真琴10〈9月27日(月)、29日(水)〉
文字数 5,986文字
一
「私、ミヤと食べるから」
きっかけはその一言だった。私はまともな返事を出来ずに立ち尽くす。
〈真琴〉
傷つけた本人は覚えていなくても、傷つけられた側はいつまでだって覚えている。私もまた無意識に慶子を傷つけたのかもしれない。しかしだからといってそこさえどうにかすればいいという問題ではない。教室という名の閉鎖空間には、繊細で獰猛な魔物が常にストレスのはけ口を探してうごめいている。
悪手、と分かっていて動いた一手は、そんな魔物を刺激してしまった。例え実害はなくとも、目立つもの、気分を害するものは排除したくなる。普段理性によって抑えつけられているそんな私欲は、仲間を得た途端に爆発する。己の欲が世間の望みに置き換えられたその瞬間、正しい制裁に成り代わる。
背を向けた慶子の表情は分からない。けれどもその向こうにいるミヤや早苗ちゃんと同じだと思った。葉のこすれるような笑い声。窓際にいる仲の良い二人組、氷川さんと月下さんがこっちを見ていた。振り向いても隠そうともしない。つやのあるアッシュ。切りそろえた前髪。カラコンの入った目は日本人離れした様相。どうしてだろう。似たようなファッションに身を包んだ二人は、全く異なる作りをしているのに、同じ生き物に見える。人の目の認識能力は、信じ込んでいるより高いものではないのかもしれない。
私は自分の席に腰を下ろすと、隣の席の千嘉ちゃんにお昼一緒してもいいか聞く。
「あ、全然いいよ」
お弁当箱を開ける。昼休みはまだ始まったばかりだ。
二
「草進さん、キャッチボール苦手?」
グラウンドの一角。五時間目の体育が終わった所だった。貸して、とグローブの入ったカゴを持つと、津山君が聞いた。当番だからと食い下がるが簡単に一蹴される。
「何か十メートルも飛んでないみたいだったからさ」
笑うとき、顎のエラの部分が張った。白い歯。健康男児代表のようだ。
確かにボール投げは苦手だ。どこで手放したらいいのか分からず、想像を絶する軌道を辿る。他の人はどうしてあんなに気持ちよく投げられるのか分からない。私は苦笑いすると「うん」とだけ答えた。その手元を見やる。
困った。体育器具庫までまだ距離はある。手持ち無沙汰が申し訳なさに拍車をかける。足元では風にあおられて砂埃が立ち上っていた。
「津山君・・・・・・確か野球部だったよね?」
「そう。今日とかすっげぇ手加減して投げてた。野球部の奴と組ましてくんなかったから」
自然と上がる顎。得意げにそう言うとカゴを持ち直した。中のグローブが合わせて跳ねる。
「やっぱり持つよ」
「いいから」
ニッと笑う。快活なその顔の向こう、あるはずのない色素の薄い髪がなびいた。
〈いいから〉
海で同じようにそう言った時、火州さんは笑ってはいなかった。むしろ怒っているのかと思うぐらいぶっきらぼうで、何も言い返せなかったのを覚えている。落ちかかる長い前髪。
再び前を向き直ると、手のひらを握る。つかむもののない心許なさ。何かを失った後は特に寒さにも似た感覚を覚える。
かすめるのは、合間に見てしまった穏やかな表情。あの時火州さんは本当にうれしそうに妹さんの事を話した。その姿はただただ無防備で、イメージのギャップに驚かされた。照れくさそうにはにかむ。その表情を思い出す度に胸の奥がチリッと痛んだ。
「どうかした?」
顔を上げる。心配そうなまなざし。体育器具庫まであと少し。
「ううん何でもない。ありがとう」
私は小走りをすると、その扉に手をかけて引く。
ギッ。
嫌な音がした。砂をかんだ扉が金切り声でわめく。心臓の表面をヤスリでこすられたようで、思わず唇をかむ。
あるはずのない色素の薄い髪。思っていたよりもずっと深いところであの人達が根付きつつあった。
三
チャイムが鳴ると同時にため息をつく。
昼休み。千嘉ちゃん達とお弁当を食べるようになったのはいいものの、全てが全て上手くいくとは限らず、想定外の問題に直面する。千嘉ちゃんが高崎先輩と付き合ってるのは知っていた。知ってはいたのだが、
「例の先輩と週どれぐらいするの?」
「んー、お互い都合あるし、二ぐらい?」
「充分でしょ。ってか大丈夫なの? 場所とかは?」
「基本向こうん家」
・・・・・・。
・・・・・・。・・・・・・。
はい(はい、草進さん)
まず何を「する」んでしょうか?
