第112話

文字数 4,879文字

 …この葉問の背後に、誰かいる?…

 それは、この矢田トモコの思い込みか?

 思い込みに過ぎないか?

 それとも、

 やはり、事実か?

 悩んだ…

 迷った…

 が、

 さすがに、目の前の葉問本人に、聞くわけには、いかんかった…

 いや、

 聞いたところで、答えるわけがないからだ…

 私が、そんなことを、考えていると、

 「…では、お姉さん…今回は、これで…」

 突然、葉問が、言った…

 「…これでって?…」

 私は、慌てた…

 「…リンダは、どうする?…」

 「…どうするも、なにも、お姉さん次第です…」

 「…私次第?…」

 「…このカラダは、葉尊のカラダ…この葉問は、居候のような身の上です…」

 「…居候だと?…」

 「…このカラダの主人は、葉尊…ときどき、この葉問に、カラダを貸してくれるだけです…だから、葉問でいられる時間は、短い…」

 「…」

 「…だから、今日は、これで、お別れです…」

 「…待て、ちょっと待て、葉問…」

 私が言う間に、あっけなく葉尊に代わった…

 一瞬の間に、人格が、激変した…

 明らかに、一瞬前までとは、別人になった…

 私は、

 「…葉…葉尊…」

 と、言った…

 つい、声をかけた…

 「…お姉さん…」

 と、これも、葉尊が、反射的に、声をかけた…

 「…どうか、しましたか?…」

 「…なんでもない、なんでもないさ…」

 「…なんでもないって? …でも…」

 「…私が、なんでもないと、言ったら、なんでもないのさ…」

 私は、葉尊に凄んだ…

 すると、葉尊も、それ以上、なにも、言わなかった…

 私は、自分でも、おかしいと思うが、葉尊には、強気に出れる…

 が、

 その一方で、葉尊には、あまり物が言えない…

 ぶっちゃけ、相談できない…

 が、

 真逆に、葉問には、相談できる…

 なんでも、言い合える…

 これは、一体、どうしたことだ?

 正直、自分でも、さっぱりわからない…

 真面目な葉尊には、なにも、言えず、ヤンキーな葉問には、なんでも、言える…

 これは、ひょっとして、私は、葉問が好きなのか?

 葉問と、結婚したいのか?

 ふと、思った…

 すでに、葉尊の妻である自分が、こんなことを、考えるのは、おかしいが、ふと、思った…

 なぜか、私は、夫の葉尊よりも、葉尊の弟の葉問の方が、話しやすいのだ…

 どうしてだか、わからない…

 だが、そうなのだった…

 私が、そんなことを、考えていると、

 「…ヤン…リンダ…」

 と、いきなり、誰かが、言った声がした…

 声の主は、当然のことながら、葉尊だった…

 「…今度ばかりは、危ないかもしれない…」

 葉尊が、言う…

 が、

 それは、私に言うというよりは、独り言を言っているようだった…

 だが、私は、反射的に、

 「…どうして、危ないんだ?…」

 と、聞いた…

 独り言だから、答えないかも、しれないが、訊かずには、いられなかった…

 「…相手が、悪すぎます…」

 「…相手というのは、オスマン殿下か?…」

 「…ハイ…」

 私は、葉尊の答えに、

 「…」

 と、沈黙した…

 が、

 なにより、疑問だった…

 さっきの葉問の言葉から、リンダが、オスマン殿下の懐に、飛び込み、情報を得ようとするのは、わかる…

 が、

 どうして、そんなに、情報を得たいのか、不思議だった…

 リンダは、有名人…

 ハリウッドのセックス・シンボルと言われるほどの、お金持ち…

 その美貌を生かして、成功している…

 そんなサクセス・ストーリーを絵に描いた人生を送っている、リンダが、どうして、もしかしたら、殺されるかもしれないことを、しようとしているのか、謎だったのだ…

 それとも…

 それとも、認識が、甘いのだろうか?

 誰でも、そうだが、自分には、評価が、甘い…

 オスマン殿下が、熱狂的なリンダ・ヘイワースのファンだから、たやすく、オスマン殿下の懐に入れるとでも、思ったのだろうか?

