飛鳥9〈9月8日(水)〉
文字数 4,633文字
一
重なり合った影。一瞬キスしてるのかと思った。
イケない場面に出くわしたとひるんだが、そもそもここに来るのは限られた人間だけ。だから内一人が鮫島だというのはすぐ分かった。その切れ長の目が反射する。
「あれ火州、どしたの」
声と同時に動いた影、は、小さい。重なり合った影。残る一つは真琴だった。鮫島と同じように目を丸くしている。
どしたの、は、こっちのセリフだ。何で真琴がここにいる。何で鮫島と一緒に。何で抱き合うキョリで。
「・・・・・・連絡入れたが返事がなかった。ここにいると思ったんだ」
「んー? あ、ホントだ。悪ぃ」
携帯を確認すると「サイレントのままだった。ほら、俺真面目だから」その顎をツンと上げる。いつもなら笑ってしまうような動作だったが、今だけは違った。真琴が真上を向く位近づいた所でようやく足を止める。
「何してんだ」
鮫島は再び目を丸くしたが、真琴の事を言っているのだと気づいて「別に何も?」と言った。接触こそしていないが、相変わらず真琴は鮫島の立てた膝の間から俺を見上げている。その口が「あ」と開いた。
「すいません気づかず。お邪魔でしたね。わ、私帰るんで」
そうしてバッグの持ち手をつかむとあわてて駆け出す。その腕をつかんだ。
「痛っ・・・・・・!」
「おい」
呼びかける相手は座ったままの鮫島。穏やかだった表情が曇る。俺は構わず続けた。
「真琴には手を出すな」
「は?」
一瞬で張り詰める空気。薄い唇が大げさに動く。
「ホント、どしたの? 手を出すなって手をあげるなってコト? 俺は殴っていいけどお前はダメ的な?」
その目は真琴を辿って俺を見た。
「なぁ、弟子痛がってんだけど。そういう趣味なワケ?」
俺は手を放すと「違う」と言った。
「俺専用のサンドバッグ的な? 勘弁したげなよ。そいつ、そういうのぜってー慣れてないって」
空気が震えた。隣にいた真琴が鮫島の元に駆け寄る。何だその目は。何て目をしやがる。
「違う」
奥歯がきしむ。渦巻く思いを上手く言葉にできない。その間にどんどん話が進む。
「違うの? じゃあまさかお前の言う手を出すってこういうコトじゃないよね?」
立ち上がる。その手が真琴の肩を抱いて引き寄せる。
ガッ。
息を呑む音が浮いた。目の端に真琴の顔が映る。
「師匠!」
殴られてよろけた身体を支える。鮫島はその手を払いのけた。
「・・・・・・何だよ」
鋭い眼光。月の光をそのままはじいて俺に突き刺す。
「何? 一体何なワケ? 俺何か変なコト言った?」
鼻先が触れ合うキョリ。吐いたつばに血が混じっていた。
「え? やっぱりモテる男は違うなぁ。女がいても、他の子も思い通りにしたくなっちゃうんだから」
再び頭に血が上る。突き飛ばそうとしたその時だった。ドンと胸を押される。鮫島じゃない。手首と二の腕をつかまれる。一歩下がった時見たのは、烏の
え?
視界が反転する。気がつくと地面に背中を叩きつけられていた。見事な一本背負いだった。頬をかすめる黒髪。
「・・・・・・っあぁぁぁぁぁぁ腹立つ腹立つ腹立つ腹立つ! 甘ったれんじゃねぇよすぐ腕ずくで終わろうとしやがって! 不満があるなら口でやり合えよ頭悪ぃ!」
怒声。手でかき回された髪型はぐちゃぐちゃだ。その間から光る目とようやく目が合う。
え、真琴サン?
