真琴17〈2月10日(木)〉
文字数 6,979文字
一
「二人とも悪い人じゃないの」
無風。材質は違えど四方を囲われたここは、明度の高い光も手伝ってほんのり暖かい。
保健室前ガラス扉の外、ここは以前火州さんと話した場所でもある。同じ高さの石段に腰掛ける慶子は「見えるところ全部嫌な所なんて人いないよ」と返した。
体育館に続く渡り廊下から足音がする。部室と体育館の間にある、プールサイドでも使われるプラスチック製の板。それ自体軽量のため、正確に言うと足音ではなく「体重がかかったことできちんと地面と接触した板が音を立てた」どちらにせよ冷たく乾いた音。
「師匠のおかげで水島君のこと心の整理ができそうだし、火州さんはちゃんとお兄ちゃんしてる」
「ふーん。で? 二人とも真琴のことが好きなの?」
「それはない・・・・・・と思うけど」
押し黙る。クラスを離れたここなら何を言っても平気だった。それでも出すのをためらう思いがある。自分でもまだよく分かっていない。
「・・・・・・真琴はどうなの? 水島君のこと飲み込めるまで、気持ち的に寄りかかってた部分はないの?」
どっちかに、と言われたとき指先が跳ねた。慌てて髪を触る。
「師匠は・・・・・・不器用。危なっかしくてほっとけない」
「じゃあ」
「でも」
言葉を待たずに続けたのは、それだけの力を秘めているから。避けては通れない。
「でも、怖いくらいにドキドキするのは火州さん」
何かを言いかけた慶子が口をつぐむ。後ろめたくて自分の手元を見つめていたが、その表情は予想できた。
迷い、不安。その根本を尋ねる。
「ねぇ慶子。恋って何? 何が正しくて、何を基準に一緒にいる人を決めるの?」
時刻は十二時五十五分。話をするために早めに昼食を済ませたことが機能している。まだ不安のど真ん中にいても許された。
「水島君の時は迷わなかったじゃん」
「・・・・・・ね。何でだろうね」
ゆっくり息を吐く音がした。膝についた両肘。足元の影が身じろぎする。
「自分で全部決められたからじゃない? 相手からの働きかけがなかった分、思う存分美化して理想の恋ができた」
「だからかぁ」
二人同時に振り返る。声の主は私でも慶子でもなかった。ガラス扉をうっすら開けて顔を覗かせているのは千嘉ちゃん。
「聞いてたの?」
「やめてよ人聞き悪い。さっき部室行って、たまたま今日の練習時間の変更聞いたから伝えようとして来たんじゃない。後で一斉送信あると思うけど」
高鳴る心臓はまるで小動物。もっとも聞かれたくない相手だった。
「だからそんな警戒しないでよ。たった今来たばっかだってば。良かったんじゃないの? 理想の恋ってやつができて」
反射的に言い返そうとするが、すんでで留まる。その目は思いがけずうつろ。
「・・・・・・他力って怖いよね。自分の力ではどうにもできないし、思いも寄らない動きをされると身動きとれなくなるっていうか。ただの防衛本能だと思うんだけど」
その目はどこか冷めている。
「でも少なくとも自分が行きたい方に行けるなんて、それだけで幸せじゃなくて?」
「千嘉ちゃんは・・・・・・違うの?」
「だから怖いって言ってるじゃん」
師匠に袖にされて以降消えた愛想。ひんやりとした言葉尻は、どこへ導こうとしているのか分からない。聞こうとしたことと返ってきた答えはかみ合っていなかった。
「ほんと、真琴ちゃんはいいよねぇ。何の苦労もせず全部手に入れて。うらやましい」
「何なの。もう用は済んだんでしょ? 教室戻んなよ」
慶子の声を片耳で受け止めながらも、そらさない目。その奥にあるはずの「何らかの苦労」が何なのか私には分からない。
「ひるむくらいならやめたら? 恥をしのんでも捨て身でもそれを欲しがる人はたくさんいるんだから。邪魔だよ」
じゃ、と言い残すと千嘉ちゃんはガラス扉を閉めた。その背中をにらみ続けていた慶子がようやく目を戻す。
「気にしなくていいよ。関係ない。前に真琴『間違ってなんかない』って言ってくれたよね。そのまま返すよ。何選んだって間違ってなんかない。大事なのは自分にとってのその人の大きさで、いなくなったら寂しいと思うかどうかじゃないかな」
私もよくわかんないけど、と続けると「戻ろう」と言った。
