第129話

文字数 4,857文字

 「…では、お姉さん…お願いします…」

 葉敬の言葉で、私は、現実に、引き戻された…

 「…わかりました…」

 私は、なぜか、葉敬の顔ではなく、木原の顔を見て、答えていた…

 心の中で、

 …この女、今に見ていろ!…

 この一件が、終わったら、絶対、この女を、どこかの交番に、左遷させてやる!…

 交番勤務に左遷させて、チャリンコに、乗ることから、やり直させてやる…

 私は、そう固く、心に誓った…

 すると、なぜか、その決意が、好作用したというか…

 これから、ファラドに会うというのに、まったく、緊張しなかった…

 本当に、まったく、緊張しなかった…

 これには、自分でも、驚いた…

 頭の中が、ファラドではなく、この木原で、いっぱいになった…

 だから、ホントは、ファラドのことを、考えなければ、いけないのにも、かかわらず、木原憎しで、木原のことで、頭の中が、いっぱいになったので、ファラドのことを、考える余裕が、なくなったのだ…

 これが、幸いした…

 だから、ちっとも、怖くなかった…

 これから、ファラドと、会うのが、怖くなかった…

 そういうことだ(笑)…

 「…では、お願いします…」

 気が付くと、大滝が、言った…

 この男、まだ、いたのか? と、思った…

 すでに、私の眼中になかった…

 だから、すっかり、その存在を忘れていた…

 そういうことだった(笑)…

 だから、この大滝には、一瞥しただけで、私は、歩き出した…

 この矢田トモコ、35歳…

 すでに、何者も恐れない女だった…

 昔のヤクザ映画で言えば、高倉健が、一人で、敵対するヤクザ組織に、乗り込むかのようなものだった…

 それほど、燃えていた…

 傍目にも、それほどの迫力が、満ち溢れていたに違いなかった…

 私は、大股で、大地をしっかりと、踏みしめるかのように、ドシン、ドシンと、歩いた…

 自分で、言うのも、なんだが、凄い迫力だった…

 この矢田トモコ、35歳…

 考えて見れば、これほどの役割を持った役目は、いまだかつて、与えられたことは、なかった…

 かつて、バイトで、三輪車にまたがり、ピザや、寿司を宅配した経験は、ある…

 思えば、そのとき、以来の重要な役目かも、しれんと、思った…

 傍目には、今回、このような機会で、ファラドと、会うのと、ピザや、寿司を運ぶのとは、違うと、思うかも、しれん…

 が、

 私の中では、いっしょだった…

 同じだったのだ…

 誰かに、なにかを、頼まれ、それを、届ける…

 当然、その責任を負う…

 つまりは、同じだった…

 自分に、重要な役割を与えられ、全うする…

 同じだったのだ…

 だから、私は、今、そのときのことを、思い出した…

 あの当時、私は、華麗に三輪車にまたがり、寿司や、ピザを運んでいた…

 そして、休日に、一人で、街を歩いていると、

 「…あ…ピザ屋が、歩いている…」

 とか、

 「…あ…寿司屋が、歩いている…」

 とか、言われたのも、一度や二度ではない…

 数えきれないほど、言われた…

 覚えてないほど、言われた…

 が、

 そのとき、そいつに、

 「…私だって、いつも、ピザを配達しているわけじゃ、ないんだ…」

 とか、

 「…私だって、いつも、寿司を配達しているわけじゃ、ないんだ…」

 と、言いたかったが、言えんかった…

 実は、この矢田トモコ…

 結構、気の弱い女だった(涙)…

 だから、そんなことを、面と向かって、言われても、ヘラヘラと、笑って、ごまかした…

 今、考えてみれば、それが、私の処世術だった…

 この矢田トモコの処世術だったのだ…

 この気の弱い、矢田トモコの処世術だったのだ…

 私が、そんなことを、考えながら、セレブの保育園に、向かって、歩いていると、なにやら、気分が、悪くなった…

 過去の所業が、私を悩ませたのだ…

 そして、そのときに、私を、

 「…ピザ屋や、寿司屋…」

 扱いした、人間に、天誅を加えてやらねば、ならんと、思った…

 あの木原、同様、日本のどこか、離れ小島の僻地(へきち)に、転勤させて、働かせねば、ならんと、思った…