目の前にいるのはついさっきまでおびえていたはずの少女。しかし姿形は同じでも、今はすさまじい殺気を放っている。俺の中でばくん! と何かが音を立てた。
ずっと探していた相手。俺は立ち上がると正面から向き合った。
「お前、俺と勝負しろ」
二
十九時。学校だって夜は眠る。戸締まりが済んでしまうと厄介なことになるからと、先に校舎を出る。気を失った真琴を背負って。俺は何度目かのため息をつくと、学校の表札のある石段にその身体を下ろした。その向こう、鮫島が真顔で俺を見下ろしている。
あの後結局どうなったかというと、実況中継全く必要ない感じに真琴が倒れこんで今になる。一体コイツは何者なんだ。
何にしても二度目の「勝負しろ」宣言も全力で空振りになった訳で。何かの切れ端を見ただけで、消化不良感がすごい。
何なんだ? コイツん中に、なんか戦闘モードに切り替わるスイッチでもあるのか?
シラフの状態で見てしまったため、余計謎は深まるばかりだ。
「・・・・・・帰る」
顔を上げる。風を切った鮫島の髪が大きく揺れた。まっすぐなそれは、まとめて動く。長い前髪に隠れてどこを見ているのかは分からない。
「鮫島」
その足は止まらない。駐輪場から原付にまたがって戻ってくる。
「また話すから。その・・・・・・今日は悪かった」
「はっ」という声がした。いつの間にかくわえられたタバコ。
「言っとくけど貸しだからね。いつか俺の気の向いた時、一発殴らせてもらうから」
声の調子とは裏腹にその横顔は虚ろ。
「やっぱり俺は二番目だ」
その後アクセルをふかす。不安を覚えるが真琴を置いて動けない。呼びかけた声はエンジン音にかき消された。月が照らした細い背中。黒を光で縁取って、何とか闇に溶け込まず済んでいる。
まぶしい、と思う。頭の上から照らす蛍光灯。俺はその頭を引き寄せると自ら影になる。それでも地面に反射する光がうるさくて、その顔の下に腕をやる。格好としたら丁度横抱きになるようなカンジだ。いや違う。あくまでこれはまぶしいかと思っての事で、やましいことは何もない。相変わらずすやすやと
「・・・・・・ん?」
思わず声に出てしまった。気絶と寝るの違いって何だ。ってかもし気絶だとしたら病院とか行かないとまずいんじゃ・・・・・・
急いで携帯を取り出すと検索する。『気絶と睡眠の違い』あった。『外部刺激の影響を受けるか受けないかの違い』ふーん。・・・・・・『気絶してると失禁する事もある』って・・・・・・失禁ってあれだろ、え、それはいろいろまずいんじゃないか?
その肩を叩いてみる。なぁ、ちょっとお前トイレとか大丈夫か。
「むぅ! むぅむぅむぅ」
思わず飛び退いてしまったのは、思ったよりはっきりした声が返って来たためだ。それと同時に寄りかかっていた身体が大きく揺らぐ。
ばくばくばくばく。
再び抱き直した状態で固まる。外部刺激に対する反応。これは気絶ではなく、ただ単に寝ているだけだ。つまりトイレの心配はなくなった訳で。いや、そんな事よりも
え、意識あんの? これ大丈夫か? 繰り返しになるが、これ俺やりたくてやってる訳じゃないからな。まぶしいだろうから仕方なくこうしてるだけだからな。
その鼻先を顎の下にこすりつけられる。なめらかな頬。
「むぅむぅむぅ」
ばくばくばくばくばくばくばくばく。
ちょっと待て。いやだからこれはまぶしいだろうから仕方なくだから俺は別に・・・・・・ってかお前何だその不思議な寝言は。幸せそうな顔しやがって。
何だか一方的に腹が立って鼻を押すと「むぅ!」と強めのうなり声がした。さっきこすりつけた時にずれたのか、メガネが落ちかかっている。そっと外して横に置く。ゆっくり息を吸って、吐く。触れている部分の温度がなじむ。そうっとそうっと力をこめる。
三
秋が。鈴虫が鳴いていた。ススキの揺れる音。坂のふもと、一軒家の焼き肉店からもれる光。その前の道を行き交う車。まだ浅い、さっぱりとしたさわやかな夜風。