「アレん時どうするの?」
「断る」
はい(はい、草進さん)
「アレ」って何でしょうか?
そんな感じでもうご飯の味も分かんない訳で。
私はこっそり深い息を吐き、静かにご飯を口に運ぶとなんとなく微笑む。そうすることでやっとここにいることを許される。まるで人形にでもなったかのようだ。
静かにむしばまれていく体温。味のしないごはんを飲み込む。上手く飲み込めなくてお茶で流し込む。むせる。嫌だ。楽しそうな会話の邪魔になりたくない。小声で咳をする。だめだ。止まらない。どうしよう。
顔をそむけたその時だった。教室の前の廊下に見覚えのある人影を見つける。
驚きのあまり止んだ音。金縛りを使える人だ。咳を止めるなんてこの人にとったら造作もないことかもしれない。
鈴汝さんはあごで方向を指し示すと、そのままきびすを返した。あわてて千嘉ちゃんに「体調が優れない」と断りを入れると、バッグを持ってそっと席を立った。
煙った光が差し込んでいた。昼にしては穏やかな色を反射した廊下をまっすぐ進む。向かった先は生徒会室だった。「昼は誰も使わないからいいの」だそうだ。
入ると同時に錠をかけられる。え、保健室の事件は完全に過去の話ですよね。
「どこでもいいわ、座んなさい」
そう言うと奥にある横長のソファに腰掛ける。私はホッとして「はい」と答えると、壁に立てかけられているパイプ椅子を組み立てて腰を下ろした。その後鈴汝さんはバッグの中から大量のパンを取り出すと、その中の一つをとった。あれはたぶん焼きそばパンだ。
「オムソバよ」
あ、すいません。上に乗っていた黄色いはオムレツのようだ。おいしそうである。私もテーブルの上にお弁当箱を乗せると、ふたを開けた。食べかけ。手を合わせて再び口に運ぶと、久しぶりにご飯の味がした。たったそれだけのことに喉がつまる。思わず咳き込むと「落ち着きがないわね」とあきれられた。
四
食事を終えて時計を見ると十三時に差し掛かる所だった。グラウンドから男子の声が聞こえてくる。サッカーにドッジボール。いつも思うが、食べてすぐ動けるのはすごい。
「あんた、気をつけなさい。」
窓から目を戻す。優美な曲線。相変わらず作り物以上の造作をもつその人は、形のいい唇を動かした。
「水島から聞いたわ。あんたのクラスの津山って子、相当危ないらしいから」
見とれていたために反応が一瞬遅れる。言葉がいつものルートを通って入っていかない。焼けた肌と真っ白な歯。無意識にまっすぐ向けられた笑顔を守ろうとする。
「え、何のことですか? 津山君はやさしくて」
「やさしいでしょうね。ええ、あんたには」
かぶせられた言葉は、私が言ったことを包んで否定する。氷の目をした美女。その奥行きを知ってしまったが故、さらに混乱は深まる。
「いい、真琴。その津山って子、あんたのこと随分気に入ってるらしいわ。だけどいつも一緒にいる友人がいるから、近づこうにも近づけなかった」
慶子のことだ。
「だからあんたからその友人を引き剥がす必要があった。それでその子は『あんたが唯一話しをする異性である水島』に相談した。・・・・・・前に教室に鮫島先輩が行ったこともあったんですって? その時のことも、その子同じように水島に聞いてるのよ。どちらもまともに取り合わなかったみたいだけど」
ざわり、と得体の知れない何かが背中を這い上がってくる。
引き剥がす? 水島君に相談?
