第39話

文字数 6,281文字

 私は、叫んだ…

 心の中で、何度も叫んだ…

 「…この矢口のお嬢様を信用してはいかん!…」

 「…心を許しては、いかん…」

 「…あくまで、話半分で聞け!…」

 と、繰り返した…

 が、

 言葉には、しなかった…

 ただ、お嬢様をジッと、見つめていた…

 私の細い目を、さらに、細くして、見つめていたのだ…

 その視線に、気付いた矢口のお嬢様が、

 「…矢田…なにか、言いたいことがあるのか?…」

 と、例によって、上から目線で、聞いてきた…

 私は、

 「…」

 と、黙った…

 言いたいことは、山ほどあるが、言わんかった…

 言えんかった…

 なぜ、私は、このお嬢様には、なにも言えんのか?

 別に、過去に世話になったわけでも、なんでもない…

 真逆に、利用されただけだ…

 だが、一度だけだが、このお嬢様の自宅に招かれたことがあった…

 それが、忘れられんのだ…

 そのときの、豪邸に、文字通り、私は、驚愕した…

 そんな大豪邸は、見たことも、もちろん、中に入ったことも、なかった…

 私は、それを見て、私とは、違う人間であることに、気付いたのだ…

 さらに、このお嬢様は、東大を出ていると、聞いた…

 それが、さらに追い打ちをかけた…

 東大なんて、ソニー学園出身の、この矢田とは、頭の中身が、雲泥の差だ…

 それが、わかっているから、余計に、このお嬢様が、凄く、思えたのだ…

 外見は、私そっくりだが、文字通り、レベルの違う人間だと、認識したのだ…

 話は、逸れるが、以前、派遣で入った会社で、例えば、この矢口のお嬢様のように、東大のような偏差値の高い大学を出ている人間を、間近にしても、なにも感じない人間がいた…

 私なら、おおげさにいえば、その偏差値の高さにひれ伏すところだが、その人間は、なにも感じなかった…

 っていうか、そもそも、頭の違いが、さっぱりわからんようだった(笑)…

 私は、それは、驚きだった…

 この矢田ですら、わかることが、さっぱりわからんのだ…

 今になって、考えると、想像力が、欠如しているのだろうと、思った…

 たとえば、その学区で、一番、高い偏差値の高校が65とする…

 一学年が、400人として、その中の一割が、東大や、早稲田や、慶応に入れたとする…

 片や、自分の高校の偏差値を考える…

 すると、偏差値が、50とか、55だと、随分違うと思うし、それに対して、偏差値65の高校の上位一割の40人に入るのだから、凄いと、単純に考える…

 が、

 それが、一切ない(爆笑)…

 私は、なぜ、そんなふうに、考えることができないのか、当時は、謎だった…

文字通り、疑問だった…

 が、

 歳をとって、わかったのは、一言で、言えば、身近にいないからだと、気付いた…

 だから、想像もできないのだ…

 たとえば、偏差値40の高校を出ているから、そもそも、周りに、頭のいい人間が、いない…

 だから、頭のいい、人間というものが、どういうものか、知らないのだ…

 わからないのだ…

 普通ならば、偏差値65は、凄いと思うが、そもそも、自分とは、縁遠いというか、なにも関係ない場所…

 おおげさに、言えば、その人間にとって、異国=外国のような場所なのだろう…

 だから、偏差値の高い人間を見ても、リスペクトしない…

 って、いうか、ハッキリ言って、偏差値がいくら、高い大学を出ても、それが、わからない人間が、いる(笑)…

 ありていに言えば、偏差値の高い大学を出ていても、そうは、見えないのだ(笑)…

 だから、その人間が、頼りなかったり、バカな冗談を、連発すれば、心の底から、その人間が、ダメな人間だと思う…

 バカなヤツだと、考える…

 つまりは、相手の能力を、把握することが、できないのだ…

 だったら、どうすれば、そういう人間が、凄いと思うのか?

