雅18〈3月14日(月)〉
文字数 7,181文字
一
見えたのは水島と真琴が話している所だった。条件反射で隠れてしまったのは気まずさ、後ろめたさによって。南側の扉。距離にして四、五メートル。
笑い声がした。真琴のものだ。話す内容までは聞こえない。
その時だった。体育館の中央からこっちに向かってくる人影が二つ。
ざわりとした。染めた長い髪はストレート。同じ形のシルエット。中辻さんと黒田さんだ。二人はあたしの前まで来ると、やけになれなれしい口調で話しかけてきた。
「あのジイさん。前アイツにセクハラされたことあるんだよね。女子なめんなよってカンジ。ちょっとすっきりした」
それだけ言うと「じゃ」と人波に乗って外に出る。突然の事に呆然とするが、それをきっかけにあたしにも声をかけるべき相手がいることを思い出す。
「兼子君!」
声で分かったのだろう。うんざりした様子で振り返る。何か言われる前に「ありがとう」と言うと、決まり悪そうに「で、アイツとデキてんの?」と聞いた。
「ええ」
正面に立つ。兼子君は目を丸くすると「そっか」と言った。その眉間をトントンと指差す。
「あんた、変わったな。前はずっとここにシワ寄ってた」
反射で額を覆う。それを見てその口元がわずかにゆるんだ。
「礼を言われる筋合いはねぇ。俺は昼寝がしたかっただけだ」
その後進もうとしたその足を再び止める。
「・・・・・・悪かったな」
「え?」
女子の高い声が被さった。今日はこれで終わりだ。開放感による人波は荒い。押し流されるようにあっという間にその姿が見えなくなる。その向こう、細身のなで肩。竹下君と目が合った。一つだけ頭を下げられた。
目を移す。飛鳥様と高崎先輩、その向かいにいるのは、あの、シュートの良く入る人だった。多須さんとおそろいの蛍光色のヘアゴム。その人もまた、二人に向かって軽く会釈をした。長い髪。思い出した。野上さんだ。
〈大事な友人が大切にしてる子だ〉
そう言ってかばった。形はどうであれ、彼女もまた守られていた。そこへ本人も合流する。揺れるポニーテール。
「梨沙姉はいい恋をしたのね」
りさねえ?
飛鳥様も高崎先輩も眉尻を下げた。その後、野上さんと多須さんが離れるタイミングで水島が戻って来る。飛鳥様と目が合った瞬間、ヒリついた空気。
「何ですかその殺気。嫉妬ですか? ご自身の至らなさを押しつけないで下さい」
「・・・・・・誰がよくしつけられてるって?」
「あなたに決まってるじゃないですか。あれだけの怪我をこの短期間で治すとか、とても人間ワザとは思えません。ポン太を見習って大人しく飼われていて下さい」
すれ違う。その背中に声をかけたのは飛鳥様だ。
「おい。・・・・・・鮫島(アイツ)が世話になった」
高崎先輩もそれに習う。
「悪かったな」
動揺、したようだった。水島は首をふると頭をかいた。
「あなたは・・・・・・好きじゃない!」
そうしてきびすを返す。二人は目を合わせると笑った。
二
その後水島は多須さんと合流すると互いをねぎらった。水島は多須さんによって助けられたし、多須さんは水島に自分の信念を委ねられた。互いの利害が完全に一致した理想のパートナーだった。だから二人の話す表情はとてもやわらかい。とても
「鈴汝さん」
その声。驚いて振り返る。そこにいたのは真琴だった。すさまじい早さで心臓がなり始める。急速に渇いていく口。声がかすれた。
「真琴」
半月ぶりに見る頬は、以前に比べていくらかふっくらしていた。血色も悪くない。それだけで救われる気がした。メガネの奥からまっすぐ見上げる目。
「鈴汝さん、さすがでした。すごくカッコよかったです」
それは純粋な尊敬のまなざし。二度と向けられることはないと思っていたそれは、あたしにはもったいない程ひたむきで澄んでいて
「ど、どうしたんですか?」
頭の芯がしびれる。関係を戻そうなんて思っていない。それこそほとぼりが冷めるまでは完全に距離を置いて。だめだ。のどがヒクついて声にならない。
あるいはもう二度とまともに向き合えないかもしれないと思っていた。許されるつもりもないその痛みは、自分で抱えて責任を持って消化するものだと。
戸惑う。ふと視線を感じた。多須さんと別れてこっちに向かって来ていた生意気な後輩。その静かであたたかいまなざしは、まさか後輩になだめられている先輩の手助けをしようとしない。ただただ見守るだけ。顔を上げる。
