雅15〈1月12日(水)〉
文字数 4,951文字
一
現れたのは鮫島先輩だった。いや、正確に言うと職員室を経由してきたあたしが廊下をまっすぐ歩いて来る途中でその姿に気づいたため、現れたのはむしろこっちの方だ。
生徒会室前。彼の生活圏外である以上、積極的なコンタクトを要する案件を抱えてきたに違いなかった。
不穏。会うのは冬休み明け以来。イコールカップケーキを渡した時以来ということでもある。水島に言われた通り、あれから対価について何も言われなかったため、無事受理されたものだと思っていたけれど、まさかそのことについてだろうか。
緊張を悟られないように歩幅を緩めることなく近づく。丁度あいさつを交わす位の距離になったとき、その顔が上がった。
「雅ちゃん」
ひるむ。思いも寄らない張り詰めた表情の鮫島先輩は、あたしの手を引いて教室前の階段を一歩下りた。
「頼む」
一段分高い位置からその姿を見下ろす。
不穏。先輩の命令は、滅多なことでない限り断れない。
喉が鳴る。静かに強張っていく身体。
しかし次に出てきた「頼み」は、これまた思いも寄らないものだった。
「アイツに教育してやって欲しいんだわ」
必死に見える。冗談で言っている訳ではなさそうだ。鮫島先輩の言う「アイツ」それはきっと水島のことを指していて。
「違う。弟子だ」
「え?」
その頭をかきむしる。硬い毛質の前髪が乱れた。
「だーもう、何で俺がこんなこと・・・・・・。いい? 教育ってのはアッチの方。男と女のチョメチョメね。キホン保健体育とかで習うと思うんだけど」
目が点になる。意味が分からない。
「いや、そんな目で見ないで。でも犯罪者を生まないためなんだ。分かってくれ」
純粋に視線に耐えられなかったのだろう。鮫島先輩は顔の前で手を合わせると、頭を下げた。あの鮫島先輩が頭を下げた。
「いえ・・・・・・構いませんけど、どうして・・・・・・」
「ホントね! ハナからアイツが真面目に授業受けてくれれば全く問題なかったのに! 何のためのメガネってんだよ。見てくれだけの真面目っ子が」
流暢な文句は照れ隠しにも思える。あたしは口をはさんだ。
「あの・・・・・・男女分かれての保体は二回生からです」
その目がかっぴらく。やっと戻ったかに見えた前髪を再びつかむ。
「マジか・・・・・・」
いや、それにしても情報の入手ルートなんかいくらでも・・・・・・とつぶやくが、その絶望感は底知れない。おそるおそる尋ね直す。
「どうして急にそんなこと」
「聞かないで。お願い。コッチの諸事情なの。でもさっき言った通り犯罪者を生まないため、前途ある若者のミライを守るためなの」
こっちに向けた手のひら。その長い指。
欲しいものは容赦なく手に入れてきた人が口にするセリフと思えなかった。違和感。まだ飲み込めない。
「前途ある若者って・・・・・・」
白い手のひらの向こう、小さな黒目がまっすぐあたしを射た。
「合ってる。今雅ちゃんが想像してる相手で間違いないから」
その後「じゃ、お願いね」と言うと脱兎のごとく去って行った。最後までせわしなかった。昼休みはまだ始まったばかりだ。
二
前途ある若者。
ゆっくりと息を吸って吐く。あたしはその足音が全く聞こえなくなるまで動けないでいた。
〈火州は真琴ちゃんのことが好きなんだ〉
鮫島先輩もあたしがこのことを知ってるつもりで言っている。でもじゃあ水島と真琴が付き合っている事を、飛鳥様は知っているのだろうか。
〈火州さん来れなくて残念ですね〉
少なくとも今の段階で真琴の側に飛鳥様への想いは見て取れなかった。その上であえて強引に奪いに行こうとするならば
「そのこと自体、犯罪じゃなくて・・・・・・?」
知識どうこう以前に、それは合意の上でのやりとりだ。それほどまでに切羽詰まっているということなのだろうか。だとしたら男性の側を止めなければならない。
前途ある若者。
足音が消えてようやく振り返る。生徒会室のドアを開けると、奥のソファに腰掛けた。