チャイムが鳴る。午後の授業開始五分前。それに会わせて腰を上げる。
うるさいのは心臓。落ち着きなく暴れる、それは動揺。進む方向さえ決まれば、安定を手にすれば収まる。逆を言えば現段階では必死に落としどころを探っている状態と言える。
〈自分が行きたい方に行けるなんて、それだけで幸せじゃなくて?〉
〈ひるむくらいならやめたら?〉
浮かぶ背中。
〈もうお前のキモチどうこうの次元じゃねんだ〉
二
普段早く終わって欲しい練習も、時間短縮で半分ともなるとさすがに物足りなさを感じた。次の大会は四月。テスト明けから元のメニューに戻す予定だ。この時期勉学も大事ということで、終了時間は十七時半が基本だが、今日は急遽顧問の出張が入ったため、十七時十五分までになる。最も怖いのは責任者不在時の怪我。だから練習内容も筋トレメインだった。
着替えを済ませて部室を出る。時刻は十七時半。体育館と部室の間を抜けると携帯を開く。立った今日没を迎えた所だった。わずかに暖色を残した濃紺の空にまたたく星。ディスプレイの明かりとのコントラストに目が痛い。発信ボタンを押す。
コール二。出かけた日と何ら変わらず、まだこの小さい端末越しの声に慣れない。
〈どこにいる〉
内容は至ってシンプル。全てはその先に詰まっている。喉元で音を立てる心臓。
まだ戻れる。まだ戻れる。
干上がる。苦しい。指先がおかしい程震えている。絞り出す。
「格技場の前です」
千嘉ちゃんを含む、部活のメンバーの帰りを見届けた後だった。
見通しの良い北校舎に沿って現れた背丈のある身体。シルエットだけで火州さんだと分かった。直後、急に時間の流れが遅くなる。たまらず携帯に目を落とした。
うるさい。自分がうるさい。
足音が聞こえる距離。携帯をいじる指も目も全く機能しない。足音が近づく。気配を感じる。影があれば足元に落ちる距離。
「おい」
強張る。ダメだ。やっぱり苦しい。おそるおそる顔を上げると、声をかけた本人はこっちを見てはいなかった。
「・・・・・・」
口元を抑えたまま、あさっての方向を向いている。呼びかけ自体「よう」とか「待たせたな」といった類いのものだったらしく、どうりで言葉が続くと思い込んで待っている私とはかみ合わない訳だ。その後、火州さんは荒々しくベンチに腰掛けると時計を確認した。
「三十分だ」
うなずく。
〈少しでいい。時間をとれないか〉
昼休みの着信は火州さんだった。午後イチの授業終了後かけ直すとそう言われた。特に今日と指定された訳ではないのにこの時間にしたのは、単に早めに済ませた方が無難だと思ったためだ。明日は祝日。止められているとはいえ、その翌日土曜の昼は師匠が現れる可能性が高いし、だからといって午前中で終わりの火州さんを午後一杯待たせるのは忍びない。加えてその翌日は日曜をはさむ。大した用でなかった場合、及び急用だった場合、どっちにしてもあまりよろしくない。そもそも向こうの都合だってあるのだ。それに
「悪かったな呼び出して」
隣に並べば少しだけ威圧感が和らいだ「いえ、」と応える。
相変わらず荒削りで彫りの深い横顔。今見ている空と同じ色のダウンジャケット。
スカートの裾を握る。
それに、たぶん火州さんは待ってしまうと思う。大した用でなくても急用であっても、私の側に不都合がない限り望んだ日程に合わせる気がした。
ベンチが揺れる。その身体が突然動いた。上着のポケットに突っ込んだ手。
〈思いも寄らない動きをされると身動きとれなくなるっていうか〉
ドッ、ドッ、ドッ、ドッ。
自分に対する動きでないにも関わらずこれだけ動揺するのだから、なるほど、千嘉ちゃんであっても「怖い」と称するのはごく自然なことに思えた。
「これ」
次の瞬間、目の前に差し出されたのは携帯。その画面には鈴汝さんと私のツーショットが映っている。半身を向けたまま不意打ちで撮られた鈴汝さんに比べ、私はしっかり両手でピースしている。明るい日中は一日目。まだちゃんと帽子をかぶっている時のものだ。
「何で火州さんが・・・・・・」
「鮫島から送られて来た」
なるほど。ご丁寧にアルバムにして高崎先輩にも同じものを送っていたという。そうすることで「楽しかったんだからね」と遠回しに後悔させようとしてる。大切な友人二人に構って欲しくて仕方がない。自然とゆるむ頬。