 それは、英語や中国語を話すとか、いわば、誰にでも見える形でなければ、わからない…

 ある意味、非情に、シンプル…

 他人様を判断する基準が、おおげさに言えば、小学生の低学年レベルだ…

 だから、そんな人間が、この矢口のお嬢様を見ても、なにが、凄いのか、さっぱり、わからないに違いない…

 ただ、このお嬢様の住む、豪邸を見て、とんでもない、お金持ちだと、気付くだけだ(笑)…

 そして、それが、能力…

 個人の能力の差なんだと、痛感した…

 そして、それを振り返ると、世の中には、そんなことも、わからない人間がいるのが、驚きだった…

 それが、一番の驚きだった…

 そして、そういう人間は、必ず、上を目指した…

 結局のところ、自分の能力も、他人の能力もわからない…

 だから、身の丈以上を目指すということだ(笑)…

 そこまで、考えると、今、そんな人間が、この矢口のお嬢様を見て、どういう反応するのか、興味がある…

 おそらく、このお嬢様が、私そっくりだから、たいした人間だと最初は、思わず、軽く接するだろう…

 ことによると、バカにするかもしれん…

 そして、その正体を知って、驚愕するだろう…

 そう思うと、なんだか、楽しくなってきた…

 実際は、そんな人間が、この矢口のお嬢様と会うことはありえないのだが、想像するだけで、楽しくなってきた…

 それが、表情に現れたのだろう…

 「…矢田…なんだか、楽しそうだな…」

 と、矢口のお嬢様が、言った…

 私は、慌てて、

 「…いえ…」

 と、否定した…

 すると、お嬢様が、

 「…矢田…場所をわきまえろ…今が笑えるときか?…」

 と、指摘した…

 たしかに、その通り…

 言われてみれば、その通りだった…

 私は、正直、身の置き所がなかった…

 が、

 そんな私を見て、またしても、

 「…プッ!…」

 と、リンダが、吹き出した…

 私は、焦った…

 またしても、なにか、言われると思ったのだ…

 リンダが、

 「…ホント、漫才ね…お二人のやりとりは…」

 と、笑った…

 …なに、漫才だと?…

 「…同じ顔の人間が、二人で、いがみあってる…これが、漫才じゃなくて、なに…」

 リンダが、笑い転げた…

 見ると、夫の葉尊も、苦笑いをしていた…

 「…リンダ…お姉さんにも、矢口さんにも、失礼だよ…」

 と、葉尊は、言ったが、そう言う葉尊自身も苦笑いを浮かべたままだった…

 「…でも、ホント、ありがたい…」

 リンダが、一転して、真顔になった…

 「…本当は、深刻な話題なのに、なぜか、楽しくなる…お姉さんがいると、常に、人生が楽しくなる…」

 …なんだと?…

 …どういう意味だ?…

 気が付くと、なんと、矢口のお嬢様まで、私を見て、笑っていた…

 「…矢田…オマエは、本当に、得な性格だな…」

 矢口のお嬢様が言った…

 「…誰からも愛される…このリンダさんからも…世界中に知られた、ハリウッドの有名人からも、好かれている…矢田、オマエの持つ、たぐいまれなる、愛され力のなせるわざだ…正直、羨ましい…」