おそらく当の本人は無自覚だろうが、鮫島先輩の真琴を見る目が変わった。それは雪山の帰り、車中で思ったこと。あの日帰りは助手席に真琴が座った。夜の一件で明け方こってりしぼられた鮫島先輩は、控えめに言ってかなりへこんでいた。気まずい車内。そんな中やけにはっきりした声が響いた。
〈別にいいじゃないですか。助かったんですから。私だってこの年で判断能力がないとか言われるの、逆に恥ずかしいです。元はと言えば忘れ物をしたのは私ですし、危険だと判断すれば断ることだってできました。だから師匠だけの責任じゃないです。たまたま二つ年上ってだけで全部背負うのやめて下さい〉
驚いたのは、同じ目線の物言い〈断ることだってできました〉
真琴にそんな度胸があるとは思えなかった。それでも、そう言い切れるだけの関係をこの二人は築いている。
〈オラ弟子! ちょっと来いや〉
思い出したのは球技大会の後、まっすぐ真琴の所に来た鮫島先輩。
前途ある若者。
〈合ってる。今雅ちゃんが想像してる相手で間違いないから〉
実際真琴が付き合ってるのは水島。けれど水島こそ場違いな気がしてならない。となると相手はおのずと飛鳥様、もしくは。
頭を振る。訳が分からない。一体何がどうなってるっていうのよ。
気づくと前髪をつかんでいた。かきむしる。思わず声が漏れた。
三
同日の放課後、教室を出ると北棟に続く渡り廊下に向かう。以前話をした通り、会計を引き継ぐために再び生徒会室に用があった。
〈では〉
別れ際きちんと合うことのなかった大きな目。水島に会うこと自体、雪山以来だ。どことなく緊張する。引き継ぎはもちろん必要なことではあるが、一方それは正式なエクスキューズとしても機能していた。本音は水島ともう一度きちんと向き合いたかった。
階段に足をかける。踊り場にある窓から煙った光が差し込んでいた。
〈・・・・・・こっちは特に問題ありませんでしたか?〉
「・・・・・・っ!」
段差に蹴つまずいてとっさに手すりをつかむ。驚いた身体が一気に心拍数を上げた。
背後を確認すると、そのまま次の段に足をかける。
〈鈴汝さん〉
ドクドクドクドク。
胸を押さえる。鳴り止まない。身の危険が去った今でも変わらぬ早さで脈打つ心臓。たまらず足を止める。
どうしよう。
あの日、真琴には言えない続きがあった。
深くなる夜。わめいていてもいつかは泣き止む。それはようやく感情が落ち着きを取り戻した頃、もう大丈夫だと伝えようとした時のことだった。
目が合う。思い出したのは体育祭の日、放送室で手をとった瞬間〈水は、あたしと同じような体温しか持たないにも関わらず、それ以上の熱を伝えようとした〉こと。
時間が止まる。目をそらせない。あの時確かに、身体の内側がポコポコと音を立て始めるのを聞いた。
もれたのはうめき声。声にならない思いが行き交う。良くないと分かっていても目をそらせない。たぶんそれはあたしだけじゃなくて。
水島は眉間のシワを深くすると。かすれた声で「すいません」と言った。何に対しての謝罪か分からない。けれども
その後抱きしめる腕に力が加わる。抱き直した、という方が表現として正しいかもしれない。実際、断りを入れる前からその手のひらは隠しようのない熱を帯びていた。
ドクドクドクドク。
だから、これは、良くないことだ。
頭では分かっている。分かってはいるのだけれど。
反転。顔の両側につかれた手。
抱きしめられる。脳がしびれる。人一人分の体重がかかる。
熱い。それを心地よいと思ってはいけない。この腕を払わなければいけない。これ以上、この子に近づいてはいけない。
息づかい。つぶれそうな胸は決して物理的な力に寄るものだけではない。
ダメだ。戻って。ここにいてはいけない。この子と目を合わせてはいけない。
ドクドクドクドク。
ダメだ。早く。払いのけなきゃ。
乾いた口を開く。
〈水島〉
確かにそう言った。確かに音としては間違ってなかったはずだ。ただ、どうしてだろう。一瞬「いとしい」と言ってしまった気がして口をつぐんだ。