 奴隷のように、二十四時間、馬車馬のように、働かせねば、ならんと、気付いた…

 そう思うことで、私の気分が、スーッと、良くなると、気付いたのだ…

 すると、そうさせるためには、やはり、現在の地位…

 このクールの社長夫人としての地位…

 葉尊の妻としての地位を捨てるわけには、いかんと、思った…

 葉尊の妻だから、あの木原に天誅を加えることが、出来る…

 葉尊の妻だから、あの木原を、どこか、離れ小島の交番に飛ばせて、チャリンコに、乗せて、やり直させることが、出来る…

 つまり、そういうことだ…

 だから、そのためにも、あのファラドと、交渉して、うまく、やらねば、ならんと、思った…

 あのファラドと交渉して、うまく、この保育園から、出ていかせねば、ならんと、気付いた…

 すべては、あの木原を追放するためだ…

 すべては、あの木原を、刑事から、どこか、辺鄙(へんぴ)な土地の、派出所勤務に、飛ばすためだ…

 そのためには、失敗できん!…

 そのためには、失敗できんのだ!…

 いつのまにか、そんなふうに、考えた…

 すると、足が、すくんだ…

 いつのまにか、責任の重さを実感したのだ…

 正直、私は、責任の重い、仕事は、嫌だった…

 嫌だったのだ…

 元々、気が小さい…

 だから、嫌だったのだ…

 だから、仕事でも、なんでも、あまり、責任の重い、仕事に、就くのは、嫌だった…

 だから、35歳の、この歳まで、まともに、就職しなかった理由の一つが、責任の重さだった…

 それは、もちろん、私が、女で、あることも、大きい…

 これが、私が、男に、生まれれば、また、違っただろう…

 やはり、男に生まれれば、どこかの会社で、正社員になり、安定した生活を、求めただろう…

 しかし、私は、女…

 その発想は、なかった…

 なにより、バイトやフリーターで、あちこちの会社を、渡り歩いている間に、すっかり、どこかの会社に就職して、じっくりと、腰を据えようと、いう考えは、なくなった…

 ハッキリ言って、働くことに、バイトや、フリーターであることは、関係ない…

 仕事をするという行為は、いっしょだ…

 そして、それは、私が、さまざまな会社を転々としている間に、いつのまにか、会社に対する憧れが、なくなったことも、大きい…

 ハッキリ言って、日本中、誰もが、知る大きな会社で、派遣で、働いて、散々な目にあったこともある…

 大きな会社とは、名ばかり…

 これまで、私が働いた中でも、一、二を、争う、最低の職場だった(爆笑)…

 真逆に、小さな会社でも、そこで、働く人間は、明らかに、優れていたことも、ある…

 だから、ハッキリ、言って、会社の規模や、知名度と、そこで、働く人間のレベルは、比例しない…

 冷静に考えれば、これは、当たり前…

 何万、何十万と、働く、日本を代表する企業の人間が、全員が、偏差値70以上の高校や、大学を出ているわけがない…

 つまり、そういうことだ(笑)…

 そして、職場は、千差万別…

 大きな会社で、優秀なひとたちばかり、集う職場もあれば、真逆に、

 「…なに、これ?…」

 と、思わず、言い出しそうな、職場も、ある(笑)…

 つまりは、運…

 例えて、言えば、就職で、会社を選べても、職場や、同僚や、上司を選べるわけではないということだ…

 私が、35歳まで、フリーターを続けて、わかったのは、そんな事実だった…

 これは、例えば、中学生や、高校生でも、話せば、わかる…

 これは、当たり前…

 当たり前だからだ…

 だが、

 実感は、できない…

 なぜなら、そんな経験はないからだ(爆笑)…

 だから、これは、大人になっても、当たり前…

 経験したことが、なければ、実感は、できない…

 だから、極端な話、話が、通じない…

 例えば、いかに、自分が、今いる職場や仕事が、大変だと、親や、友人、知人に訴えても、それが、伝わることがない…

 「…オマエが、努力が、足りないからだ…」

 とか、

 「…アンタが、辛抱が、足りないからだ…」

 の一言で、終わってしまう…

 これも、ある意味、仕方が、ない…