水島。目の端をかすめたその表情は、あたしよりずっと幸せそうに見えた。
「飛鳥様なら大丈夫よ」
月曜ではあるものの、今日は職員会議の関係で部活動はない。あれからあたしは真琴をつかまえると生徒会室に連れて来た。ここを思い通りに使用できるのもあと数日。数少ない特権を駆使するにふさわしい話をしようとしていた。
「高崎先輩が根回ししてる。あなたも巻き込まれた時のこと、相手にも話をつけているし、先生方にも事情を説明してる。結果的に分かったことだけれど、飛鳥様はただの一度も手をあげていなかったの。鮫島先輩のも正当防衛。こちら側の非は今の所なしで済んでるわ」
真琴は華奢な椅子に浅く腰掛けたまま「今の所」とつぶやく。
「ええ。話をつけてくれてるとはいえ、それは表向きのもので、火種がくすぶる可能性はある。ただ、あれから一ヶ月。何かあればもう動いていてもおかしくない。それでも依然何もないということは、もう落ち着いたと見ていいんじゃないかしら」
「そうですか・・・・・・」
息をつく。昼過ぎ、時刻は十二時半を回る。真琴もまた時間を確認した。
「全く勝手なものよね。やりたいようにやる人がいる一方で、それをフォローする人がいる。自ら根回しする子もいる」
目が合う。苦笑いした。
「あの子、今日の生徒総会で話したこと、全部前もって教師全員に話を通してた。普通に考えて授業時間変えるなんてできるはずないのよ。なら何でできたか。理由は一つ。利害関係が一致したからよ」
「鈴汝さんは・・・・・・」
「・・・・・・そうね。あたしもさっさと謝りに行かなきゃいけないわ。さっきこっぴどく叱られたもの。さすがにあれはまずかったわ」
でもその前にあなたと話がしたかった。そう言うと真琴は腰を浮かせた。押しとどめる。
「大丈夫よ。そんなことより一つ教えて」
深呼吸一つ、背筋を伸ばすとまっすぐ見つめる。随分遠回りしたけど、ようやく向き合う。
あたしとあなたが飛鳥様を介して出会ったはずの場所。全ての起源へ。
「あなた、二重人格なの?」
三
その目が伏せられる。一拍二拍ためらった末、絞り出した声。
「・・・・・・自覚はありませんでした。でもそうかもしれません」
「どういうこと?」
額に立てた指。もう片方の手でスカートの裾をつかむ。
「昔のトラウマで何かをきっかけに意識が飛ぶことが何度かありました。その引き金が何なのか分からずにいたのですが、やっと分かった気がします」
スカートがよれる。噛みしめた唇。その力がふっと抜ける。
「引き金は『背中』と『血』以前目の前で父がケガをしたことがありました。その時の無力感がずっとついて離れないのが『トラウマ』だから同じ思いをすることを避けようとする、一種の自己防衛でした。力ずくでも話してでも、相手の戦意をそげれば、どうやら危機を脱したとして元に戻るようです」
「じゃあもしまた同じ状況になったら」
喉元がわずかに動いた。
「いえ、大丈夫だと思います。トラウマはもう解消されましたので」
どういうことかと尋ねるとその頬にサッと赤みが差した。落ち着かない視線。
「トラウマの本質は『無力感』つまり『助けられた。守れた』という経験が必要だったんです。そう言う意味で今回、守る対象の無事を直接確認するまで至れました。だからもういいんです」
「たぶん、」と小さな声で言うとうつむく。
「・・・・・・そう」
細かいことはよく分からない。分からないけれど、本人が大丈夫だという以上、大丈夫なのだろう。その短いが隙間なくつまったまつげを見つめる。濃い縁取りはまるで人形のよう。そうしていれば本当にただの少女だった。
「止めて悪かったわね。話はそれだけよ」
そう言って立ち上がる。時刻は十三時十五分。入口に向かおうとすると呼び止められた。「鈴汝さん、実は私、鈴汝さんに謝らなければいけないことが」
振り返る。うつむいた顔。その唇が微かに震えている。
開く。その口から出たのは、ある程度予想のついたことだった。思わず頬がゆるむ。
「どうして謝る必要があるの?」
無論、己の罪悪感を消したかった。それとは別に寂しさもあった。しかし何よりうれしいという思いが強かった。
かつて自分が好いた人の幸せを願える自分は、その時の自分よりずっと豊かに違いない。
「今さら。それが分かったから、あの子のことを話せたのよ?」
