上地慶子〈10月上旬某日〉

文字数 5,604文字

 



 信じられなかった。
 向かった先には、いっそ恐ろしさを覚えるほど従順な「彼女」がいた。
 ガツン! と鈍器で後頭部を殴られる心地がした。私は呆然とその場に立ち尽くす。
 ねぇ、真琴。


 一

 真琴は最近変わった。たぶん夏休みを明けた頃にはもう変わっていた。
 それはなかなか顔を合わせる機会がなかった私が気付かなかっただけかもしれない。どこか、何かに脅えながら、それでも遠い何かを見つめる。私には真琴の見つめているものが分からなかった。目の前にいるはずの私は、まるで始めから存在していないかのようだ。
 真琴は最近変わった。
「休みの間に随分焼けた? 水島君、なんか雰囲気変わったよね」
 そう言った時、真琴は肩頬に笑顔を寄せた。下がる眉。どこか困ったような様。
「ん」
 思えばあの時聞けば良かったのかもしれない。たった一言「何かあった?」と。けれども私は聞かなかったし、何故聞かなかったのかと問われれば、何かあれば自ら話してくれると思っていたからだ。何も続けない、ということは何もない、ということだった。
 教室のドアが開いた。無数の椅子を引く音。まぶしい白襟。先生もまたよく焼けていた。太陽が嫌いなくせに水泳部顧問。サングラスの日焼け跡とメガネのフレームが全くかみ合っていなくておかしい。

 誰かといる理由なんて実際たいしたことじゃない。接触頻度が人より少し多めだったからとか、たまたまグループが一緒だったからとか。それでも複数の相手と関われば、自然と心地よいと感じる相手がふるい分ける。例え相手にとっての自分とイコールでないにしろ、拒絶されない以上は傍にいられる。そういう意味では同性は楽だ。なんとなく好き、で一緒にいる理由が成り立つ。
 真琴の横顔が好きだった。頬と髪の割合とか、鼻と唇の段差とか、そういうものが私の美の基準にピタリと合った。そのくせぼーっと抜けているところがあるから油断できない。世話を焼くこと。それが主な真琴との関わり方だった気がする。一度メガネをなくして一緒に探したらメガネケースから出てきたということがあった。今思い出してみても、あれほど意味の分からない時間は他にない。
 気づくと頬が緩んでいた。仕方がない。そう言って構うことの出来る相手が真琴だった。私はそんな彼女に居心地のよさを感じていた。


  二

 最近教室が騒がしい。元は静かだったけれど、という訳ではなくて、嫌なざわめきがずっとはびこっている。隣り合うもの同士の間だけで交わされるやりとり。見れたものかは別として、きっと見る人が見れば一つの大きな絵になる。
「水島、津山兼子先パイとつながってるぜ。同じ野球部なんだ。兼子先パイって生徒会の人だろ? そこで何か流れてないか?」
「なんかスゴイね。あんなコワそうな人達と一泊してきたんだ。信じらんない」
「ね。人って見かけによらないね。ってか弟子って何? ウケるんだけど」
「あの日? 先週の水曜日なら聡さんウチ来てたよ。タバコのニオイはしなかったかな? すぐ分かるんだよね『あ、今日鮫島さんといた』って」
「ねぇ慶子、真琴ちゃんってまだ水島君のこと好きなの?」
 呼ばれて振り返る。そんなこと
「ん、」
 そんなこと、分かるはずがない。するとミヤは通りかかった寺岡さんを呼び止めた。
「真琴ちゃんって寺岡さんの彼氏さんともつながってるの?」
 短い前髪をピンで留め直す。
「別につながってるって訳じゃないと思うけど、どっちかっていうと火州さんでしょ? ここにもよく来てたし」
「彼氏さんとその火州さんって人は仲いいの?」
「いんじゃない? クラス違うのに何かと三人でいること多いみたいだし。でも最近そこに真琴ちゃんと水島君も入ったみたいね」
「入った・・・・・・ってどういうこと?」
 思わず首を突っ込むと、寺岡さんは目を丸くした。
「知らないの? 真琴ちゃんと水島君交えた四人が、みんな一方通行の片思いをしてるの」
 シラナイノ。そのクエスチョンはまるで釣り針のように喉元に引っかかった。そのせいで言っていることが上手く飲み込めない。
「片思いってことは、真琴ちゃんを好きな人もいるってこと?」
 代わりにミヤが尋ねる。真琴は水島君が好きで、水島君は別に好きな人がいて、その人は
「うん。それが火州さん。フツーに考えてあり得ないでしょ?」
 その人は「火州さん」が好きで「火州さん」は真琴が好き。
 私はたびたび現れる明るい髪色にうんざりする姿をよく見ていた。
 なにそれいみわかんんない。
「じゃあこの前ここに来た目つきの悪い人は」
「鮫島さんね。火州さんと三人でいるって言ってたもう一人」
 私は目が合うことさえなかった鋭い輪郭を思い出す。その背中は対象以外の介入を一切拒絶していた。
 寺岡さんが去った後、ミヤは背もたれに寄りかかった。
「なんか・・・・・・すごいことになってるね」
 早苗が小声で言う。元々寺岡さんが苦手らしい。
「でも真琴は火州さんのこと嫌がってたから」
「それでも一緒に海行けちゃったんだよね? それって本当に嫌だったら行けなくない?」
「それは水島君がいたからで・・・・・・」
 イマイチ自信を持てずにする発言は、根拠のない大声にかき消される。
「火州さんとの関係が変わったんじゃない?」
 出張った顎に指をそえるとミヤはうなずいた。一つのストーリーが組み上がったようだ。
「うん。その方が自然だよね。火州さんにくっついていく形で行くなら他の人達ともなじみやすいだろうし」
「水島君は・・・・・・?」
「水島君は別の人が好きなんでしょ? どうつながってるか分かんないけど、その人が他の男子と出かけるのが嫌でついてったんじゃない?」
 とってつけた感があるが、実際はそんなものなのかもしれない。聞いた本人である早苗もうなずいていた。私はふと「弟子」と呼ばれて迷わずついて行った真琴の姿を思い出す。
〈ごめんね〉
 あれは他にも何かの意味を含んでいたのだろうか。私が知らないだけで、真琴はもう知らない世界に行ってしまって、私はもう必要なくなってしまったのだろうか。
「注意したのに」
 ミヤはそう言ってあくびをした。


