飛鳥11〈10月上旬某日〉
文字数 5,979文字
一
「火州、ちょっと来い!」
それは午前の授業の直後のことだった。ずかずかと教室に入ってくると、鮫島は俺の腕を引っ張った。
「何だよ」
「いいから」
ふだんからしたらありえない早さで走り出す。つかまれていた腕を振り払うと、その後に続く。
「何があるんだよ」
階段を二段飛ばしで駆け下りる。斜め前を走る鮫島の髪が大きく上下する。
「お前の一番見たいもんが見れるよ」
一階まで降りる。向かう先が廊下を一つ折れるたびに絞られる。俺はそこに関係の深い場所が残っていることに気づく。再び声をかけようとしたその時だった。
「二度とするんじゃねぇ!」
ぎょっとする。聞き覚えのある声。それは少し前、俺も目の前で聞いたものだった。
立ち止まる。同時に廊下に鈴汝がいるのを見つけた。戸惑いがちに揺れる瞳。鮫島がようやく振り返る。
「ほら」
そうしていつも通り口の右端を吊り上げた。俺に必要だと思って連れて来たのだろう。
真琴。その後ろ姿。その声はどこまでも響く。どこまでもどこまでも。何十何百を相手取ろうと、その全員に届くように。
「次はない!」
その後ドンと突き放すと、相手はその場にへたり込んだ。そうして真琴自身も
「ダメです!」
次の瞬間、正面から止められる。鈴汝は激しく首を振った。
「これはあの子の、クラスの問題です。部外者は入ってはいけないんです」
部外者。
「ここで飛鳥様が入ってしまったらさらにこじれてしまいます。どうか、今はどうか」
ついた両手。俺のシャツの胸の辺りがギュッと絞られる。
動けない。力で言ったら鈴汝がかなうはずがない。それでも動かない。俺は自分がこげつくのを感じる。
ならばどうしてここに連れて来た・・・・・・!
それは鮫島。それは俺に必要なことだと思ったから。だから鮫島を責められない。鈴汝は動かない。その時、教室の後ろのドアが開いた。
水島は一瞬動きを止めたが、その後俺たちの横をすり抜けると渡り廊下に向かった。腕に真琴を抱きかかえたまま。
真琴は前と同じようにぐったりとしていた。白いほお。ゆれる足首。腕の中におさまる小さな身体。
奥歯がめり込む。頭がおかしくなりそうだ。
ぐるぐる回る嫌な思い。バカバカしい。いっそ投げ出してしまいたい。
「すいません」
細い声。気づいて目を下げた瞬間身体が強張った。震える両手。嵐が過ぎて我に返る。何もかもが元通り。
「・・・・・・いや、悪かった」
俺は来た道を戻ろうと振り返った。その時、かすかに見覚えのある少女を見つける。強いまなざし。目が合ってもひるむことなく、俺を見返す。わずかな間。少女は一度口を開いたが、結局何も言わず教室に戻っていった。気づくと鮫島も消えていた。
行き交う生徒。いつもの昼休みが戻ってくる。いつもの昼休み。鈴汝とともに屋上に向かう。その声が響いていた。
〈部外者〉
二
屋上に行っても鮫島はいなかった。ということは水島と真琴について行ったのだろう。
「おーよかった。今日俺一人かと思ったー」
一人つまらなそうに待っていた高崎は両腕を広げて歓迎するものの、鈴汝の顔を見て俺をにらんだ。
「いえ、違うんです」
あわてて間に入ると、鈴汝は事情を話した。その後、高崎に彼女が何か知らないか聞く。高崎の彼女が真琴のクラスメイトだということは前もって聞いていたらしい。高崎は一瞬顔色をくもらせたが、ぽつりぽつりと知っていることを話し始めた。それと同時に俺は屋内に続くドアを開けた。
真琴。
その白いほおがチラつく。
水島。目を覚ましてそこに水島がいたら、アイツは本当にうれしいんだろうな。
胸の底がこげつく。こがれるだけこがれた分、一番熱をもった所が真っ先にダメになる。
階段を降り切って右に折れるとまっすぐ。開いた窓からひんやりとした風が入ってきた。頭をかきむしる。
苦しい。それでも捨てられないから苦しい。頭がかち割れそうだ。
すぐ目的地に着いて立ち止まる。深呼吸一つ、俺は保健室のドアを開けた。
のりのきいたシーツ。そこには横たわる真琴と、いすに座っている水島と、立ったままの鮫島がいた。目を閉じたままの真琴をのぞく二人が同時に振り返る。俺は後ろ手にドアを閉めた。
「真琴は?」
「ぐっすり。超眠り姫。むしろ眠り弟子」
俺は鮫島を視界の端に追いやって水島を見た。真琴の片手をその両手で握っている。再び煮える腹。
「違うよ、ほら」
張りつめた気配を感じて割り込んだ鮫島が水島の左手を外す。小さな手。それは自らの意思で水島の右手をつかんでいる。
ズキン。
これ以上はないと思っていたはずが、さらに深い痛みにおそわれる。それは水島と分かってのことか。それともただ単にその場に居合わせたためか。だとしたら俺や鮫島だとしても関係なくて、それはそれで嫌だと思う。
無茶だろうか。たった一人に、たった一人、自分だけを求めろと言うのは。