真っ白な歯。まっすぐ向けられた笑顔、は
「でもその子が何するにしてもあんたの友人を抱きこむ必要がある訳で、その辺あんた何か心当たりないの?」
〈真琴〉
心当たり、ないはずなかった。
〈どうしたの? 何かあったの?〉〈ちょっと、ねぇ〉
純粋に身を案じるその手を振り払った。私は慶子がいることが当たり前で、いなくなるなんて想像もしていなくて、だから
だからあんな事できたんだ。あんな事、少しでも互いの関係を疑えば出来なかった。信じ切っていたがための、甘えきっていたがための、落とし穴。
〈真琴・・・・・・〉
サインは、あった。亀裂の入る音を、あの時確かに聞いた。私が気に留めなかっただけで。軽んじたつもりはなかった。でもいつしかあの人達中心の目になっていたことは確かだった。
〈大丈夫。知り合いだよ〉
めまぐるしく変わっていく世界に足を取られて、私は何を見ていた? 私はただの高校生。それ以上でもそれ以下でもないのに。
〈私、ミヤと早苗と食べるから〉
かすめる。最後にその笑顔を見たのはいつだろう。行き場をなくした感情が喉元につまる。つまって、充満して、あふれ出す。足元に落ちた涙。その上を影が横切った。首元に巻き付く、しなやかな腕。
「・・・・・・っう」
たまらずしがみつく。次々と頬を伝う涙。制服。それは薄い生地の長袖にも落ちて。それでも鈴汝さんは何も言わなかった。ただ私が泣ききるまでそうしてくれていた。
五
昼休みが終わる頃、私は教室に戻った。そうして席につくと同時に窓際の二人と目が合う。
〈胸を張りなさい〉
鈴の音。その言葉はまるで全てを浄化するかのような、気高いお守り。
〈いい、真琴。理由はどうであれ、うつむいてしまったらそれでおしまいよ。周りはそういうものだと思ったら、傘のように覆いかぶさってくるから。だから胸を張りなさい。完璧な人間が存在しない以上、堂々とした者勝ちよ〉
安定した声色。それは実体験に基づいたものであるかようだった。
〈あんたは雑草。負けんじゃないわよ〉
そう聞いた時こそ励まされているのか分からなかったが、深呼吸をして前を向く。
夕日の赤みが後ろの黒板を染め上げる。音もなく短くなっていく日は、何故か蝉の残された時間を思い起こさせた。死に行く直前、世界はこんな色に見えるんじゃないかと勝手に想像してしまう。
今日最後の授業が終わった所だった。掃除用具を取りに行くため、ロッカーに向かう途中で声をかけられる。
「草進さん、帰り、坂コンビニの方に向かって下ってくよね? 俺も今日ツレと約束あってそっち行くから、途中まで一緒に帰らない?」
水曜。今日は部活がないため、いつも以上に教室内は騒がしい。本来外に向かって発散するべきエネルギーが大蛇のようにのたうちまわって、いつの間にか机の間を縫う鬼ごっこに変貌する。
「わぁぁぁぁ津山が草進さんと一緒に帰るってよ!」
「うるせぇよ!」
ヒューと声が上がる。獰猛な魔物がずるりずるりと動き出す。やり場のないエネルギーのはけ口。爆弾が爆発する条件は、時間が来るか、刺激を与えるかだ。
視線。逃げ場がない。これを断ったらまた
「草進さん」
その時だった。耳なじみの良い声が届く。水島君だった。
「鈴汝さんが呼んでる。ちょっといいかな?」
一瞬で張り詰める空気。けれども動じることなく近づいてくると、津山君に一声かけ「こっち」と指差した。私はそれに従う。