  三

「上地さん、」
 津山君に声をかけられたのは、その後九月も終わりに差し掛かる放課後だった。
「図書室の近くで水島が三年と話してるの見たんだけど、一時草進さんの所によく来てた顔だったから・・・・・・その辺どういう関係か知らない?」
 ひそめた声。丁度教室を横切った先に水島君がいた。
「・・・・・・知らない。直接本人に聞けば?」
「いや、聞いても『別に』としか言わねぇんだ」
 津山君は舌打ちすると、頭をかいた。本人が口を割らない以上、例え知っていたとしても言わないのが礼儀だろう。「そうなんだ」と立ち上がる。
「あ、上地さん、それと一つ頼みがあるんだ」
 それは私に真琴の傍を離れて欲しいというものだった。私は冷めた目でその白い歯を見つめる。コソコソかぎ回る姿からとても野球部のまっすぐな青年像は描けない。ため息一つ、うなずいた。丁度いい機会だ。そうして真琴は私の存在を知ったらいい。
〈慶子〉
 ねぇ、真琴。
 元に戻って。また前のように。

 本当にあの火州先輩と真琴の間に何かあるのかなんて半信半疑だったけれど、その後うわさは尾ひれをつけて勝手に独り歩きを始めた。それは本人に気づかれることなく、静かに静かに染みわたっていく。
「草進さん、あの前よくここに来ていた人と付き合ってるらしいよ。何でも二人で海に行って一泊してきたとか」
 時にうわさの内容がかなり飛躍して再度耳に入ることもあったが、他の誰かが別のパーツを持っていたのかもしれないと思うことにした。ちなみに「二人で」は寺岡さんの情報を元にするなら、完全な誤報だ。
 そっとその様子をうかがう。真琴は体育で使った道具を片付けようとしていた。一瞬手伝おうかとも考えたが、すぐに津山君がその助けに入った。
 ツキン、と胸が痛む。別に私である必要はない。真琴の周りにはきっと手助けをしてくれる人がいる。
 その姿に背を向けると、教室に向かって歩き始めた。何不自由することはない。私には友達がいる。私が構ってあげているだけなのに、真琴自身はどこ吹く風だ。
 何で。何で。
 津山君が離れたら水島君がその手伝いに入る。まるで私なんて元々必要なかったかのようだ。私の中に開いた穴はまるでふさがらないのに。どんどん深くなっていく。そうしてそれは暗く、良くないものを宿す。


  四

「上地ー」
 情けない声がして振り向くと、袖のボタンを留めていないシャツが見えた。
 職員室のドアを出た所。踊り場からの光がまっすぐ横切っていて、目を細めた時のことだった。
「助けてー」
 お役所感の抜けない古めの体質。その象徴でもあるかのような分厚い冊子を両手で抱えたままドアをくぐる谷浦先生。私はそれを見届けてドアを閉めた。鼻先をかすめるコーヒーのにおい。あごひげが一番上にある本の表紙をこすった。
「これ、書庫に保管なんだ」
「え、助けてってドアの開閉のことじゃ・・・・・・って重っ!」
 持っていた冊子を全て渡されてよろめく。というかこんな量、私の身長では視界が完全に封鎖されてしまう。先生は急いで背中をかくと、ホッとした顔で「ありがと」と半分持った。
「・・・・・・え?」
「ん? だからありがとねって。もうこれ運んでる途中で背中かゆくなっちゃってあせったわー。うわぁぁぁぁかゆいつらい地獄ぅぅぅぅって。そんなタイミングで丁度上地が現れたから」
 ちゃっかり現れたのは先生のほうだ。
「いや、残り半分は・・・・・・」
「ついでだから持ってって。言ったでしょ? これ書庫保管なの」
 メガネに沿った日焼け跡。短い前髪の下で人なつっこい眉が動いた。
「お願い」

