雅4〈7月25日(日)②〉
文字数 2,009文字
二
ここからだと東に向かった方が近いのだけれど、あいにく出し物の関係で完全に見動きが取れなくなりそうだったので、西側から回ることにした。百メートルほど走って、角を右手に曲がる。この辺りは射的や輪投げなど「遊び」の屋台が立ち並んでいるが、綿菓子の屋台もまぎれていて「そこのネェちゃん、甘いもの食べたくない?」と声をかけられた。そういえば、りんご飴を残したままだ。
それを笑顔で振り切り、小走りで向かう。そのときどこからか名を呼ばれた気がしたが、そのまま走り続けた。
露店はどこも橙の電球をぶら下げている。笠のかかった柔らかな光。帰りたくなる色。
胸の奥がねだるようにうめいた。必死で足を動かす。でもそんなことしたって無駄なのは分かっていた。結局のところ、どうしたって飛鳥様と一緒に歩く夢を見てしまう。今日の花火に誘われた時からずっとそうだった。抑え込もうとする程にその思いは何度でも湧き上がってきた。
再び右手に折れる。すると目の前に現れた背中にぶつかった。
「あ、すいません」
そう言って再び走り出そうとする。しかし次の瞬間、手首をつかまれた。
「ネェちゃん、ぶつかっといてそれはないだろ?」
振り返ると、スキンヘッドの大柄の男があたしを見下ろしていた。まずい。ぶつかった相手が悪かった。服装や、身に着けた金属類から、一般の人ではないと気づいた。すぐに言葉を付け足す。
「本当にすいませんでした」
「おお、あんたえらいべっぴんだな。俺たちの相手してもらおうか」
かぶせ気味にそう言うと、男はつかんだ手首を引っ張った。ものすごい力で腕が抜けそうになる。近づいた顔は酒臭い。
「痛っ……」
その瞬間、目の前に『あの時』の光景が浮かんだ。暗い倉庫。反響する声。あの時もこのくらいの大男にねじ伏せられて。
膝が音を立てて震え始めた。重心を落として全身で拒否する。声が、出ない。
怖い。誰か。見回したところで、周りの人は一人としてあたしの様子に気が付かない。怖い。助けて。かすかに声が漏れたその時だった。あたしと男の間に一人の人が割って入った。
次の瞬間、手首の痛みが消える。目を見開いて見上げる。
視界一杯の黒いシャツ。突き出た腕はやっぱり白い。それは見覚えのある背中だった。
「やっぱり、雅ちゃんだった」
声だけ投げてよこす。鮫島先輩は男の方を向いたままだ。
「何だお前? 邪魔すんじゃねぇよ!」
もうすでに出来上がっているのだろう。大の男が声を張り上げる。それに驚いて、あたしたちを中心に台風の目ができる。ざわめきの中に野次馬の声が混じる。
先輩は片耳を塞ぎながらため息一つ「そんなにでかい声出さなくても聞こえるっつの」と言った。実際のところ、少し前に一発目の花火が打ちあがったばかりだ。普通に考えれば相手の声の大きさのほうが正しい。
その後あたしを背に一歩下がり、先輩は小声で何か言った。花火が上がる。聞こえない。声を張り上げる。
「何ですか?」
そのときだった。いきなり男が殴りかかってきた。鮫島先輩はそれを細い腕で受け止めると、全力で叫んだ。
「来た道を戻れ!」
今度は分かった。しかし、あたしは動けない。相手の拳が鮫島先輩の腹をえぐったからだ。先輩はたまらずよろけ、左足を後ろにつく。ゲホ、と嫌な咳が耳に残った。花火が上がる。
「鮫島先輩!」
その身体を支えようとすると、先輩は全身の毛を逆立てるようにして怒鳴った。
「邪魔だ! 早く行け!」
一瞬の逡巡、は、この人を身代わりにしてはいけないという理性が働いたからだ。でもその後あたしは、振り返って来た道を走って戻り始めた。結局恐怖を前に、感情に従ったのだ。
花火が上がる。心臓が喉を突き上げるように脈を打つ。二十メートルほど走っただろうか。人ごみを縫うように端っていると、突然目の前に水島が現れた。
「鈴汝さん」
唇がそう動いた。額に光る汗。水島はあたしの手首をつかんで来た道を戻り、一本左へ折れたところでようやくその足を止めた。手首が痛い。さっき男につかまれた所だ。
「痛い、放してよ」
すると水島はあたしの手を離して、代わりに二の腕をつかんで乱暴に引き寄せた。胸ぐらを掴むのと同じ動作だった。
「勝手な行動を、とらないで下さい」
間近に見た大きな目は、有無を言わぬ強さをもっていた。
水島は、怒っていた。頬を伝う汗。荒い呼吸。掴まれている二の腕が痛い。思わずうなずく。水島はそれを見てきつく目をつぶると、手を放して再び歩き出した。
花火が上がる。まるで地鳴りだ。まだ震えはおさまらない。もはや何に対しての震えかも分からない。一歩一歩確かめるように歩を進める。頭上に代わる代わる大輪の花が咲く。咲いては散って、咲いては散って。
それは全てを明るく照らし出すと同時に、濃い影もつくった。