〈お前らいい加減にしろよ〉
 全く目を合わそうとしない俺と鮫島に、めずらしく声を荒げる。コイツを間にはさめば何のことない、その元に集まるしかなかった。
「俺は犯罪者生まないために動いてるだけだよ」
 答えたのは鮫島。その口の端がつり上がる。偏った笑顔は自嘲。
「マジで。まだ早い。ヤベぇんだってアイツ。お前にはキツいと思うよ」
 だから悪いコトは言わねぇ、とっととリカちゃんとやり直した方がいいって、と言うとその場にあぐらをかく。それは「だから真琴のことは諦めろ」ということだった。
「アイツの何を知っている」
「何・・・・・・何って言えばいいんだろ」
 口ごもる。それは本当に『ヤベぇ』と思う理由あってのことかハッタリか分からない。ただ単に俺を真琴から遠ざけたい一心にも思える。
「違ぇよ。マジでお前のために言ってんだって」
「・・・・・・実はあん時死人が出てて前科持ち、まだ早いってのは刑期の関係ってことか? 本気でキレたら俺でもキツいからヤベぇって」
「違う。んー、俺の語彙力じゃ的確すぎるから全部ピーが入っちゃうんだよなぁ。逆に遠回しに言ってもお前絶対分かんないだろうし」
「おい。お前何を知ってる」
 その胸ぐらをつかんだ段階で高崎が割って入った。
「だからやめろって! 鮫、何でこういう時に限って言葉足らずなんだよ。お前コイツがどう動くか分かってて言ってんだろ。悪趣味だぞ」
「違うって。ワザとじゃない」
 形勢が不利になって思わず上げた声。高崎を見上げる目は確かにウソをついているようには見えない。
「違う違うってお前肝心なこと何も言わないじゃねぇか」
 シワの寄る眉間。本当は伝えたいことがあるけど伝えられない。言おうとして飲み込む。その後頭をかいた鮫島は、結局俺を突き放した。
「せめてもちょっと待ってよ。ヤバいんだってホント。後から文句言っても遅いんだからね」

 その後、人一倍大きなため息をついた高崎が再び口を開いた。
「・・・・・・鈴が鳴り出したぜ」
 本当はこのことを伝えたくて向かい合わせたかったようだ。不意打ちに顔を上げると、鮫島は「どんな音でも名曲にしちゃうってのは聴く側の才能でもあるよねぇ」と言った。
 何の話だ。
 鮫島の隣に腰を下ろした高崎が膝に肘をつく。
「水島の想いに応えることにしたんだと」
 そうしてお前らは知らんがな、と付け足す。その時初めて鮫島と目が合った。
 乾燥で発生したのは静電気。だからそれは互いの間を行き交う空気とは関係ない。決して。

 決して互いのテリトリーを犯すことのなかった生き物が衝突する。
 促したのはただの草。薬草。自分にとって必要と感じた安らぎ。
 それを我がものにしようと、水陸最強の生き物が衝突する。


  三

 ゆっくり息を吸って吐く。不思議と冷静な頭。まっすぐ見据える。
 真琴。
 水を失って気力をなくした表情。どんな形であれ解放されるのであれば、一度は枯れてしまってもいいと思った。時間をかけて戻せばいいと。でも
 邪魔をするな。
 事情が変わる。横取りされるつもりはない。
「・・・・・・何とでも言え。引く気はない。そんなことより何でお前がここにいる」
 今度は直接本人に聞く。突然話を振られて驚いた真琴は「あ、と、」と口ごもった。
「俺に用があってぶっ飛んできたの。早かったね。びっくりしたよ」
 まだ真琴は口ごもったままだ。鮫島に目を戻すと続ける。
「一時間。下校から丁度一時間になる。交代だ。お前先帰っとけ」
 思いっきり憤慨する鮫島は地団駄を踏んだ。
「おかしいおかしいおかしいおかしい! 今丁度ってコトは俺きっちり一時間使ってないワケでしょ? しかも半分位盗聴されてるし! 全然フェアじゃないんだけど!」
 間違ってない。間違ってはいないが。
「聞きたきゃ聞けばいい。冷えるし暗くもなる。俺も長時間付き合わせるつもりはない」
「『そんなこと言ってられなくなったから出てきた』は?」
「ダメだ。邪魔すんな」
 横暴! 暴君! 絶対王政! と言いたい放題まき散らした鮫島は、けれども大人しく鞄を取った。やけにあっさり引き下がる。
「しょうがないなぁ。俺は盗み聞きとか下品なコトしたくないし、弟子の用も済んだみたいだから、今日は帰るわ」
 矢先、右の口角が引き上げられた。どこか不気味さを感じる。
「あ、そうだ。火州、リカちゃんに大切な友人がヨロシクって言ってたって伝えて」