 真琴自身、進んで火州さんとの関係を望んでいるとは思えない。思えないけれど、影響を受けるのは分かる気がした。強制的に引き上げられる目線。見上げて、それを継続する時、元に戻した目は、同じものを同じように見ない。「その人」と同性であるからこそ余計に際立つ優劣。本来横並びであるはずの異性が幼く見えるようになる。真琴が好きなのが変わらず水島君である以上、共有することのない思いだけれど。
 書庫の机におろすと、ホコリが舞った。
「ありがとう」
 それはホコリであるにも関わらず、薄明かりを浴びてキラキラした。本当は自分でやらなければいけない事を頼む。頼る。頼るのは基本心を許した相手。もしくは誰であっても手伝ってもらえるを分かっているが故の甘え。違いは特異性の有無。私は
 笑った拍子にずれたメガネ。その日焼けの跡をなでたいと思う。


 五

 それは嫌に風がぬるく、湿度の高い日だった。
 十月頭。水島君と津山君が取っ組み合いになったあの日、廊下の窓越しにその明るい髪色を見た。その目がふっと私を捉える。瞬間、自分のこめかみが引きつるのを感じた。その姿は水島君とともに消える。
 そうして水島君が教室に戻ってきたのは、四限が始まった時だった。その表情から真琴の容態は読み取れない。私は授業が終わると同時に、その様子だけでも見ようと席を立った。
 しかし向かった先には、いっそ恐ろしさを覚えるほど従順な「彼女」がいた。
「分かりました。この場合、火州さんに赦してもらえるように努力するべきなんですよね」
 ガラス扉をはさんで、その声はくぐもって届く。思わず息をひそめた。
 火州先輩自身も戸惑っていることが、空気を介して伝わる。
「どうしたら赦していただけますか? そのためになら何でもいたしますので、どうぞおっしゃって下さい」
 ガツン! と鈍器で後頭部を殴られる心地がした。呆然とその場に立ち尽くす。
 真琴はとっくに水島君をあきらめていた。
〈ち、違うの! 水島君が好きなのはあたしじゃなくて……〉
 一時間前に聞いたセリフを思い返す。真琴はもう、全部知った上で火州先輩を選んでいた。
 力が入らない。焦点が合わない。
〈水島君男らしくなったよね〉
 バカみたい。一人で空回っちゃって。
 遠い世界。離れていこうとするその腕を、つかんだ私が間違っていたの?
 左手にある窓から流れ込む風。その時ガラス扉を挟んで向こう側に人影が現れた。

 目が合う。私はさりげなくまわれ右をすると歩き始めた。ところが急に手首をつかまれて、驚いて振り返る。足音はしなかった。
「何か見たか?」
 鋭い目。それは真琴が師匠と呼んでいた人だった。真琴とも火州先輩とも関係している人。
 ゾッとする。
「何も」
 つかまれたままの手首。私が答える前に歩き出すと、その人は廊下を折れた所でようやく立ち止まった。私の顔の両側にその手をつく。
「・・・・・・何も、見ていないんだな?」
 低い声。これは確認ではない。たとえ何かを見ていたとしても、見ていなかったことにしろという脅しだ。
 つまり、決定権は自分にある。感情の優劣に余裕を見いだし、問う。
「・・・・・・いつからですか? いつから真琴はあの人と・・・・・・」
「違う。あいつらは何もねぇよ」
「でも・・・・・・火州先輩は真琴のこと・・・・・・」
 舌打ち。その人は壁から手を離すと、頭をかいた。
「あーもう。どうでもいいだろそんなこと。変な詮索とかすんな」
 拒絶。思わず声が出た。
「真琴を・・・・・・返して」
 そのまま立ち去ろうしていたその足が止まる。震える膝。奥歯を噛みしめて踏ん張る。私は間違ったことは言ってない。
 薄い身体が再び向き直る。
「変な話じゃねぇ? 返すも返さないもねぇだろ。どこにいるかは本人の自由だ」
  そうして右に偏った笑みを浮かべる。
「欲しかったら自分の力で手に入れたら?」
 その後その人は曲がり角の向こう側に消えて行った。
 東側の、ちょうど日の当たらない廊下。抜ける風は普段より冷ややか。
 チャイムが鳴った。






ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

草進真琴(そうしんまこと)

高一女子。モットーは「私はただの高校生。それ以上でもそれ以下でもない」

6月10日生まれ、A型。


作画、いく。

火州飛鳥(ひしゅうあすか)

女嫌いの高三。美形。

9月2日生まれ、B型。


作画、いく。

鈴汝雅(すずなみやび)

男嫌いの高二。美人。

3月3日生まれ、O型。


作画、いく。

水島聖(みずしまひじり)

病んだ高一。思い込みが激しい。

6月27日生まれ、A型。


作画、いく。

鮫島勤(さめじまつとむ)

高三。飛鳥の友人。

2月2日生まれ、AB型。


作画、いく。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み