息を呑む。驚いたのは、音として正しく伝わっているはずの水島が、自分と同じ反応をしたことだった。肘をついてその身体を起こす。
目が合う。近い。奥の奥までのぞき込まれるような気がして怖くなる。
〈違っ・・・・・・〉
間違ってない。何も間違ったことは言ってない。
でもそれを見逃す程鈍感ではなかった。水島は
チャイムの音で引き戻される。他の平日なら部活が始まる時間だった。
目的地にたどり着く。その入口はわずかに開いていた。
頬をたたく。深呼吸一つ、ドアに手をかける。
四
予想外だったのは、待っていたのが水島だけではないことだった。
「多須さん・・・・・・」
水島と多須さん。二人は横長の机を一つ使用して、並んで腰掛けていた。思わぬ自体に戸惑っていると水島が口を開いた。
「来てもらいました。会計は僕と彼女が引き継ぎます」
息を呑む。
「どういうこと?」
何も聞いてないからこそ声をおさえて尋ねる。動揺を悟られたくなかった。
一対一なら文句でも何とでも言えるが、多須さんの手前、そうやすやすと口にできない。言い方によっては彼女を傷つけかねなかった。
水島はパイプ椅子の向きだけかえて見上げた。
「もちろん会計はやります。ただ、ノウハウを知るのが目的であって、それだけやるつもりはありません」
「話が違うわ。あたしがお願いするのはあくまで」
「僕は」
遮られる。
「いずれ生徒会長を引き継ぎます。そのために沙羅にも会計の仕事を知ってもらう必要があるんです」
ピ、と冷たい何かが頬をかすめた。
突然何を言い出すの。
ついていけない頭。返事がないのをいいことに、水島は再び口を開いた。
「会長になってやりたいことがあるんです。それを目的と称したとき、沙羅と考えが合致しました。会長選挙の推薦者としても共に壇上に上がってもらいます」
並ぶ二人。座高はわずかに水島の方が高い。多須さんのふっくらまるまるした頬。縦横比か何なのか、とにかくパッと見形としてバランスのいい二人だと思った。
「ひいては卒業式前日、選挙演説を行いたいと思っています。開票は始業式当日。在校生の過半数の支持で当選。当日から業務に移ります」
「ち、ちょっと待って。話が早いわ。それはあなた一人が決めていい事じゃないでしょう」
「ええ」
涼しげな顔で応えると同時に、一枚の紙を取り出す。
そこには『文武両道を掲げる校風における年々増加傾向にある帰宅部問題について』及び『六十五分授業の見直し、午後一の授業の非効率性について』の問題提起がなされていた。
「いつの間に・・・・・・」
一通り目を通すと、一番下、署名の欄に生徒会担当顧問のチェックが入っていた。正式な承認ではない。あくまで「見ました」の印。それでも
そこに一切の添削はなかった。そのこと自体が、そのまま顧問の答えであるように見えた。
「・・・・・・これがあなたのやりたいことなの?」
ムリヤリ絞り出すと、水島はうなずいた。
「目的は何?」
「水島君は」
水島の代わりに口を開いたのは多須さんだった。そのみずみずしい唇が動く。
「自分の目的のためだけじゃない。結果としてこの高校のため、生徒のためになることをしようとしています。そのためにはきっちり一年、必要になるんです。特に新入生の動く四月の一ヶ月は、年間通しても最も重要なんです」
多須さんは言われたことをきちんと実行できる子。言葉の齟齬云々に気を遣わずに済む、安心して仕事を任せられる子。そんな子が推薦者として後ろ盾になる。それはその子の持つ信用が、そのまま水島にとっての追い風になるということでもあった。
「お願いします」
起立して頭を下げる。ポニーテール。その根元、蛍光色のヘアゴムが目を突いた。目的のために人一人の心情なんてまるで関係ない。
「一ヶ月、引き継ぎを早めることを許して下さい。四月の頭から走りたいんです」
全ては二人の抱える目的のために。あたしはそのヘアゴムから水島に目を戻すと、ため息一つ「もう許可は得てるんでしょ?」と言った。
水島はまた一枚、紙を取り出した。