先に裏切ったのはこっちだわ、と言うと再び生徒会室の入口に向かう。
次に会うときは友人として、かしら。
苦笑い。まさか。
複雑に絡み合う感情。これはまだ、名のない思い。真琴は「あ、ありがとうございます」と頭を下げた。引き戸の前で足を止める。
「・・・・・・お礼を言うのはあたしの方よ」
向き直る。まっすぐ向き合う。真琴は戸惑っていた。
「知らなくていいの。でもあたしはあなたに助けられてる」
錆びた鉄のにおいと、クレーンの金属音。あの時あたしの恩人を助けてくれたのは、この子で間違いなかった。やっと、やっとたどり着く。やっとこの子の幸せを願える。
「ありがとう。あなたに会えてよかったわ」
四
〈一ヶ月。一ヶ月だけでいい〉
真琴と別れて帰路につく。昼食を済ませた十四時四十五分、身支度を調えると再び外に出る。三月も半ばになるとこの時間帯の景色も随分若返る。
桃色。まだ産毛の見えるような緑。透明感のある水色。夕方に向かうと言うよりは純粋な昼間を引っ張り続ける。
バスに揺られながら水島の言っていたことを思い出した。
〈言ったって週末いつだってできるのに、何が気にくわないんだか〉
窓に頭をつける。じわじわとガラスの冷たさがしみてくる。頬に差す光の丸い先端。目を閉じる。
水島の部屋は四角でできていた。机、本棚、ベッド、カーペット。全てに角がある。そうしてその全てに何らかの役割が与えられている。例えばぬいぐるみとか壁飾りなんてものは見当たらない。そのため似たような部屋の大きさでも広く感じる。
「どうぞ」
促されて座るが、どうしても手持ち無沙汰というか、クッションが欲しくなる。聞いてみるが「それ、必要ですか?」と返ってきて、あ、これ面倒くさいやつだとあきらめた。
「先生と話はできましたか?」
「ええ」
渋い眉間を思い出す。広い額に浮いた脂汗を見て、シワの割に若いと思ったことを話すとまた怒りだした『さっきこっぴどく叱られた』のはこの子からだった。
「本当にちゃんと謝りましたか? 先生の立場を考えたら本当にいけないことだって分かりますよね?」
「間違ったことを言ったとは思ってないわ」
「正しいことが正しいとは限りません。伝え方によっては間違いになり得るんです。思いつきで行動するとか、一生徒の気分に合わせるような流れを生み出さないで下さい。決まり事は精査されて成立するものです」
反射的に声を荒げる。
「あたしが声を上げたのは決め事じゃないわ」
「流れを生み出さないで下さい、と言ったんです。一生徒とは言いましたが、あなたは生徒会長でもあるんです」
「じゃああなただったらどうしたの?」
「止めに入るまでは一緒です。でもあくまで演説の途中であって、僕に与えられた時間なので話を元に戻します。派手な装飾をそげば兼子さんの言っていた通り是非を問うだけなので、まともな質問だけ受けてあとは裏で話します。少なくとも壇上からやりとりをするなんてことはありません」
「悪かったわね。あの場でそこまで頭回らなくて」
言っていることは分かる。分かるけれど、そこまで言わなくてもいいんじゃないかと思ってしまう。全部を否定された気になる。
一転、黙るあたしに水島は続けた。
「・・・・・・言い過ぎました。全部を全部否定している訳じゃないんです」
「何よ今さら」
「そうへそを曲げないで下さい。違うんです。あれで救われた人もいるのは確かです。あなたの思いは確かに伝わっているはずです」
「何よ今さら」
「いじけないで下さい。知ってますよね? 代々ここの生徒会長が男だというのは。その理由が分かった気がします。さっき言った通り、決め事は精査されて慎重に決定するものです。それなりの手順と時間が必要なんです。それを一発で壊してしまう力を持ち得るんです。それはとんでもない脅威です」
頭をかく。その目は伏せられたまま。言葉を選んでいた。
「・・・・・・あなたが壇上で前に出たあの時、生徒全員が息をのみました。心を突き動かすだけの変化を起こせるのは、何のてらいもないあんなまっすぐな言葉です。ただ、時に必要なイレギュラーも、くり返しては組織自体が転覆します。土台が必要なんです。そんな前提を共有しているのは、比較的男性の方が多いんです」
「歯切れが悪いわね」
「完全に二分すると男女差別と言われますから。現に今、あなたの機嫌を損ねないためにどれだけ気を遣っているか分かりますか?」
