第40話

文字数 6,283文字

 「…では、葉尊社長…これで…」

 矢口のお嬢様が、席から、立ち上がった…

 「…これは、矢口さん…今日は、ありがとうございました…」

 葉尊が、席を立って、頭を下げた…

 リンダも、同じだった…

 だから、私も慌てて、席を立った…

 が、

 それを見て、

 「…矢田…オマエは、アタシに挨拶しなくていい…」

 と、お嬢様が言った…

 私は、驚いて、絶句した…

 どうして、私は、挨拶しなくて、いいんだ?

 謎だった…

 見ると、葉尊もリンダも、不思議そうな顔をしていた…

 すると、

 「…矢田…アタシとオマエの間に、挨拶など、いらん…水臭い…」

 と、お嬢様が、真顔で言った…

 「…水臭い?…」

 「…そうだ…オマエとアタシは、もう、そんな仲じゃない…」

 …そんな仲じゃないって?…

 …じゃ、どういう仲なんだ?…

 私が、悩むと、

 「…つまり、オマエとアタシは、挨拶するほどの他人じゃないということだ…」

 と、お嬢様が言った…

 私は、その言葉に、

 「…」

 と、絶句した…

 なんて言っていいか、わからなかった…

 …やはり、ここは、

 「…お嬢様…ありがとうございます…」

 という、言葉を言うべきか?

 それとも、

 「…この矢田…お嬢様の言葉、嬉しく思います…」

 と、

 お嬢様を持ち上げるべきか?

 悩んだ…

 悩んだのだ…

 どう、答えていいか、わからなかったからだ…

 すると、お嬢様が、

 「…リンダさんと、葉尊社長が、並ぶと、実に、お似合いですな…」

 と、言った…

 …なんだと?…

 …一体、どういうつもりだ…

 「…美男美女…まさに、理想のカップルです…」

 お嬢様が、続ける…

 リンダも葉尊も、矢口のお嬢様の言葉に、どう反応していいか、わからなかった…

 二人とも、明らかに、戸惑っていた…

 「…でも、実際は、葉尊社長は、この矢田と結婚している…しかも、葉尊社長が、矢田を気に入っているのは、傍目からも、わかる…」

 「…ありがとうございます…」

 葉尊が、戸惑いながら、答えた…

 「…そして、リンダさん…」

 「…ハイ…」

 「…アナタも、それほどの地位でありながら、この矢田と、実に親しい…アナタの人間力のなせるわざだ…」

 「…ありがとうございます…」

 私は、このお嬢様が、なにを言いたいのか?

 謎だった…

 すると、

 「…矢田…アタシが、なにを言いたいか、わからないようだな?…」

 と、お嬢様が、聞いた…

 「…ハイ…」

 「…要するに、物事は、見た目じゃわからないということだ…」

 「…どういうことですか?…」

 「…矢田、オマエと、葉尊社長とリンダさんが、3人並べば、誰もが、葉尊社長とリンダさんが、夫婦か、カップルだと思う…が、現実は、違う…オマエと、葉尊社長が、夫婦だ…」

 「…」

 「…つまりは、現実に、予定調和はないということだ…」

 「…予定調和?…」

 「…誰もが、思うようには、ならないということだ…オマエと、葉尊社長が、その最たる例だ…」

 「…」

 「…アタシが、なにを言いたいかというとファラド王子のクールの買収だ…」

 「…どういうことですか? お嬢様?…」

 「…アタシは、ただ、ファラド王子が、クールを狙っていると、聞いただけだ…そして、それを今日、教えただけ…本当は、その情報は、間違っているかもしれないし、仮に、本当でも、その通りになるかどうかは、わからない…」

 「…その通りになるか、どうかは、わからない? …どうして、わからないんですか?…」

 「…誰もが、自分で、決められることは、少ないということだ…」

 「…」

 「…葉尊社長ならば、おわかりになるでしょう…社長になっても、自分の思い通りになることは、案外少ない…なにか、やりたくても、役員会で、了承を得なければ、ならないとか、自分一人で、決められることは、少ない…」