その後、視線を感じて顔を上げると、火州さんはなんとも言えない複雑な表情をしていた。
「これが・・・・・・何か?」
その頭をかく。背もたれに預ける体重の比率が増える。浅く腰掛けるように前に滑ると、私に携帯を預けたまま腕組みをした。口元を覆った手。
「・・・・・・」
嫌な予感がした。これは分かってて撮られたものだが、もしかして知らずに撮られているものもあるのではないだろうか。その中に映ってはいけないものが映っていたとか。
背筋が冷たくなる。今さら汗が冷えるようだった。
三
「・・・・・・楓が」
「え?」
咳払い一つ、言い直す。
「楓が『ヤドカリの中ってどうなってんだろ』って」
口ごもるようにして話す。火州さんは再度頭をかくと、どこかを向いたまま続ける。
「いや、それ見ながらだったから急にどうしたと思ったら、何のことない。お前のことを言ってたんだな」
何のことか分からない。まじまじとその横顔を見つめる。火州さんは視線に気づいて、画面を指先で叩いた。それは帽子。あの時なくしてしまった
「ああ!」
合点する。そういうことか。
収納するためにお団子にして帽子に詰めた髪。顔の横でしていたピース。楓君はその姿をヤドカリに見立てたのだ。
〈ほら!〉
タッチプール。水場で彼が手にしていたのはヤドカリだった。思わず笑ってしまう。
「確かに気になりますね」
アメフラシを一生懸命調べていた子だ。少し勇気の要る「ヤド」の中身くらい何のためらいもなく探すだろう。そうして本物はもう知っているに違いない。
私は手首につけていたヘアゴムをとると、口にくわえた。片手でバッグをあさって、もう片手で髪を一方にまとめる。プラスチックのケース。片手で開けると、膝の上にピンをまく。その後、両手で髪をつかんで根元をゴムで縛ると、そこを基点に巻き付ける。一カ所、反対側から一カ所、もう一カ所、最後に対角線上に。
「はい」
出来上がって振り返る。火州さんは目をまん丸にしていた。膝に置いていた携帯を返す。そうしてピースしてみせる。
「え」
「見られたら恥ずかしいじゃないですか。早めにお願いします」
まだ何のことか分からないらしい。
「『ヤドカリの中』の答えです。楓君知りたがってるんでしょう?」
我ながら大胆なことをしたと思ったのは髪をほどいてからだった。楓君のためとはいえ、時間差で羞恥心に襲われる。
「いえ、違うんです。あの、決して撮られるの得意なタイプではないんですけど」
まごつくと火州さんは「ふっ」と声に出して笑った。笑いながら携帯を操作する。
「忙しいな、お前」
言いながら差し出された画面。そこに映っていたのは
「何ですかコレ!」
雪山。おそらくすごい勢いで転んだのだろう、坂の途中で半分以上雪に埋もれた水島君の姿だった。片足のスキー板がない。手前に転がっているのはストックだ。向こうにもある。
「アルバムに入ってた。これだけ三枚」
全十八枚中、頭から三枚目、十四枚目、ラスト一枚。入れ方も巧妙。もはや悪意でしかない。絶妙なタイミングで腹筋を刺激してくる。
「ひどい師匠」
申し訳ないけど笑いが止まらない。一度見たら忘れられない一枚は、既に今後笑ってはいけない場面でこそ力を発揮しそうな予感がしている。
おさまったと思ってからのぶり返しを何度か経由してようやく落ち着き、
「火州さんは」
顔を上げると、思いがけないまっすぐな視線とぶつかった。いつの間にか生じていた温度差に強張る。緊張感を思い出す。
「何だ」
「いえ」
「涼しい」風が流れた。冷えたはずの汗を、いつしか冷たいと感じなくなっていた。
火州さんは続く言葉を待っていた。深く腰掛けたベンチ。両肘を膝につく。口元にあったはずの手が外れていた。
「火州さんも行きたかったかな、と思いまして。受験でそれどころじゃなかったのを知ってますけど、きっと師匠も」
「ああ」
食い気味の相づちにつんのめる。
〈・・・・・・他力って怖いよね〉
本当にそう思う。これだから嫌だ。うまく話せなくなる。息苦しさが戻ってくる。
笑わない。その表情は、至って真剣。
「行けばよかったと思った」
四
電灯は白。校門と校舎脇、そして渡り廊下に一つ。日が沈んでからのグラデーションは最低限の色彩で足りる。決して明るくない手元。白を反射する両の目が静かな光をたたえる。