「ごめんね津山君」
間髪入れず「横取りー!」とはやし立てる声が上がった。ゾッとして目をそらす。振り返った先で見たものに、胸の奥がざわめいていた。不吉な予感。
その目は私ではなく水島君を見ていた。見たこともない、険しい表情。
〈気をつけなさい〉
六
「・・・・・・ごめんね、大丈夫だった?」
渡り廊下を渡って突き当たりを折れると、ようやく振り返る。
「う、うん!」
「迷惑じゃなかった?」
迷惑であるはずがない。全力で首を振る。それを見た水島君の頬がようやく緩んだ。
「よかった。余計なお世話だったらどうしようかと思った」
「う、うん。・・・・・・で、あの、鈴汝さんはどこで待って・・・・・・」
「あ、あれウソ。とっさに何言ったらいいか分からなくて」
言いながら頬をかく。何だこの王子は。一体何の詐欺だ。人を幸せにする詐欺とか、一周回ってけしからん。私を殺す気か。ありがとう!
存分に萌えた所で「い、今はどこに向かってるの?」と聞いてみる。
「図書室。草進さんはそんな気がした」
好きだ。
真顔でその横顔を見つめる。本当にどうしてくれようこの王子。私の中の全女子が一斉にはじける。目だけが冷静に仕事をして、あとはただやかましい。思い思いにはじけた声で、体内はもう黄色一色だ。
「そっか」
何とかそれだけ返すと、後に続いて階段を上る。前を行く背中は広い。まくった袖から筋張った手首が見えた。サラサラの黒髪が夕日を正しく反射する。歪んだものなど何一つない。
「鈴汝さんが心配してた。困ったことはない?」
美しいもの。
「・・・・・・うん、大丈夫」
歪んだものなど、何一つない。
〈水島から聞いたわ〉
〈鈴汝さんが心配してた〉
唇をかむ。それぞれ私を思って言っていることに違いはない。のに、二つセットになって初めて浮かび上がるもの。
「うん。鈴汝さんが、水島君が、助けてくれるから大丈夫。ありがとう」
複雑に絡み合う感情。これはまだ、名のない思い。
図書室の前で止まった足。
「・・・・・・礼を言うのは僕の方だ」
向き直る。水島君がまっすぐ私と向き合った。礼、と言われたことに思い当たらず戸惑う。
「知らなくていいんだ。でも僕は草進さんに助けられてる」
その柔らかな表情。とろけるような笑顔は、唯一真面目に仕事をこなしていた目さえ奪おうとする。え、これは何のご褒美? それとも逆? 私もしかしてこの後死ぬの?
「だから・・・・・・その、これからもよろしく」
照れくさそうにそう締めると、水島君は再び身体の向きを変えた。
「僕こっちだから。じゃあまた明日」
その背中。今私の中でまともに機能するものは何一つ残っていない。しかし
〈あたしは飛鳥様が〉
それは他力。強い、意思を持ったまなざしだけが背中を押した。私はあの人のようになりたい。それは衝動。自然と口が動く。
「み、水島君、よかったらその・・・・・・一緒に帰らない?」
〈胸を張りなさい〉
私は鈴汝さんにはなれない。なれないけれど、
遠い雑踏。分かっていた。階段を上りきって長い廊下を向いたつま先。薄く開いた窓から流れ込む風。それは私を経由して水島君の元に届く。西から東。その行き着く先は
生徒会室、だ。
耳元で脈打つ。なんだ、きちんと機能してるじゃないか。人の危機察知能力は、思っているより高いのかもしれない。あるいは女子特有の。いずれにしても
このまま帰る訳にはいかなかった。