 「…たしかに…」

 葉尊が、答えた…

 「…それと、同じで、ファラド王子が、クールの買収を考えたとしても、それが、実現できるかどうかは、怪しいと、アタシは見ています…」

 「…」

 「…少なくても、相手は、まだ動き出していません…勝機はあるはずです…」

 「…」

 「…だからこそ、矢田…オマエが大事なんだ…」

 「…私が、大事?…」

 「…オマエには、ひとを魅了する不思議な力がある…それを生かせば、クールに…葉尊社長に…有利に働くかもしれない…」

 「…」

 「…とにかく、物事は、どう転ぶか、最後の最後まで、わからない…風が吹けば、桶屋が儲かるという、ことわざが、その典型だ…」

 お嬢様は、そう言うと、部屋を去った…

 実に、呆気なく、クールの社長室を出て行った…

 私は、ホッとした…

 実に、ホッとした…

 カラダ中の力が抜けたというか…

 気が抜けて、ソファにヘタヘタと、座り込んだ…

 そして、それは、葉尊もリンダも同じだった…

 リンダも葉尊も、私と同じように、疲れきった様子で、ソファに座ったからだ…

 「…なんていうか、あの矢口さんと、いると疲れるというか…」

 葉尊が苦笑した…

 「…妙に、緊張する…ちょうど、お姉さんと、真逆だ…」

 私と、真逆?

 どういう意味だ?