 お嬢様は、しみじみと言った…

 私を褒めた…

 と、同時に、気付いた…

 この矢口のお嬢様が、リンダをハリウッドのセックス・シンボルと言わなかったこと、をだ…

 ハリウッドの有名人と言うことで、わざと、リンダに遠慮したのだろう…

 気を使ったのだろう…

 セックス・シンボルという表現は、男女を問わず、憧れる反面、どうしても、売春婦のような負のメージがある…

 それは、否定できない…

 だから、このお嬢様は、わざと言わなかったに違いない…

 見ると、リンダもお嬢様の配慮に気付いたのかもしれない…

 お嬢様を優しい目で見ていた…

 「…葉尊社長も、ホントにいい女を妻に娶(めと)りましたな…矢田がいれば、いつも、楽しくなる…人生が楽しくなる…」

 …なんだと?…

 …人生が、楽しくなるだと?…

 …ウソを言うな!…

 …私は、ちっとも、人生が楽しくないゾ…

 私は、お嬢様を睨んだ…

 私の細い目で、睨んだのだ…

 すると、夫の葉尊が、

 「…ハイ…その通りです…」

 と、実に、楽しそうに、答えた…

 答えたのだ…

 「…このお姉さんは、奇貨居くべし…ボクにとっての奇貨です…」

 葉尊が告げた…

 …奇貨?…

 …一体、どういう意味だろう?…

 私には、謎だった…

 が、

 矢口のお嬢様は、すぐに、その意味がわかった様子だった…

 「…そうですか…矢田が奇貨ですか? …葉尊社長にとっての奇貨ですか?…」

 「…その通りです…お姉さんの人柄は、どんな人間も魅了します…それが、お姉さんの最大の魅力であり、お姉さんの強みです…現に、このリンダや、今は、ここにいませんが、世界的に著名なモデルのバニラ・ルインスキーも、このお姉さんには、心を開いています…なにより、こういっては、なんですが、バニラは我が強く、彼女は、好き嫌いが別れますが、このお姉さんは、そんなことも、苦にせず、仲良くやってます…これは、お姉さんだから、できることです…」

 葉尊が、私を褒めた…

 が、

 私はその言葉に不満だった…

 強烈に、不満だった…

 私が、いつ、あのバニラと仲が良くなったというんだ?

 あのバニラが、いつ、私に心を開いたというんだ?

 そんなことはない!

 絶対にない!

 ありえない!

 あのバカなバニラは、私に敵対している…

 常に、私に逆らい続けている…

 が、

 それは、葉尊に言えんかった…

 葉尊がそう言う以上、そうするしかなかった…

 なかったのだ…

 私は、どうしても、立場上、葉尊に遠慮する…

 大金持ちの葉尊に遠慮する…

 それは、所詮は、私が、一般人だからだ…

 平民だからだ…

 平民が、金持ちに、お嫁さんにしてもらったからだ…

 葉尊に、負い目がある…

 だから、それを悟られないように、私は、常日頃から、葉尊に、上から目線で、接するのだ…

 私は、それを思った…

 そう思うと、

 「…矢田…」

 と、矢口のお嬢様が、私に声をかけた…

 「…ハイ…」

 「…葉尊社長の力になれ…」

 「…力に?…」

 「…アタシは、今、葉尊社長に、クールが、ファラド王子に狙われていると、いう情報を教えたが、それは、それ…これは、これだ…」

 「…どういう意味ですか?…」

 「…ファラド王子の接待パーティーだ…」

 「…接待パーティー?…」

 正直、意味がわからんかった…

 「…鈍いヤツだな…矢田…」

 「…鈍い?…」

 「…そうだ…アタシが、なにが言いたいかと言えば、ファラド王子が、クールを狙っているとわかっても、接待パーティーを中止することはできないということだ…」

 矢口のお嬢様が、断言した…

 それで、ようやく、お嬢様の言う、

 「…それは、それ…これは、これ…」

 の意味がわかった…

 たとえ、ファラド王子の狙いが、わかっても、今さら、パーティーは中止できないということだ…

 ファラド王子の来日は、クールだけでなく、日本政府や、他の日本の企業や政治家も絡んでくる…

 いわば、この国のお偉いさんを招いて、パーティーを開催するのだ…

 ハッキリいえば、クールにとっては、敵を招いて、パーティーを開催するのだが、今さら、それを止めることはできない…

 中止することは、できない…

 ことは、クール一社の問題ではないからだ…

 私は、ようやく、その事実を理解した…

 「…葉尊社長も、内心、複雑な気分だろう…なにしろ、自分の会社を買収するかもしれない人間を接待するんだ…」

 矢口のお嬢様が言った…

 「…だが、だからこそ、矢田…オマエの力が必要なんだ…」

 矢口のお嬢様が、力を込めた…

 「…私の力?…」

 「…そうだ…オマエには、不思議な力がある…」

 「…不思議な力?…」

 「…誰も、オマエを嫌いにならない…どんな人間も味方にすることができる力だ…」

 …ウソォ?…

 …いや、バカな?…

 本気か?

 本気で、このお嬢様は、言っているのか?

 やはり、頭がおかしいのではないか?