 背筋が、凍った。一瞬呼吸を忘れる。
 俺と鮫島を行き交っていた視線が俺にとどまる。
 鋭い目尻はナイフ。皮肉を残してドアをくぐった細い背中は、足音とともにすぐ消えた。わざわざ見届ける必要さえ感じなかったのだろう。
「何でもない。アイツも知ってる友人だ」
 真琴に向かって言いながら腹ん中で舌打ちする。何が『大切な友人がヨロシクって言ってた』だ。
「そうですか」
 それは何を思っての返事か分からない。その目を伏せると、寒さに上着の襟元をかき合わせた。
「悪い」
 空の映える時間は終わりつつあった。あとはまだらに暮れていくだけ。ここにいる理由はない。俺はドアを開けると屋内に入れた。
 丁度電気がついた所だった。ぼんやり薄暗い廊下は、暗い所から来たせいか、いつもよりまぶしく感じる。
 血色を失った顔色。青紫の唇。伏し目がちに揺れる視線。寒さに凍える身体に上着をやろうとした手をすんでで止める。
 ダメだ。
 カリソメ。ただ一瞬のやさしさもどき。真琴は何も言わないだろう。だからこそダメな気がした。もし本当にコイツときちんと向き合いたいなら話すべきだ。


  四

「・・・・・・違う。リカは、最近まで一緒にいた女だ」
 その表情に変化はない。見上げる目。これはあくまで自分のための自白。バレるバレない、真琴にとっての興味ありなしの問題ではない。ただ俺自身が潔白でいたかった。ちゃんと向き合うためには相応の強さが必要で、ブレずに済むだけの潔さが欲しかった。
「そうですか」
 本当に寒さのせいだろうか。真琴は肩だけじゃなく、全身を縮こめるようにして距離をとる。
 ちゃんと向き合うのは自宅に来た時以来一ヶ月ぶりだ。別れ方も良くなかった。加えて時間を開けることで全て初期設定に戻ってしまったかのように思える。
〈いいお兄ちゃんですねぇ〉
 ひんやりとした手。その感触を知っている。知っているからこそ、余計こたえる距離。
〈火州さん、何かあったんですか?〉
 あの時真琴はそれでも俺を信じようとした。あきらかに良くないことをしてきた手を支えたまま、事情を知ろうとした。答えられなかったのは答えられないことをしてきたからだ。消去法で察せる。そうしてその結果がこの距離に違いない。
「怖いか?」
 その目が上がる。聞いておいておびえているのは、明らかに俺だった。
 聞いて何になる。怖くなければこんな距離の取り方はしないし「怖い」と言われて今さら何を弁解しようっていう。いくら言葉にしたところで伝わらない。それは肌で感じるものだ。必死で付け足すほどにウソっぽくなるのは分かっていた。
 真琴は「はい」と言った。

 電気が一瞬点滅した。夜に片足をつっこんでから暗くなるまでの時間は驚くほど早い。既に外は真っ暗だった。大きく息を吸うと天を仰ぐ。
 何かが壊れる音がした。
 弁解する術を持たない。水島のことで傷ついていると分かっていても、寄り添うことができない。気を遣わせる位なら一人にしてやった方がずっとマシだった。
 そうか。そうだよな。
 あの時、こんな日が来ることが分かっていたらケンカなんかせずに済んだんだろうか。そうしたらリカと別れて正々堂々と正面に立てたのだろうか〈いいお兄ちゃん〉でいられて、今ある距離も全然違って、またその手を取ることができたかもしれなかったんだろうか。
「火州さん」
 ヒリヒリする。苦しい。全身が痛い。息の仕方一つで何かがあふれそうになる。だからもう、うかつに呼吸もできない。
「火州さん」
「・・・・・・何だ」
「違うんです。怖いっていうのは」
 顔を上げたのは、自分と同じような息の仕方に気づいたからだ。
 浅い。緊張のためにうわずる声。向こうはうつむいてしまったため、目は合わない。
「怖いっていうのはちょっと違って・・・・・・うまく言えないんですけど落ち着かないんです。火州さんがいると何か空気が薄くなるような気がして、圧みたいなものを感じて苦しいんです」
 早口。まくし立てるように口にする真琴はうつむいたまま。ただ、俺自身は真琴が必死にしゃべるほどに冷静になっていくのを感じた。
 ちょっと待て。どういうことだ。
「暴力は嫌いです。人を傷つけるのは許せません。ただ、正当防衛ということもあります。もしそうでないとしたら」
 その顔が上がる。目が合う。待て。まだ言っていることが理解できない。
「お願いです。もう二度と手を上げないで下さい」
 インスピレーション。眉間を貫く、それはくさび。目の前で何かがはじけた。
 理解はできない。追いつけないまま、それでも直感が反応した。
「誓う」