 「…そうね…その通り…あの矢口さんは、ひとに緊張を強いるというか…やり手なんでしょうけど、それが、表に出過ぎている…」

 リンダが、葉尊に同調した…

 それを聞いた、葉尊が、

 「…リンダ…キミもそう思うか?…」

 と、聞いた…

 「…もちろん…」

 「…だったら、今、聞いた、情報は…サウジのファラド王子が、このクールを買収しようと狙っているという情報は、ウソだと思うか?…」

 「…それは、ないでしょう…」

 「…どうして、そう思う?…」

 「…そんなウソを言っても、ウソは、すぐにバレる…」

 「…ボクも同じ意見だ…」

 葉尊が、リンダの意見に同意した…

 なぜか、わからんが、この矢田トモコを抜きにして、話が、進んでいた…

 正直、わけがわからんかった(怒)…

 「…リンダ…葉尊…」

 私は、怒った…

 「…オマエたち…私抜きで、話をするんじゃない!…」

 私は、怒鳴った…

 怒鳴ったのだ…

 すると、

 「…スイマセン…」

 と、二人とも、頭を下げた…

 「…不愉快さ…実に、不愉快さ…」

 私は、言った…

 本当は、こんなことは、言いたくなかった…

 だが、あの矢口のお嬢様が、リンダと葉尊のことを、お似合いのカップルと言ったことに、頭が来たのだ…

 腹を立てたのだ…

 そんなこと、言われなくたって、わかっている…

 私と葉尊が、並べば、まるで、ファンとアイドルの関係のように、ひとは、見る…

 それは、私も、わかっている…

 自分でも、十分過ぎるほど、わかっているから、余計に頭に来るのだ…

 「…お姉さん…スイマセンでした…」

 葉尊が、再び、私に頭を下げた…

 それを見て、リンダも、また、

 「…お姉さん…スイマセンでした…」

 と、私に頭を下げた…

 まるで、美男美女のカップルが、他人である、私に頭を下げている…

 そんな感じだった…

 誰が見ても、そんな感じだった…

 だから、余計に頭に来た…

 頭に来たのだ…

 「…オマエたちのことは、知らん…」

 私は、怒鳴った…

 「…もう、面倒は見てやらんさ…オマエたちだけで、やればいいさ…」

 自分でも、しまったと思ったが、気が付くと、口にしていた…

 後悔先に立たずというやつだ…

 自分でも、マズいと、思った…

 だから、

 …引き留めろ!…

 …なにか、言え!…

 と、心の中で、叫んだ…

 が、

 二人とも、なにも言わんかった…

 だから、仕方なく、部屋を出た…

 社長室を出た…

 私は、惨め…

 惨めだった…

 本当は、私は、社長夫人…

 だから、葉尊といっしょに、社長室にいるはずだった…

 が、

 現実は、リンダが、そこにいる…

 リンダが、葉尊の隣にいる…

 しかも、二人は、美男美女…

 お似合いのカップルだった…

 それを、考えれば、やはりというか…

 私が、邪魔というか…

 部外者だった…

 自分でも、痛いほど、それが、わかった…

 わかったのだ…

 だから、仕方なく、社長室を出るしか、なかった…

 私は、絶望して、下を向いて、トボトボと、廊下を歩いていた…

 正直に言って、家にも帰りたくなかった…

 なぜ、帰りたくなかったのかと、問われれば、今、私の住むマンションは、葉尊と住む、マンションだからだ…

 クールの社長夫妻が住むにふさわしい、豪華なマンションだった…

 そして、それは、私にとって、少しも嬉しいものではなかった…

 なかったのだ…

 なぜなら、分不相応というか…

 そんな豪華マンションは、全然、私に似合わんかった…

 葉尊と、リンダが、住むのはいい…

 二人とも、有名人だし、美男美女だ…

 だから、いい…

 似合っている…

 だが、私は、違う…

 全然、似合ってない(涙)…

 ちょうど、フェラーリに乗るようなものだ…

 葉尊がハンドルを握り、リンダが、助手席に乗れば、ずばり、絵になる…

 見事に、イメージ通り…

 真っ赤なフェラーリに、長身の美男美女…

 まるで、映画やドラマのワンシーンだ…

 が、

 この矢田トモコには、似合わない…

 身長、159㎝で、六頭身の幼児体型…

 おまけに、顔も平凡だ…

 ブスでは、ないが、平凡…

 平凡の極みだ…

 そんな私が、葉尊と、真っ赤なフェラーリに乗っても、似合わない…

 …離婚するか?…

 とっさに、そんな言葉が、脳裏に浮かんだ…

 それまで、考えたことのない、言葉だった…

 葉尊から、離婚を切り出されても、仕方がないが、私から、離婚を切り出すことは、考えられなかった…

 なぜなら、私は、玉の輿に乗った女だからだ…

 台湾の台北筆頭という大会社の葉敬というオーナー社長の息子と、結婚するという、玉の輿に乗った女だからだ…

 そんな玉の輿に乗った女から、離婚を切り出すとは、普通は、考えられない…

 が、

 私には、そんな玉の輿が、苦痛だった…

 なぜなら、私には、なにもないからだ…

 たしか、心理学の言葉か、なにかで、等価交換の理論というか、原則のようなものがあった…

 言葉にすると、難しいが、内容は、実に簡単だ…

 たとえば、結婚に対して、いえば、結婚や婚約する男女は、互いに、相手に、相手にないものを、与えている…

 そして、自分は、自分にないものを、相手から与えられているということだ…

 簡単に、いえば、金持ちの男と、美人の女が結婚したとする…

 すると、金持ちの男は、美人の女に、金を与えることになる…