 やはり、このお嬢様が、東大を出たというのは、ウソなのかもしれん…

 私は、思った…

 気付いた…

 が、

 そんなお嬢様の言葉に、リンダが、

 「…たしかに、このお姉さんには、魅力がある…」

 と、口を出した…

 「…あのバニラが、このお姉さんには、驚くほど、素直に接している…あんなバニラを見たのは、初めて…」

 …なんだと?…

 …バニラが素直だと?…

 …あのバニラの私に接する態度のどこが、素直なんだ?…

 …あの根性曲がりのバニラのどこが、素直なんだ?…

 私は、思った…

 だから、思わず、

 「…あのバカなバニラのどこが、素直なんだ!…」

 と、大声を出したくなった…

 事実、大声を出す寸前だった…

 ところが、

 「…たしかに、リンダの言う通り、バニラは性格に難があるというか…」

 と、今度は、夫の葉尊が、口を出した…

 「…悪い人間じゃないが、正直、扱いづらい…感情の起伏が激しいから、ボクもどう接していいか、わからないときがある…」

 …なんだと?…

 私は、夫の葉尊のバニラの評価に、驚いた…

 葉尊から、そんな話は、これまで、聞いたことがなかったからだ…

 「…でも、そんな感情の起伏の激しいバニラもお姉さんの前では、子供のように無邪気になる…」

 …なに?…

 …無邪気?…

 どこをどう見れば、あのバニラの私に対する態度が、無邪気なんだ?…

 あれは、私をバカにしているんだ…

 私を下に見ているんだ…

 自分は、身長が、180㎝と長身で、美人…

 片や、この矢田トモコは、身長159㎝で、六頭身の幼児体型…

 顔も平凡だ…

 だから、私を下に見ているのだ…

 それが、許せん、私は、あのバニラに立ち向かうのだ…

 むろん、カラダでは、勝てない…

 ガタイが違い過ぎる…

 だから、口で、勝負する…

 あのバカなバニラならば、口では、勝てるからだ…

 私は、それを思った…

 「…やはり、そうですか…」

 お嬢様が言った…

 「…リンダさんも、葉尊社長も、そう思いますか?…」

 …なに?…

 …なにを、思うと言うんだ?…

 矢口のお嬢様の言葉に、リンダも葉尊も、無言で、頷いた…

 首を縦に振った…

 「…矢田…オマエは、葉尊社長にとっての奇貨だ…」

 「…奇貨?…」

 「…オマエには、他人にない才能がある…」

 「…才能…どんな才能が?…」

 「…矢田…」

 「…ハイ…」

 「…才能というのは、自分は、造作なく、できることが、他人には、できないことだ…」

 「…」

 「…わかりやすくいえば、たとえば、歌の作曲や作詞だ…作曲家も作詞家も、簡単に曲が作れるし、詩が書ける…だから、それを仕事にして、生活できる…それが、才能だ…」

 「…」

 「…オマエの場合は、なぜか、他人を味方にできる…オマエと知り合った人間で、誰一人、オマエを嫌う人間は、おるまい…」

 …たしかに、私は、ひとに嫌われない…

 …なぜか、わからないが、嫌われたことがなかった…

 「…きっと、ファラド王子もオマエに会えば、なにか、気が変わるかもしれん…」

 「…私に会えば?…」

 「…オマエを嫌う人間は、いない…だから、オマエが嫌がることを、ファラド王子も、しないかもしれない…」

 …バカな?…

 …そんな単純な理由で、会社の買収を断念するはずがない!…

 やはり、このお嬢様は、バカなのか?…

 東大を出ているといったのも、ウソかもしれん…

 いや、

 ウソに違いない…

 私は、思った…

 が、

 「…と、なれば、いいが…」

 と、お嬢様が、付け加えた…

 「…まあ、危機であることは、間違いない…アタシは、葉尊社長にそれを教えた…あとは、矢田、オマエたちで、なんとか、することだ…」

 矢口のお嬢様が、言った…
 
 それが、現実だった…

 重苦しい現実だった…

 重苦しい空気が、部屋に充満した…

                
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