ああ、ダメだ。
分かってて正しく動けないから「ダメ」なんだろうな。一旦身体を離す事で落ちる頭。「むぅ!」ごめんて。
石段に片足をつくと、正面から抱きかかえる。その頬を胸元にこすりつけてくる。さっきより寝心地がよさそうだ。身体を預けきって寝息を立てている横で、起きた時の言い訳を考え直す。
身体を支えるのに支えきれなかったから。横たえるのは違うと思ったから。寒くなって風邪を引くかと思ったから。だから
だからずっと抱きしめてたんだ。悪いか。
考えてて自分が恥ずかしくなる。何よりいつの間にか力一杯抱きしめていた。か細い「むぅ」でようやく気づく。加減をすると、その頭をなでる。それさえ無意識。こうしたいという思いがあって動くのではなく、動いてからこうしたかったんだと思う。これが普通になってしまったら犯罪者にだってなりかねない。自分がしている事に不安を覚えてもやめようとしない、その事自体もやっぱり「ダメ」なんだろうな。
ダメだ。本当にダメだ。
いい加減離れないと抜け出せなくなる。これが当たり前のキョリだと身体が勘違いする。嫌々。心底嫌々身体を離す。
よく見てみろ。別に特別かわいい訳じゃない。目も大きくないし、鼻も低いし、化粧っ気なくてあどけなくて、下手したらロリコンまがいの
「むぅ!」
「・・・・・・悪い」
首の収まりが悪く、睡眠を邪魔してしまった。だから仕方なく抱き直す。違う。
十九時四十五分。いやマジで。いい加減起こすことにする。
「おい、そろそろ起きろ」
真琴は目をこするとようやく現実に戻ってくる。これが生まれたてのひよこだったらどんなにいいか。そんな雑念と戦いながら見つめ返す。
じっと。
じっと。
じーっと。
・・・・・・悪い。戦いを挑んだ俺がバカだった。勝てるわけがない。
目を逸らす傍らで、真琴はまだ俺を見つめ続ける。ふと過去にもこんな状況を経験したことがあると気付き、再び向き直った。
メガネをなくしたあの日の夜。メガネ。そうだメガネ!
俺はあわてて振り向くと小さなそれをとる。瞬間、あの夜の事がよぎった。足を手に入れたらコイツは・・・・・・
真琴はまだボーっとしたままだ。意識があるのかどうかさえ分からない。
おいおい何考えてんだ俺。もう充分だろ。足奪っておいてどうするつもりだ? そもそもコイツの親が心配するだろうから起こしたんだろう? 早く返せよ。
頭では分かっているのに、身体が動かない。理性と感情の狭間。俺は重たい腕をムリヤリ動かす。
四
「・・・・・・ほら」
ポカンとしているその顔にメガネをかける。するとスイッチが入ったかのように、その目の焦点が合った。
「火州・・・・・・さん」
久しぶりに呼ばれる。それだけでそわそわした。ホント、バカみたいだ。
「何だ?」
声を抑えて返事をする。しかし次の瞬間、その目が一気に揺らいで涙があふれた。俺は全く予想外の展開にあわてる。
「ど、どうした?」
何だ? 何だ? どうしたんだ?
真琴は両手で顔を覆った。せっかくかけたメガネを外してしまう。
「火州さん・・・・・・」
「な、何だ?」
俺は動揺したまま返事をする。次の瞬間、その声が俺の心臓をまっすぐ貫いた。
「もう・・・・・・私に関わらないで下さい」
元々静かだった夜が、さらに音を失う。俺は真琴の言っていることが理解できない。さっきまで使っていた不思議な寝言の方がずっと分かりやすかった。
「あたし・・・・・・暴力を振るう人、本当にダメなんです」
「ダメ」は分かってて正しく動けない事。手をあげてしまった俺は、だから
そうか。暴力はいけない事なんだな。
感情が追いつかず、頭の芯だけがやけに冷たい。心臓止まっても脳みそはしばらく動けるのかもしれない。
そうか。俺は、だから真琴に嫌われてしまったのか。
いつの間にか星や月は、分厚い雲に覆われて見えなくなっていた。残暑まっただ中の九月上旬。冷たい風がそうっと流れていく。そうっとそうっと、二人の間を流れていく。