第162話

文字数 3,682文字

 バニラが、私を抱えて、歩き出した…

 「…バ…バカ、バニラ…降ろせ!…降ろせ!…」

 私は、手足をバタつかせて、叫んだ…

 「…私は、子供じゃないんだ…降ろせ!…」

 私は、バニラに担がれながら、必死になって、手足をバタつかせて、抵抗した…

 まるで、3歳の幼児だった…

 お子様も、いいところだった…

 すると、バニラが、

 「…わかった…わかったから、暴れないで…」

 と、苦笑いをした…

 21歳のバニラが、この35歳の矢田を抱え、まるで、自分の娘のように、扱う…

 わけが、わからんかった…

 これでは、逆…

 逆だ…

 「…私は、オマエの娘でも、なんでも、ないさ…」

 バニラが、私を抱えて、歩くのを、止めて、私を、地上に、降ろしてから、言った…

 「…マリアじゃ、ないんだ…」

 私は、言った…

 すると、だ…

 バニラが、まるで、雷に打たれたように、表情が、変わった…

 途端に、

 「…スイマセン…」

 と、塩らしく、私に詫びた…

 「…本当に、スイマセン…」

 バニラが、神妙な表情で、続けた…

 私は、今さらながら、このバニラにとって、娘のマリアが、ウィークポイントだと、気付いた…

 このバカ、バニラも、また母親…

 娘のマリアを目に入れても、痛くないほど、溺愛している…

 あらためて、それに、気付いたのだ…

 「…わかれば、いいのさ…」

 私は、言った…

 バニラは、バカだが、娘のマリアを思う、こんな姿を見ると、これ以上、なにも、言えんかった…

 言えんかったのだ…

 すると、

 「…二人とも、なにを、グズグズしているの? …」

 と、再び、リンダが、声をかけた…

 「…早くしないと、パーティーが、始まっちゃうよ…」

 リンダが、焦った表情で言う…

 私は、そんなリンダの表情を見て、まるで、自分の死期が迫った気分になった…

 この矢田トモコの死期が迫った気分になった…

 もちろん、私が死ぬわけではない…

 ただ、葉尊の妻としての、私…

 クールCEО夫人としての、私の死だ…

 残るは、後、数時間で、この矢田トモコの葉尊の妻としての、時間は、終わる…

 明日からは、無職…

 ただのプータローだ…

 私は、それを、思った…

 実を言えば、今も、無職であることには、変わりはない…

 ただ、何度も言うように、今現在は、葉尊の夫人…

 クールCEОの夫人だ…

 が、

 数時間後には、それも、解消…

 ただのプーになる…

 ただのプー=無職になる…

 それを、思えば、まさに、人の世は、無常…

 人の世は、無常だ(涙)…

 思わず、涙が、出かけるほど、無常だった…

 が、

 この矢田トモコ、35歳…

 その無常に、耐えねば、ならん…

 その無常に、負けては、ならん…

 明日からは、早速、仕事を探そう…

 再び、あの三輪車に、跨(またが)り、颯爽と、ピザや、寿司を配達しようと、思った…

 思ったのだ…

 が、

 そんなことを、思いながらも、

 「…さあ、お姉さん…早く…」

 と、180㎝と、大柄なバニラに手を引きずられ、159㎝の私は、ホテルの中に、半ば、強引に、連れて行かれた…

 なにしろ、これほどの体格差だ…

 抵抗することなど、できんかった…

 私は、バニラの言われるまま…いっしょに走った…

 半ば、駆け足で、走った…

 いや、

 バニラだけではない…

 リンダも、だった…

 つまりは、私と、バニラ、リンダの3人が、帝国ホテルを疾走していた…

 そして、それは、ある意味、見物だった…

 超ミニのワンピースを着たリンダが、走った姿を見て、リンダの正体に、気付いた、帝国ホテルに、その場にいた客たちが、大勢、ざわめき出した…

 「…も、もしかして、リンダ? …リンダ・ヘイワース?…」

 とか、

 「…ウソォ?…」

 と、叫ぶ声が、あちらこちらから、聞こえてきた…

 バニラは、私同様の目立たぬ、私服だったが、サングラスも、かけずに、素顔を晒していた…

 だがら、バニラに、気付いた人たちも、いた…

 「…アレって、もしかして、バニラ・ルインスキーじゃない?…」

 とか、

 「…やっぱり、キレイ…」

 とか、

 言う声が、あちこちから、聞こえた…

 が、

 誰も、私に言及しなかった…

 なぜか、誰も、私に言及しなかった(涙)…

 これは、ある意味、恐ろしいことだった…

 なぜか、わからんが、誰も、私に言及しなかった(激怒)…

 いや、

 よく耳を澄ませて、いると、

 「…アレは、誰だろ?…」

 とか、

 言う声が、聞こえた…

 そして、その後に、皆、一様に、首をひねった…

 きっと、私が、誰だか、わからないに、違いなかった…

 だから、ホントは、私は、胸を張って、