 そして、美人の女は、その見返りに、金持ちの男に、美人という自分自身を与えることになる…

 つまり、これで、交換が、成立する…

 金と美人を交換するのだ…

 互いに、自分にないものを、相手に与えるのだ…

 それで、交渉が、成立する…

 が、

 私には、なにもない…

 なにも、ないのだ…

 自分自身、嫌というほど、それがわかっている…

 そして、それが、嫌だった…

 文字通り、私の負い目だった…

 世の中には、私と同じ立場でいれば、ラッキーと考え、金を使いまくる女もいるだろう…

 だが、私には、それはできない…

 金は、葉尊の金…

 私の稼いだ金ではない…

 だから、そんなことはできない…

 私が、下を向いて、廊下を歩きながら、そんなことを、考えていると、

 「…お姉さん…」

 と、いう声が聞こえた…

 私は、その声に振り返った…

 そこには、葉尊が立っていた…

 夫の葉尊が立っていた…

 「…追いかけてきてくれたのか?…」

 私は、嬉しくて、つい、言ってしまった…

 が、

 言ってしまってから、それは、夫の葉尊ではないことに、気付いた…

 目の前にいるのは、夫の葉尊ではなく、葉問だった…

 夫の葉尊のもう一人の別人格の葉問だった…

 「…なんだ…葉問か…」

 私は、落胆した…

 「…葉尊でなくて、スイマセン…」

 葉問は、私に頭を下げて、謝った…

 「…別に、オマエが謝ることじゃないさ…」

 私は、不機嫌に言った…

 「…ただ…」

 と、言ったが、言葉が続かなかった…

 「…ただ…葉尊じゃなかったのが、残念だったんですか?…」

 「…その通りさ…」

 「…お姉さんは、正直、ですね…」

 「…そうさ…本当は、オマエじゃなく、葉尊に来てもらいたかったのさ…」

 「…それは、わかってます…」

 「…わかっているなら、なぜ、出て来ない? …ここにやって来るのは、葉尊だ…葉問…オマエの出る幕じゃない…」

 私は、怒った…

 怒ったのだ…

 「…スイマセン…」

 またも、葉問が、謝った…

 「…もういいさ…葉問…オマエに謝られても、仕方がないさ…」

 私は、力なく答えた…

 「…お姉さん…」

 「…なんだ?…」

 「…ボクが今、ここに現れたのは、葉尊に頼まれたからです…」

 「…葉尊に頼まれた? …どういうことだ?…」

 「…葉尊が、自分では、うまくお姉さんに謝ることができない…だから…」

 「…だからといって、謝りに来るのが、葉問、オマエというのは、おかしいだろ? …オマエが、なにか、私にしたわけじゃあるまい…」

 「…たしかに…」

 「…だろ?…」

 「…でも、お姉さんも知っているように、ボクの方が、葉尊よりも、女の扱いがうまいんです…」

 「…女の扱いだと? …どういう意味だ?…」

 私が、言い終わらないうちに、いきなり葉問は、私を抱き締めた…

 180㎝の葉問に抱き締められ、159㎝の私は、葉問の腕の中に抱き締められた…

 「…葉問…オマエ、いきなり、なにを? …どういうつもりだ?…」

 私が言い終わらないうちに、

 「…ボクの役目は、ここまで…後は、葉尊に任せます…」

 と、言うや、すぐに、人格が、葉尊に入れ変わった…

 「…お、お姉さん…」

 葉尊が、私を抱き締めたまま、戸惑った様子だった…

 「…葉尊か?…」

 「…ハイ…」

 「…ズルいゾ…葉尊…」

 「…ハイ…」

 「…私を引き留めるのに、葉問を使って…男の風上にも置けんヤツだ…」

 「…スイマセン…」

 葉尊は、私を抱き締めながら、言った…

 「…葉尊…とにかく、私を離せ…」

 「…離しません!…」

 「…なんだと? …オマエ、私の言うことが、聞けんのか?…」

 「…聞けません!…」

 私は、驚いた…

 まさか、おとなしい夫の葉尊が、私に逆らうとは、思わんかった…

 思わんかったのだ…

 私が、どうしていいか、悩んでいると、

 「…スイマセン…お姉さん…」

 と、葉尊が言った…

 「…スイマセン…」

 涙声だった…

 まさか、葉尊が泣いているんじゃ…

 そんなバカな…

 男たるもの、こんなことで、泣くわけが…

 が、

 明らかに葉尊は泣いていた…

 涙を流していた…

 「…バカ…葉尊…こんなことで、泣くんじゃない!…」

 私は、葉尊を叱った…

 「…涙は女が見せるものだ…男が泣くんじゃない…」

 「…そんなことを言っても…」

 「…とにかく、泣いちゃダメだ…涙は女の武器だ…男の武器じゃない…」

 私は、葉尊を励ました…

 必死になって、励ました…

 「…わかった…葉尊…オマエの面倒は、私が見てやる…だから、泣くんじゃない…」

 私は、断言した…

 もしかしたら、葉尊…いや、葉問の罠にはまったかもしれないと思いながら、断言した…

 うまい…

 実に、うまい…

 女の扱いがうまい葉問に私を抱き締めさせ、そこで、葉尊に、交代する…

 真面目な葉尊では、いきなり、私を抱き締めることはできない…

 が、

 結果は、御覧の通り…

 私と葉尊の仲は、元に戻った…

 修復した…

 …これは、葉問に、借りができたな…

 私は、葉尊に抱き締められながら、考えた…

 私が、望んだ結果にした、葉問に借りが、できたと、思った…

                
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