思わず笑ってしまった。
「気苦労が絶えないわね」
「全くです」
言いながら部屋を出る。少しして戻ってきた手にはグラスが二つ。中身は色で分かった。
「あら、ありがとう」
ミルクティー。渇いたのどに甘くしみわたる。その険しいままの表情。
「全く、割に合わない」
「悪かったわね。苦労ばかりかけて。後悔してる?」
まさか、と言った。
「差し引いて余りある。あなたが笑えば全部チャラだ。一体どんな等価交換だよ。遺伝子レベルのバグとしか思えない」
「あなたはずっと怒ってばかりだわ」
その目が丸くなる。本気で驚いていた。
「僕がいつ怒りましたか」
「いつってずっとよ。今も」
「違いますよ」
座り直す。心外だと言わんばかりだ。
「喜んでいるんです。あなたを護ることができる。それは、特権です」
言うと視線を落とした。怒る。怒るって・・・・・・とつぶやく。最短なようで、その実変なところ遠回り「何それ」と笑うと、心がほどけた。
分かってた。徹頭徹尾この子の目的は変わらない。
「ありがとう」
時刻は十五時半。やわらかな光を濾過するカーテン。この場所に自分を傷つけるものは何もない。
五
ふいに床についていた指先が触れた。ずらそうと身体を引くと、手をとられた。
目が合う。何十倍にも引き延ばされる一瞬。呼吸を忘れたその時だった。水島は勢いよく身体をひねってドアの方を向いた。突然の予期せぬ動きに驚く。
「何」
「シッ!」
指先を口元に当ててゆっくりドアに近づき、ノブに手をかける。それを引いた次の瞬間、
「クソ兄貴がぁぁぁぁぁ!」
部屋を飛び出す。ドアの向こうから、水島に似た声質の悲鳴と階段を駆け下りる音が聞こえた。開け放たれたドアの下に残された一枚のカード。そうっと近づいて拾う。
「・・・・・・何これ」
「R」ウノのリバースだった。
拾い上げてしばらく待ってみるが、一向に戻って来る気配がない。仕方なく元いた場所に戻ろうと振り返ると途中で本棚が目に入った。
ハードカバーでそろえた分厚い時代小説に推理小説。やたらと字画の多い漢字のタイトルの本は一体何のジャンルになるのか分からない。源氏、平氏、雨月「物語」と名のつく見覚えのある三冊は並んで納められていた。ゲームの攻略本。その他、本棚の上に無造作に置かれているのはバスケの雑誌。一冊手に取ると、下に地元の行楽誌があった。その何カ所かが折り曲げられている。気になって開いてみると、どれもスイーツ特集だった。意外と甘党らしい。
文字の大きい時計を見ると十六時半を回っていた。未だ水島が戻って来る気配はない。雑誌を置いて部屋を横切るとベッドに腰を下ろす。まばたきの合間に鮫島先輩の姿が浮かんだ。
〈四月十五日までの一ヶ月。一ヶ月だけでいい。アイツを貸して欲しい〉
付き合っているから水島があたしのものになる訳じゃない。所有権が存在しない以上、許可はいらなかった。けれども鮫島先輩が言いたいのはそういうことではないようで
〈これは完全に俺都合になるんだけど、バスケでアイツまだ向き合えてない問題がある。もう一コ上がるためには、相応の時間と努力が必要になる。俺は水島と戦って終わりたい訳じゃないんだよ〉
その目の見据える先。鮫島先輩は見えないものを見ている。そうして見たいものを実現させるためにあたしを呼び出した。
〈とにかく今は時間がない。機動力も落ちるから女に持ってかれる労力全部削りたい。言ってるコト分かるよね?〉
要はバスケに集中させろ。そのためにあたしにかける脳みそ時間労力全て奪い取る。という宣言だった。
〈強制はできない。ただ、アイツの成長を妨げないで欲しい。自分で言うのもアレだけど、こんな機会は、もうない〉
それはあたしでも分かった。球技大会の時の、まるで狩りそのものを楽しんでいるかのような表情。鮫島先輩の存在はあの子の持つポテンシャルを最大限に引き上げる。まだ一回生。鮫島先輩には水島の伸びしろが見えているのだろう。
〈一ヶ月は、長い?〉
笑った。確かに短くはない。今やあの子は切っても切り離せない深いところで根付いている。けれど
横になる。布団のニオイを目一杯吸い込む。少しだけ引きつれた胸。
目的のため、あの子にとって最も価値ある選択を。
まどろむ。文字の大きい時計は日付まではっきりと見えた。
今日は三月十四日。
その枕をつかむ。寂しさに負けないように、今はこの胸を一杯に満たしておく。