  五

 それは、たった一つの赦しだった。真琴は俺にこれを言わせるために事情を聞いたのだとたった今理解する。始めから黒だと分かってた。それでも関係を断とうとしなかった、のは。
「何でだ」
 薄暗いのかまぶしいのかよく分からない。ホコリっぽい踊り場に明るい色味は存在しない。それでもメガネのフレームの色が落ちかかったその肌は、目を突くような白さ。
 図書室のドアの閉まる音がした。
「何で怖くないようにしようとする」
「怖いからです」
「そうじゃない」
 戸惑っているようだった。かすめたのは後ろめたさ。
「前は『もう関わらないで下さい』と言った。あの時と何が違う」
 真琴は再び襟元をかき合わせると、首をすくめた。それは隠れる術を持たないのに亀のような動作だった。だからもちろん赤みの差した頬は丸見えだ。
 赤みの差した頬?
「どういうことだ」
 おい、と詰め寄るとますますその身が縮まった。浅い息。うるんだ目は心底困っているようだった。
「それ以上近づかないで下さい! ・・・・・・言ったじゃないですか。苦しくなるんです。それに」
 つぶやく。かすめた声に息を呑む。しかも届いたのは俺だけじゃなかった。

「ねーぇ、外真っ暗。女の子一人返すのは、同じ真っ暗でもなるべく早めがいいよねぇ。あ、そいえば火州さっき同じようなコト言ってたね」
 サンダルの底が固いフロアを叩きながら近づいてくる。振り返るまでもなかった。図書室のドアの閉まる音がしたのは少し前。
「・・・・・・『俺は盗み聞きとか下品なコトしたくない』んじゃなかったのか」
「んー、でもやっぱそんなコト言ってられなくなったから出てきちゃった。ホラ、あんまり遅くなっちゃうとよくないし」
「何時だ」
「十八時十五分。イロイロ精算して丁度同じくらいのイイ案配」
 得意げにあごを上げると、鮫島は真琴に向き直った。
「んなトコで。弟子、帰るよ」
 ふざけるな。
「お前、先帰るって言ってたじゃねぇか」
「え、コイツ一人で返すの? 正気?」
 階段の一段下がった高さから見上げる、その口元が歪んだ。
「今言ってたじゃん『火州さんといるのは嫌だ』って。本人イヤがってるんだし、お前メンタルぺしゃんこなトコ助け船出してんの。それともアレ? 他の男つかせる位だったら危険な目に遭ってもしょうがない的な? それは感心しないなぁ」
「何も言ってないだろう」
「ヤだ。そんな目しちゃ。大丈夫だって。俺が無事送り届けるから」
 そうしてもう一度「弟子」と呼ぶ。真琴はそそくさとその場に駆け寄った。
「・・・・・・大丈夫だって。何もしねぇよ。コレはボーナスステージ。オプション。そこんトコ俺ちゃんとわきまえてるから」
 小さな真琴は一段低いところにいる鮫島と丁度同じくらいの目線の高さ。
「後ろめたいコトしちゃうと後ろめたいコトされるんだって。それなら俺は何もしない。あくまでフェアにいくよ」
 真琴はその近い横顔を見つめる。丸くした目には何か思い当たることがあるようだった。
「じゃねん。あ、一緒に来てくれてもいいケド、時速六〇キロで移動するからね」
 そう言って手をふる鮫島のあとを追う真琴。
「あ、の、受験お疲れ様でした」
 鼻先をかすめた残り香。
 心臓が縮む。夏の夜。眠る学校。まだ浅い、さっぱりとしたさわやかな夜風。両腕で抱きしめた小さな身体。それは、あの時かいだ香り。
〈まだ誤解したままだ〉
 遠ざかる足音。何も残らない両手は、だから使い道がない。
〈苦しいんです〉
 それは、俺の方だ。
 苦しい。あの時こりたはずなのに、また同じルートを辿る。こびりついた声。
 頭をかきむしる。
〈違うんです。怖いっていうのは〉
 何だ。
〈落ち着かないんです〉
 何でだ。
〈火州さんといるのは嫌だ〉
「何でだ!」
 思わず声を上げる。手のひらに食い込んだ爪。
 何であの時、後ろめたそうにした。




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登場人物紹介

草進真琴(そうしんまこと)

高一女子。モットーは「私はただの高校生。それ以上でもそれ以下でもない」

6月10日生まれ、A型。


作画、いく。

火州飛鳥(ひしゅうあすか)

女嫌いの高三。美形。

9月2日生まれ、B型。


作画、いく。

鈴汝雅(すずなみやび)

男嫌いの高二。美人。

3月3日生まれ、O型。


作画、いく。

水島聖(みずしまひじり)

病んだ高一。思い込みが激しい。

6月27日生まれ、A型。


作画、いく。

鮫島勤(さめじまつとむ)

高三。飛鳥の友人。

2月2日生まれ、AB型。


作画、いく。

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