飛鳥2〈5月26日(水)②〉
文字数 1,514文字
二
授業に出るのはいつぶりだったか。日本史担当の前田が俺を見つけると声を上げた。
「おー火州! 久しぶりじゃないかー」
うるさい。だが歴史は嫌いじゃない。
「お前はもっと伸びる」
前田が言うには「広範囲の実力テストであれだけとれるのはすごい」らしい。何がって、ろくに勉強もしないくせに、きちんと時系列で記憶しているこの脳みそがだ。
大半の教師は問題児と関わりたくない。自分に従わない人間は邪魔なだけだし、それなら同じ時間を真面目な生徒にかけたがる。そのこと自体、間違っているとは思わない。そういう意味でも前田は特殊だった。見かければいつでも「今ここやってるから授業来いよ」と言う。実際日本史は俺の中では一番出席率がいい。
チラチラまぶしさを感じて目をやると、前田の整髪料が反射していた。毛虫みたいな太い眉が一昔前を語っている。
いや袖まくるの早ぇよ。そのペースじゃ授業終わる頃には裸だろ。
一番後ろの窓際の席。教壇から一番遠いにも関わらず、時々前田と目が合う。最近分かったことだが、一番後ろの席は教壇からよく目につく。寝るなら確実最前列だ。
ちなみに鮫島はああ見えて出来る奴らしく、盗み見た数学の成績は最高ランクだった。高崎は体育以外俺と似たようなもんで、心の友とは奴の事を言うのだと理解した。
その内にチャイムが鳴る。気づくともう昼前だった。
「火州、行こうぜ。鮫は三限サボってるから、もう上にいるんだと」
階段挟んで向こう側の五組から高崎が現れた。でかい図体がドアをくぐる。昼を済ませる頃には太陽は少し西に傾いていた。昼休み。高崎といつの間にか現れた鈴汝が仲良く話をしている。鮫島は自分のテリトリーである「ドアの上のコンクリのスペース」で昼寝中だ。
「なぁ火州」
不意で驚くと「なんだ、聞いてなかったのかよー」と小突かれた。白い歯がまぶしい。ここで本当に楽しそうにするのが、こいつのいいところだ。
「悪い、ボーっとしてた」
俺は仰向けに寝転がったまま答える。
「男の人はいいですね。日焼けとか気にしないでそうしていられるんですもんね」
うらやましいです、と言って鈴汝も笑った。
「そうだな。でもこの時間帯はさすがにきついかも」
そう言って起き上がると、日陰を求めて入り口に近づく。ドアの前のひさしがささやかな避難所だ。
雲一つない空。遠く、地平線が見える。遠くへ行く程その景色は灰色がかって、境界が薄れて一つの大きな塊になる。日陰に入っても顔の熱はなかなか引かない。その時、ふと思い立って見上げる。
「鮫島」
返事はない。よく寝られるな、あんなところで。
さっきより音量を上げて、もう一度だけ呼んでみる。すると間をおいて「何」という声が降ってきた。ひさしから出て目を細めると、まぶたの開ききっていない鮫島が恨めしそうにこっちを見下ろしていた。その顔は俺より真っ赤だ。
「眠いんだよ」
「よく寝られるなそんなところで。拷問か」
「昨日徹夜したんだよ。今日朝イチでテストだったから」
「何の」
「日本史」
手すりにもたれてぐったりしている。
「俺に言えば日本史ぐらい」
「やだね。お前いたって、どーせ覚えなきゃいけないの変わんないじゃん」
その後「数学とかなら分かるけど」とつけ加えた。口の片端を上げた意地の悪い笑み。
俺は再びうつむくと「なぁ」と言った。
「だから何」
ニヤニヤしていた鮫島が、その後何かを察して黙り込む。
沈黙。鈴汝の視線を感じた。
「ごめん、やっぱいい」
悪い、と言うと屋内に続くドアを開ける。最後、視界の端に映った鮫島は真顔で俺を見ていた。