 親や友人、知人も、その人間が、会社で、置かれた状況が、わからないからだ…

 だから、当たり前のことだ…

 そして、当人の置かれた状況を見て、

 「…これは、仕方がないな…」

 と、思うことも、あれば、

 やはり、

 「…オマエの努力が、足りないんだ…」

 と、言われることもある…

 そして、それが、どう捉えられるか、本当のところは、誰にも、わからない…

 「…オマエの努力が、足りないんだ…」

 と、言った人間は、自分なら、その程度のことは、耐えられると、思うのだろう…

 そして、そこに、ウソがあるとは、思えない…

 つまり、すべて、ひとそれぞれ…

 ひとによって、反応が、違う…

 「…私なら、アンタ、同様、耐えられない…」

 という人も、いれば、

 「…あの程度のことなら、楽勝…耐えられる…」

 というひとも、いるだろう…

 が、

 大半は、やはり、音を上げるだろう…

 大方の人間が、思うのは、同じ…

 同じことだからだ…

 ある人間が、辛いと思う状況は、他のひとが、見ても、辛い…

 だから、大抵が、同じ意見…

 同じに、考える…

 私は、それを、思った…

 そして、そんなことを、思いながら、私は、セレブの保育園に、向かった…

 すると、急に、

 「…もしや…これで、私は、死ぬのかも…」

 と、突然、思った…

 なぜなら、人間、死ぬときは、走馬灯のように、それまで、自分が、生きてきた人生を一瞬のうちに振り返るという…

 今の私が、それと同じだからだ…

 これは、マズい…

 マズい状況だ…

 私は、思った…

 もしや、無意識に、死に近付いているのかも…

 あるいは、

 無意識に、死を意識しているのかも、と、気付いた…

 本人は、意識せずとも、無意識に、気付いている…

 そんな事例は、後を絶たない…

 誰もが、知る例で、言えば、本人が、亡くなる少し前に、ふらりと、昔、面識のあった人間を、訪ねた場合だ…

 「…なに、久しぶり…どうした、今日は?…」

 と、相手が、驚くと、

 「…いや、偶然、近くまで、来たものだから…」

 とか、なんとか、答える…

 本人は、足の向くまま、気の向くまま、やって来たに過ぎない…

 が、

 相手は、極端な話、十年振り、二十年振りに、やって来たものだから、驚く…

 つまりは、今生のいとまごい…

 本人は、意識していないが、無意識に、自分が、まもなく、この世を去ることが、わかっている…

 だから、挨拶にやって来た…

 そういうことだ…

 それと、同じかも、しれん…

 私は、気付いた…

 この矢田自身は、気付いていないが、これから、あのセレブの保育園の中に、入って、ファラドと、会う…

 そこで、ファラドに、銃か、なにかを、突きつけられて、死ぬのかも、しれん…

 私は、そう、思った…

 そうなれば、もはや、万事休す…

 この矢田の死は、免れない…

 そこまで、考えると、途端に、この場から、逃げ出そうと、思った…

 この矢田トモコ、35歳…

 人生、百年時代にあって、まだ、35年しか、生きていない…

 たった、35年しか、生きていない…

 まだ、残り、65年、残っている…

 こんなところで、死にたくはない(涙)…

 いや、

 死ぬわけには、いかん!…

 いかんのだ!…

 だから、とっさに、逃げ出そうと思った…

 もちろん、ここで、逃げ出せば、ただでは、すむまい…

 葉尊の妻としての地位…

 クールCEО夫人としての地位…

 そんな、偶然、掴んだ、栄光の地位は、捨てねば、ならん…

 玉の輿は、捨てねば、ならん…

 が、

 それも、なにも、命あってのものだねだ…

 死んだら、元の子もない…

 命あってこその、ことだからだ…

 私は、いつのまにか、目の前のセレブの保育園に、向かいながら、そんなことを、考えていた…

 どうやって、この場から、逃げ出すか?

 それだけを、考えた…

 考え続けた…

                
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