 「…クールCEОの夫人の矢田トモコさ…」

 と、言って、やりたかった…

 なぜなら、明日になれば、もう言えないからだ(涙)…

 なぜなら、明日になれば、

 「…元クールCEОの夫人の矢田トモコさ…」

 と、元の文字が、入る…

 元=すでに過去形だ…

 それは、以前、ミス日本になったとか、いうのと、同じ…

 同じだ…

 いや、

 違う…

 ミス日本は、チャンピオンのようなもの…

 大勢の応募者の中から、選ばれた人間…

 片や、元クールCEОの夫人という肩書は、離婚されたということ…

 離婚されたから、元クールCEОの夫人なのだ…

 あらためて、それが、わかった…

 あらためて、それが、理解できた…

 そして、それを、思うと、惨めだった…

 惨め=敗北者だった(涙)…

 やはり、明日からは、ずっと、誰の目にも、当たらない、日陰者の人生を歩んで生きて、行くのかと、思った…

 これまで、日の当たる人生とまでは、言わんが、平々凡々とした人生を歩んで、生きてきた…

 が、

 それも、今日まで…

 それも、数時間後まで、だ…

 あとは、ただ惨めな敗北者としての人生が、待っている…

 それに気付いた私は、明日からの仕事探しは、在宅で、誰にも、会わない仕事を探そうと、思った…

 実家のパソコンで、やる仕事を、探そうと、思った…

 そうすれば、誰にも、会わず、仕事ができる…

 敗北者の私に、ふさわしい人生かも、しれん…

 これまでの35年とは、違う人生を歩むかも、しれん…

 これまでは、ひなたを歩む人生だったが、これからは、一転して、日陰者…

 人知れず、世間様に背を向けて、生きて行くことになるかもしれん…

 それを、思うと、ふと、私の細い目から、一筋の涙が、流れた…

 鬼も目にも、涙と言うヤツだ…

 すると、それに、気付いたバニラが、

 「…お姉さん…ごめんなさい…」

 と、いきなり、言って、速度を緩めた…

 「…お姉さん…足が短いから、私に合わせて、走るのは、大変だったでしょ?…」

 バニラが、真顔で、言った…

 心配そうに、言った…

 私は、頭に来たが、このバニラが、本当に、私のことを、心配して言っているものだから、なんと言っていいか、わからんかった…

 ホントは、

 「…ふざけたことを、言うんじゃないさ…」

 と、怒るところだが、それも、できんかった…

 だから、

 「…大丈夫さ…」

 と、言った…

 「…たいしたことじゃ、ないさ…」

 と、言った…

 「…でも、お姉さん…涙が?…」

 「…これは、ついな…」

 「…つい、なに?…」

 バニラが、真顔で、聞くものだから、

 「…オマエと会うのも、これが、最後だと思ってな…」

 と、言ってやった…

 「…エッ? …どうして、最後なの?…」

 「…それはな…」

 私が、言いかけると、リンダが、

 「…二人とも、グズグズしないで…時間がないの…」

 と、鬼気迫った表情で、言った…

 「…ごめん…リンダ…」

 バニラが、謝った…

 「…さあ、お姉さん…申し訳ないけど、走って…あと少しだから…」

 バニラが、言った…

 私は、そんなバニラを見て、

 「…わかったさ…」

 という以外の言葉は、見つからんかった…

 なにしろ、これが、最後…

 このバニラと、付き合うのも、最後だ…

 だから、これが、最後だから、このバニラとも、付き合って、やろうと、思った…

 「…さあ、行くぞ…」

 私は、元気よく、言った…

 「…走るゾ…」

 「…ハイ…」

 バニラが、私に呼応した…

 なぜか、対して、素直だった…

 やはり、このバニラも、わかっているのだろうと、思った…

 これが、最後だと、わかっているのだろうと、思った…

 このバカ、バニラとも、短い付き合いだったが、ハッキリ言って、濃密な付き合いだった…

 いや、

 濃密どころではない!

 濃密過ぎる付き合いだった!…

 思い出したくもない、濃密過ぎる付き合いだった!…

 が、

 それも、今、終わる…

 終了する…

 それを、思えば、今、このバニラや、リンダとも、帝国ホテルの中を、全力で、走り回ることも、思い出に変わる…

 私の中で、美しい思い出に、変わると、思った…

 いや、

 美しくはない!…

 断じて、美しくはないのだ!…

 疲れるだけだ…

 ただ、かったるいだけだった…

 私は、そんなことを、考えながらも、全力で、帝国ホテルの中を、走った…

 走ったのだ…

 そんな私たち3人の姿を見て、帝国ホテルの関係者に、叱られないのが、不思議だった…

 実に、不思議だった…

               
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