チャイムが鳴る。
「水島君、授業はいいの?」
「・・・・・・はい」
「いや、行った方がいいと思うよ。三回今日午後授業ないし、俺見とくから」
ウインクして「任せとけ」と付け足す。
室内に他の利用者はなく、保健医も不在。水島の目が細まる。妙な間が空いた。
「・・・・・・いや、いいです」
「え、何今の間。何、何がダメだったの? 失礼しちゃう」
「だからかわいくないですよ」
ふくらませていたほおを戻して向き直る。鮫島は続けて言った。
「じゃあ、火州に任せるってのは?」
三
窓ぎわの書類のめくれる音がした。俺は突然のことに固まる。
「それなら・・・・・・まだ」
まだ飲み込めないでいる俺を尻目に、水島はそう答えた。分かりやすい消去法だった。
「え、ちょっと何それ。詳しく説明してくんない?」
「病室です。静かにしてください。火州先輩にはリカさんがいますから」
「別に付き合わなくてもいたずら位いくらでも出来んだよ。なぁ、火州」
この野郎。分かってて俺に振りやがった。
「でもやむなくどちらか残すとしたら火州先輩の方がまだマシだと思います」
コイツもコイツでマシとかはっきり言いやがった。鮫島はまだ不満そうだが、大きく息をつくと同時にうなずいた。
「はいはい。一応そういう消化がちゃんと出来てる方が安心ってことね」
そうして両手を上げて「分かりましたー」と背を向ける。水島はと立ち上がると「すいません。そういうことなんでお願いしてもいいですか?」と聞いた。
「あ? ああ」
その後入口に向かう。そうして水島が出たのを確認してドアを閉める時、
「火州」
鮫島はゆがんだ笑みを浮かべた。
「俺、明日のお昼たこ焼き食べたいなー」
「・・・・・・分かったよ」
ドアが閉まる直前、俺は「二つね」とちゃっかり付け足す三日月型の口元を見た。
日がかたむく。それは早くもオレンジがかり、まだ先にあるはずの夕方を思わせる。知らない間に短くなる日。
俺は水島がいた椅子に座ると、その顔を見つめた。顔色が良くない。元々白いが、それにしても白すぎる。角度によっては青みがかっているような気さえする。
どうしたんだよ、お前。
その時チラリと目の端に動くものを見つける。真琴の手だった。それは上掛けの上でさまよう。
どくり。
俺は胸の鳴る音に目をそむける。頼りなさげな、ともすれば簡単に折れてしまいそうな手首。目をそむける。それは少しの間さまようと、さびしそうに元の場所に落ち着いた。息を吐く。
時刻はもう十四時近かった。ほんと、保健医はどこほっつき歩いてんだよ。
胸がきしむ。そのか細い指先。
わがままか? 俺がわがままなだけなのか? それでも俺は
真琴は眠り続ける。「むぅ」とも「むぅむぅむぅ」とも言わず、ただ淡々と。その胸のあたりがゆっくりと上下する。
なぁ。
俺は祈るようにしてその顔を見た。
四
ふとよぎったのは切れ長の目だった。
〈何、火州弟子のコトどう思ってるわけ? 好きなの?〉
苦笑い。
あの時は上手く答えられなかった。言うほど本体から遠ざかるような気がしていた。でも考えるキッカケにはなった。
相手に気づかれないのを良いことに、じっと見つめる。手の加えられていない眉がやけにキレイだ。その時、ついたため息がかすかにその髪をゆらした気がして、あわてて口元を覆った。少しの間息をひそめて様子をうかがうが、変わらない寝息に胸をなで下ろす。俺は今、つかの間の平和の中にいた。
天をあおぐ。
思えば全部受け身だった。母親から愛情を与え「られなかった」年上のオネエサンが誘って「きたから」相手をした。いつも近くに「いたから」そういうもんだと思っていた。
何年たっても進めない。本当は欲しかったんだろうけど、なくても困らないもの「それ」は俺にとって自分から切り捨てられる程度のもの。そう思い込むことで保ってきたものがミシミシと音を立てる。それは長い時間同じ姿勢でいたために固まった膝がならす音でもあった。だから
「本当はたおすべき相手だったが、何だか違った」のは、動き出した後知ったことで、その時点でもう止まれる状態じゃなかった。行く先を変えてでも進むしかなかった。
強いと思っていた女が弱かった。ならば「借りを返す」の意味を変えるだけのこと。たおすのではない。守ることで上位に立つ。そうすることで「それ」は自分から切り捨てられる程度のものと思うことができる。でもそれはもう音を立ててくずれ始めていて、
たたらをふむ。
そうして目の前にある道を外れて横道に行くことで寄るシワ。真琴と俺の間には、誰が決めた訳ではないのに見えない線がくっきり引かれていて、そのセンサーに引っかかる。最初に警告したのは鈴汝だった。
膝に肘をつく。寝息が聞こえた。このキョリで耳がくすぐったい。
ほおがゆるむ。泣きそうな気分だった。