 葉問は、それは、危険だと、言ったが、もしかしたら、リンダ本人には、その認識が、ないのかしれない…

 事態を甘く見ているのかも、しれなかった…

 だから、

 「…どうして、リンダは、そんな危険なことをするんだ?…」

 と、つい、私も口走った…

 別に、葉尊に答えを期待しているわけでは、なかったが、言わずには、いられなかった…

 が、

 すると、葉尊が、すぐに口を開いた…

 「…たぶん、生きている実感が、欲しいんだと、思います…」

 「…生きている実感?…」

 「…ハイ…」

 「…どういう意味だ?…」

 「…リンダ…ヤンは、危険なことが好き…」

 「…危険なことが、好きだと? どうして、好きなんだ?…」

 「…その間、生きている実感が、湧くからです…」

 「…」

 「…リンダ…ヤンが、モデルを目指した理由も、たぶん、同じです…」

 「…同じだと? なにが、同じなんだ?…」

 「…モデルになって、有名になれば、誰にも、自分の存在が知られ、生きている実感が、湧きます…」

 「…」

 「…でも、今のリンダは、その刺激が、普通になり、より大きな刺激が、欲しいのかもしれない…」

 葉尊が、沈痛な表情で、言った…

 「…これが、バニラのように、子供でも、いれば、いいのですが…リンダには…ヤンには、それが、できない…」

 「…どうして、できないんだ?…」

 「…リンダは、心は、男…それでは、カラダが、女でも、子供を産むことが、できない…」

 たしかに、そうだった…

 世界中に知られたハリウッドのセックス・シンボル、リンダ・ヘイワースは、心が男…

 だから、リンダ・ヘイワースは、幻…

 あくまで、リンダが演じているに、過ぎない…

 本当のリンダは、心が、男だから、いつも、男装している…

 ヤンの格好をしている…

 だから、リンダに子供を産むことは、できない…

 「…バニラのように、マリアがいれば、マリアを生きがいにできる…マリアのために、生きようと思える…」

 これも、葉尊が、独り言のように、言った…

 「…でも、リンダには、それがない…だから、刺激を求める…刺激だけを求める…」

 葉尊が、続けた…

 が、

 「…だからこそ、お姉さんが、必要なんです…」

 と、いきなり、葉尊が、言った…

 よく、わからない展開だった(笑)…

 わけのわからない展開だった(笑)…

 どうして、私が、必要なのか、わからなかった…

 どうして、そこで、いきなり、私の名前が、出るのか、不思議だった…

 「…どうして、そこで、私の名前が出るんだ?…」

 と、私は、聞いた…

 聞かずには、いられなかった…

 「…刺激というものは、体験すれば、するほど、より大きな刺激を求めます…それが高じて、最大限の刺激を得ようとすれば、戦場に行くしか、なくなります…」

 「…戦場?…」

 「…要するに、戦争です…そこで、行われるのは、命のやりとりです…それは、これ以上ない刺激です…」

 「…刺激…」

 「…つまり、刺激には、際限がありません…だから、お姉さんなんです…」

 「…だから、私?…」

 「…お姉さんの存在は、刺激と、真逆…癒しです…」

 「…癒し?…」

 「…ハイ…お姉さんと、いっしょにいると、ホッとします…」

 「…私と、いっしょにいると、ホッとする?…」

 「…ハイ…」

 「…だから、お姉さんだけが、リンダを止められます…」

 「…ちょっと、待て…葉尊…オマエがいるだろ? …オマエは、リンダの親友だろ?…」

 「…それは、そうですが、ボクでは、無理です…」

 「…無理?…」

 「…お姉さんだから、できるんです…」

 葉尊が、断言した…

 「…刺激よりも、癒し…それが、人生で、一番大切だと、リンダ…ヤンに、教えられるのは、お姉さんだけです…」

 「…私だけ?…」

 「…元々、リンダ=ヤンは、無鉄砲のところが、ありました…そして、今、思えば、その根底には、彼女の抱える性同一性障害が、あると、思います…」

 「…どういう意味だ?…」

 「…性同一性障害に生まれれば、普通でも、悩みます…が、それに、輪を加えて、リンダは、絶世の美女…にもかかわらず、心は、男…これで、悩まぬ、人間は、いないでしょ?…」