息をのんだ。デジャヴ。この「絵」に見覚えがある。
それは海に行った日の夜のこと。静かな空間、わずかな光源。あの日もまた、同じような目をしていた。不純物の一切を払ったようなひたむきな姿勢。足元が浮き立つ。
浮き立つ。
〈手、貸せ〉
〈今日、お前がいてよかった〉
目を、そらせない。熱い。汗が引かない。
のどが鳴った、その時だった。
「あれ? 火州どしたの?」
身体が浮いた。聞き慣れた声。軽めの口調。
「あれ、弟子も。どしたの?」
渡り廊下伝いに歩いて来たのは師匠だった。その目が細まる。見ているのは火州さん。
「ええ? これはどういうコトかな? 確か週一以上の接触は御法度だと思うんだけど」
空気がヒリつく。師匠は火州さんの前まで来ると足を止めた。
「・・・・・・お前こそ何でまだいるんだよ」
「俺は今日ひじきくんが泊まりに来るからお迎え。そろそろ部活終わると思うんだよね」
携帯を見る。十八時三分だった。
「俺は答えたよ。で、何で隠れて会ってんの? 俺そういうの好きじゃない」
火州さんと目を合わせたまま私の手首をつかむ。骨張った細腕。思いがけない強い力で引かれる。
「よく考えるんだね。お前が俺と同じことしたら間違いなくコイツはおびえる。ある程度のワガママが通じるってのはお前にはない関係だよ。俺を怒らせないでね」
そう言うと、そのまま私の手を引いて歩き始める。進む先は駐輪場。大きな影が横切る。師匠の足が止まった。
「・・・・・・水島はいいのか。迎えがあるんだろ」
「いいよぅ。アイツ野郎だもん。ちょっと待たせた所で大勢に影響はない。そんなコトよりコイツ送ってく。目には目をだよ。文句はないよね」
険しい表情。うなずきはしない。無言のやりとり。
ため息一つ、師匠はその胸をわざと突き飛ばした。明らかに怒っている。捕まれている手首が痛い。それだけ、傷ついていた。その声は今にも泣き出しそうに聞こえた。
「どけ」
五
「師匠」
この背中を何度追いかけただろう。つんのめるようにして歩を進めると、声を張る。
「師匠、来週末練習試合がある関係で、今日バスケ部終わるの十八時半です」
「知ってるよ」
ヘルメットをつけながら原付にまたがる。うなるエンジン。度重なる最大積載量オーバーの暴挙に、いい加減ストライキを起こされてもおかしくない。再び時間を確認する。十八時八分だった。そうか。
「バスケ、見たかったんですね」
固い毛質の髪がなびく。無回答は肯定だった。坂を下りきった所でト、ト、トと緩めるスピード。止まったのは以前と同じ小さい橋の前。そうしてやっぱり同じように振り返る。
「師匠、今日火州さんが会いに来たのは、楓くんが言っていたことを伝えるためです」
見上げる目は険しい。殺気。すさまじいまでの緊張感。これはいけないと思った。
「だから断りを入れる必要を感じなかったんだと思います。決して師匠を軽んじた訳じゃ」
「おりて」
息をのむ。師匠は早く、と続けて私をその場に下ろすと、勢いよく原付をUターンさせた。身軽になったエンジンは本来の力を発揮して心臓破りの坂を駆け上がる。血の気が引いた。嫌な予感しかしない。
さっき感じた殺気。その逆鱗に触れてしまったのか、下手したら修復不可能なレベルのケンカが繰り広げられる可能性があった。そうして後々傷つくのは、間違いなく師匠自身だ。すぐさま携帯をいじると『いざという時』用の送信画面に切り替えて坂を駆け上がる。
〈ホント、世話焼ける〉
浮かんだのは、困ったように下がる眉。急ぐ。お願い。間に合って。
しかし坂を上り終えた先で見た光景は、私の想像していたものと全く違った。動くのは八人。黒服の男性の集団と今の今まで一緒にいた二人。
「火州さん! 師匠!」
振り返る二人の顔が強張る。
「っバカ! 来るんじゃねぇ!」
ゴッ。
鈍い音がした。倒れたのは背の高い
「火州さん!」
「チッ!」
師匠は火州さんを背後から打った男に飛びかかるが、残る四人に取り押さえられた。
四人?
「逃げろ!」
すくんだ足。気づくと目の前に一人の男が立っていた。
〈ノーヘル〉
それはあの時の男性だった。次の瞬間、意識が飛ぶ。
どこか遠くの方で師匠の呼ぶ声が聞こえた気がした。