たぶん真琴に関わろうとする俺はおかしくて、場違いで、カッコ悪い。でも自ら動くことで波立つものと向かい合うたびに、少しずつ自分のことが分かるようになってきた気がする。勝手にイメージされるものじゃなくて、俺はどうしたいのか。
弱い相手を守ることで借りを返す。本当にそう思うなら、それなりの目安が欲しいはずで、逆にもう返し終わってるなんてことも可能性として有りうる。けど「返した」気にならないのは、俺から与えられるもんがまだたくさん残っていると思うからなんだろうか。
たった数回見た顔が忘れられない。砂浜で転んで笑ったとき。妹の話をしたとき。変化した表情に、輪をかけて何かをしたいと思ったのは、そこに自分を入れたいその思いだけだった。
動くことで波立つ。知らないものを知る。目が、合う。その目に映る自分はやっぱりカッコ悪くて、でもこれが今の俺だと正しく知る。
唯一見下すことのない「女」を通して、やっと知る。
俺は
五
ドアを引く音。驚いて振り返る。
「あら、来てたの?」
現れたのは保健医だった片手に包帯を持っている。
「今体育でけがした子がいたって聞いて行って来たの。その子は大丈夫?」
「平気。寝てるだけだから」
「ガキ。敬語使いなさいよ。それとここは寝床じゃないわ」
「う・・・・・・ん」
その時真琴が身じろぎをした。肩がはねる。ヤバい。ひかえめに言って逃げ出したかった。しかし、どうにもこうにも身体が動かない。
真琴は手探りでメガネを見つけると、こっちを向いた。その身体が一瞬で強張る。
「起きたの? ちゃんとシーツ直してってね」
しかしそんな声に反応すると、すぐさまベッドを下りた。枕をはたく。一通りベッドを直し終えると「すいませんでした」と頭を下げる。その後振り返ると俺のそでを引っ張った。 心臓が跳ね上がる。入り口に向かうその後につくと、俺も保健室を出た。
教室を出て廊下の向かいにガラス扉がある。そこを開けて三段だけの階段を下りると、真琴は俺を振り返った。俺は目を合わせないようにしながらドアを閉め、同じように階段を下りる。二段目に座ると、真琴も俺の右隣に座った。すぐ左手は壁。風は通れない。
「あの・・・・・・」
真琴が口を開いた。張りつめる空気。
「す、すいませんでした・・・・・・先日はあの・・・・・・ひどいこと言って」
〈たぶん、全然足りてねぇんだよ〉
揺れる瞳。決して落ち着くことのない視線。その手が微かに震えている。
肩から力を抜けない。しかし一方で俺は真琴にそんな顔をさせたい訳じゃなかった。そんな謝って終わるような、先も見えない会話をしたい訳じゃなかった。
「・・・・・・許さねぇよ」
「え、あ、すいません。許してもらおうなんて思ってなくて」
・・・・・・は? どういうことだ。
「ただ・・・・・・ひどいことを言ってしまったので……」
「何だそれ。それならテメェの罪悪感を拭いたかっただけってことか」
その目が見開かれる。緊張から上手く言葉が出ないようだった。
「ち、違う。悪い、違うんだ。その。全く許さないって言っている訳じゃなくて」
急いでつけ足す。
「俺も手ぇ上げて悪かったと思っているし、だからその・・・・・・もう本当にお前のこと嫌ってないし、怖がるようなことしないから」
真琴の視線が右のほおを焼く。いつの間にか俺の手が震えていた。
「だから」
沈黙。鳥の鳴き声が聞こえる。これ以上どうしたらいいか分からないが、下手に動いて良かった試しがないから、言いたいことだけ言ってじっとしておく。
耐えがたい沈黙。息のつまるような静けさの先に、ようやく日が当たり始める。
「違うんです」
その声はもう震えてなかった。目が合う。青みがかった白目。正面から向き合う。
「とても許されることじゃないと思って、最初からあきらめていたんです。でも確かにそうですよね。自分の望む形で納得したいだけで、考えてみれば独りよがりな行動でした」
その後「・・・・・・すいませんでした」と頭を下げる。
「いや、別にもういいから」
もうこっちの方が許して欲しかった。この先はどんづまりだ。どうあがいた所で、この先コイツと関わることはない。
「そうですよね。確かに私は謝って自分が楽になりたかっただけなんだと思います」
だからもうほっといてくれ。勝手に納得して進んでくれればいい。
「分かりました。この場合、火州さんに許してもらえるように努力するべきなんですよね」
「・・・・・・。・・・・・・は?」
俺がついていけないにも関わらず、真琴は何かに納得すると再び俺を向き直った。
「火州さん」
無数の葉のこすれあう音。それらが運ぶ、どこまでも愛しい
それは琴の音をしていた。
「どうしたら許していただけますか? そのためなら何でもしますので、どうぞおっしゃって下さい」
その音はこげついた胸の奥にしみわたる。ここにあるはずのない風が流れた。