リカ〈3月14日(月)〉
文字数 2,307文字
一
「それがホワイトデーのプレゼント? なんてねー。ん。そんな気がしてたかなー」
見た目だけ超一流の男が佇む。
力の入らない肩。猫背気味の姿勢。別れを切り出した本人は、私の返事に少なからずホッとしたようだった。部屋の入口。低い角度の夕日が部屋の奥まで照らしていた。天井の低いここでは、飛鳥がいると距離感が狂う。とにもかくにもきゅうくつ。
「十月入った位からパタッと来なくなってー、丸二ヶ月放置されたと思ったら突然来てー、ムリヤリ突っ込んで帰るなんて正気の沙汰じゃないっていうかー。いくらなんでも気づくからー」
その顔色がくもる。けれど私の知ったことではない。逃れようのない事実だった。
「大丈夫だよぉ。アタシだっておんなじだからー。ホラ実家離れて寂しかったしー、誰でもよかった割に身体の相性は悪くなかったからラッキーって思った位だしー。
でも代わりに自分がしていたことをちゃんと理解してねー。アナタが不満を吐き出すようにして抱いてた、その向こうに見てたものー」
戸惑う。突然何を言い出すのかと、その身体が強張るのが分かった。
「甘えたくても甘えられなくてー、ぶつけたくてもぶつけられない。それでもずっと求めてきたのはー」
息を吸い直す。不安が伝染してくる。わずかに残っていた情。それを振り払う。
この子のために言わなければいけないことがあった。
「アナタの母親ー」
二
衝動で動いたその大きな身体を制する。風圧で髪が揺れた。
「やめてよ。アタシに手を出した所で意味ないじゃーん? それにアスカは大事な子を置いていこうとしてる。あの、メガネの子」
完全に止まった動き。力がぶつかり合えば到底ムリなことを、その名前はやってのける。
「別に人質にするわけじゃないけどー、話は最後まで聞いてよー」
座って、と続ける。飛鳥は度を失っていた。瞳孔が開ききっている。
「でも別におかしいことじゃないよー。手に入らないものを他に求めるのは悪いことじゃないもん。さっきも言ったけど、アタシはアスカに自分でしていたことの意味をちゃんと理解して欲しいだけー。それだけだけどー、オンビンに別れるための条件でもあるのー」
『大事な子を置いていこうとしてる』と『オンビンに別れるための条件』が合わさればおのずと脅迫めいた。目の前、無言で腰を下ろす。見えない圧が渦巻いていた。
「・・・・・・分かってねー。今抱えてる怒り、アタシに向けるものじゃない。これはアスカ自身の問題。自分と向き合うことを怖がらないでー」
目線の高さが同じになる。鋭い眼光。この子に後ろ昏いところがなければ射すくめられていたかもしれない。
「今だから話せるのー。渦中だったらとてもじゃない、アナタ自分を保ってられなかったー」
顔色が悪い。それでもこのまま逃がすわけにはいかなかった。まっすぐ目を見て尋ねる。
「お家の中は何か変わったー? 最初母親にはしばらく会ってないって言ってたけどー」
「別に」
「でしょうねー」
それは質問というより確認。
「アスカがアタシと別れたいと言ったのは必要なくなったからー。他に甘えられる相手、思いを伝えたいと思える相手ができたからー。それは同時にアナタにとっての母親の大きさが変わったということでもあるのよねー。だって現状何も変わってないんだもの。アナタが勝手に許した。許せるようになった。その子によってー」
三
「十二月、理由はどうであれその子に会えなくなった」
はっとして上げた顔。どうやら当たったみたい。
「・・・・・・やっぱりー。母親のことを許せるようになったとき、その子を失った。だから一時的にパニックを起こして昔に戻った。聞いたことあるでしょー? 退行化現象。感情のやり場に困って、子供に返って母親を求めていた頃に戻った。どうでもいいって顔してるアナタが自ら行動を起こすときは決まって容赦なかったのよねー」
初めて会ったときのことを思い出す。誰も寄せ付けないほど荒れていたあの時。
赤い日がその頬を焼き始めていた。
「もしこないだみたいなことがあったとしてー、一年前だったらアタシきっと助けに行かなかった。関係が浅かったからとかじゃなくてー、アナタに対する感情がまだ対等だったから。年下でも男ノヒトだったからー。いつからか子供を見ているような気になってー、だから飛び込めたしー、自分が止めなきゃと思ったー。愛とか恋とかいうような生やさしいものじゃなかった。その時分かったのー」
まっすぐ見つめる。息を吸い直す。
「別れが来るってー。一度は戻ってきても、アナタはもう前を向いてる。きっと手に入れるってー」
赤い日が焼く。濃い影。
「ごめんねー。あのメガネの子に当たったー。でも息子をとられた母親は多かれ少なかれ抱く感情だと思うのー。アタシみたいな赤の他人にその子と築く関係はないからー、余計つらく当たっちゃったー」
呆然と見つめる目は、感情の振り方が分からず困っている。怒れないのは母親を引き合いに出したから。
「もう一人の子になだめられたわー。その子も前にアナタのことが好きだったってー。でも今は幸せだって言ってたのー。アタシとアナタ、出会う順番がアナタの方が先だっただけー。だからいつかアタシも出会うー。見た目だけじゃなくて本当にステキなヒトー」
言い終わると前髪をかき上げる。そうしてようやく微笑みかけた。
「だからアタシ達が一緒にいたことに意味はあったって、それが言いたかったー。話はこれでおしまいー」
立ち上がる。見上げた目はどこか幼く、不安げに見えた。でも独り立ちのとき。もうかばえない。これが最後の愛情。
「出てってー。二度と戻らないでー。さようなら」