 たしかに、葉尊の言う通りだ…

 あんなスタイル抜群の美女に生まれて、心が、男では、自分でも、どうしていいか、わからない…

 それこそ、数え切れない数の男に言い寄られているにも、かかわらず、

 「…私は、心が、男だから…」

 と、言うことは、いえない…

 なにより、それは、言い訳だと、思われる…

 信じて、もらえない…

 だから、より、悩むのだろう…

 そして、その悩みもまた、危険なことを、すれば、忘れられる…

 危険なことをすれば、どうすれば、その危機を乗り越えることが、できるのだろうと、考える…

 その結果、悩まなくて、すむからだ…

 いや、

 悩んでいる時間が、なくなるからだ…

 例えば、戦場にいれば、悩んでいる暇は、ない…

 モタモタしていれば、自分が、死ぬかも、しれないからだ…

 だから、悩んでいる暇は、ない…

 そういうことだ…

 私は、それを思った…

 「…刺激よりも、癒し…それを、リンダに教えてくれたのが、お姉さんです…」

 「…私?…」

 「…だから、ボクも、陰ながら、ホッとしていたんですが、今回は…」

 「…今回は、なんだ?…」

 「…刺激が、強すぎました…なにしろ、ファラドとオスマン殿下の争いです…サウジの…いや、アラブ世界を、大げさに、いえば、二分するかも、しれない、大きな争いです…刺激が、強すぎます…」

 「…アラブ世界を、二分する争い?…」

 「…誰が、サウジの次の国王になるかで、サウジの権力構造が、変わります…そして、サウジは、アラブの大国…サウジの権力構造が、変われば、下手をすれば、アラブ世界を二分する争いになります…」

 「…」

 「…だから、もしかしたら、リンダは、その刺激に、心惹かれたのかも…」

 「…」

 「…だから、お姉さん…リンダを…ヤンを、救えるのは、お姉さんだけなんです…」

 葉尊が、力説した…

 が、

 そんなことを、言われても、困った…

 私は、平凡…

 平凡な女だ…

 そんな大きなことを、言われても、困る…

 現に、今、自分が、どうすれば、いいのかも、わからない…

 自分が、どう動けば、いいのか、さっぱりわからなかった…

 「…一体、私は、どうすれば?…」

 と、つい口走った…

 「…どうすれば、いい?…」

 私は、まるで、救いを求めるように、葉尊を見た…

 正直、こんなシチュエーションで、夫の葉尊を見るのは、初めてだった…

 初めての経験だった…

 私は、なぜか、葉尊には、いつも、上から、目線だった…

 どうしてだかは、自分にも、わからんかった…

 たぶん、葉尊が、おとなしいからだろう…

 だから、言いやすい…

 だから、つい上から目線になりがちだった…

 それと、私が、6歳年上というのも、あるかもしれない…

 葉尊は、6歳年下だから、自分が、上になりやすい…

 それも、あるかも、しれない…

 そして、あまり認めたくないが、コンプレックスも、若干ある…

 なにしろ、葉尊は、お金持ちの御曹司…

 片や、

 私は、平凡な家庭の出身…

 だから、普通に考えれば、頭が上がらない…

 だから、真逆に、上に立ちたがる…

 本当は、下だから、上に立ちたがるのだ(笑)…

 ちょうど、以前、会社で見た、社員の学歴コンプレックスと、同じかもしれない…

 高卒のひとが、新卒で、入った同学年の大卒に負けられないと、思う…

 だから、態度が、上から、目線になる…

 が、

 失礼ながら、頭の違いは、私でも、一目でわかる…

 わからないのは、当人だけ…

 高卒の社員だけだった(笑)…

 私は、今、それを、思い出した…

 そして、いかに、それが、傍から見て、滑稽か、考えた…

 一歩引いてみれば、爆笑ものだ…

 が、

 私もまた実生活では、同じかも、しれないと、思った…

 誰でも、自分のことは、わからない…

 その典型だったかも、しれない…

 自分以外の人間のことは、わかるが、自分のことは、わからない…

 その典型だったかも、しれない…

 私は、今、夫の葉尊を見ながら、そんなことを、考えた…

 考え続けた…

               
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