第13話

文字数 5,551文字

 私は、悩みながら、廊下を歩いた…

 私の前には、夫の葉尊と、矢口トモコが歩いている…

 私は、その二人の後ろを歩いた…

 そして、私の後ろには、バニラがいた…

 …どうすれば?…

 …一体、どうすれば?…

 私が、悩み続けていると、前を行く、葉尊と、矢口トモコが、社長室のドアを開けて、中に入った…

 すると、今、廊下にいるのは、私とバニラのみ…

 私は、そのチャンスを見逃さなかった…

 チャンスは、この一瞬しか、ないからだ…

 私は、前をゆく、二人の姿が、社長室に消えると、急いで、バニラを振り返った…

 まるで、フィギュアスケートの選手のように、すばやく、背後のバニラを振り返った…

 そして、笑った…

 精一杯の笑顔を作った…

 が、

 バニラは、その顔に怯えた…

 なぜか、知らんが、バニラが、ビックリした顔で、私を見た…

 バニラの美貌が、驚きの表情になった…

 「…なに? …どうしたの?…」

 「…なに?…」

 私は、ビックリしたが、なにも言わんかった…

 今は、このバニラを手なずけることが、一番…

 最優先の課題だ…

 このバニラが、なにを言おうと、我慢するしかない…

 「…なんなの? …お姉さん…その顔は? …ここで、私を殺すとでも言うの?…」

 …なに?…

 …なんで、私は、オマエに必死になって、愛想笑いをしているのに、オマエを殺すんだ?…

 …まったく、わけがわからん…

 …だから、バニラ…オマエは、ダメなんだ!…

 と、言ってやりたかったが、言えんかった…

 とにかく、今は、このバニラをなんとかして、味方に引き入れることだ…

 私は、精一杯の愛想笑いを浮かべながら、

 「…バニラ…オマエに頼みがある…」

 と、頼んだ…

 が、

 私が、精一杯の愛想笑いを、バニラにしているにもかかわらず、バニラが、

 「…怖い…」

 と、怯えた…

 …怖い?…

 …バカな?…

 …どうして、こんなに、愛想よく、このバニラに笑いかけているのに?…

 不思議だった…

 やはり、このバニラが、バカだからだろうか?

 頭がおかしいだからだろうか?…

 すると、バニラが、

 「…お姉さん…目が真剣…血走ってる…」

 …なんだと?…

 …目が血走ってるだと?…

 {…それでいて、顔は、笑っている…まさにホラー…ホラーよ…}

 バニラが言った…

 私は、バニラの指摘に驚いたが、私の顔が、その通りだとすれば、バニラの驚くのも、わかった…

 怯えるのも、わかった…

 つまりは、私は、あの矢口トモコに、ここまで、追い詰められているということだ…

 だから、私は、バニラを安心させるべく、

 「…心配するな…」

 と、バニラに言った…

 「…私に任せておけ…オマエの悪いようには、せんゾ…」

 私の言葉に、なぜか、バニラは、それまで以上に怯えた表情になった…

 「…その代わりに、少しばかり、私に力を貸せ…」

 「…力を貸せって?…」

 バニラが怪訝な顔になった…

 「…とにかく、私の味方になれ! …いいな!…」

 と、私は、バニラに念を押した…

 すると、頭の悪いバニラも、私の目的が、わかったようだ…

 「…つまりは、お姉さん…あの矢口さんに、力を貸すなって、言いたいわけ…」

 「…その通りさ…」

 「…お姉さん…あの矢口さんに頭が上がらない様子だものね…」

 「…」

 「…それで、内心嫌っているんだ…」

 バニラが楽しそうに言った…

 私は、その通りさ、と言いたかったが、言えんかった…

 さすがに、口にするのは、憚れた…

 「…頼むゾ!…」

 私は、それだけ言うと、また、振り返って、元の社長室に向かって、歩き出した…

 さすがに、廊下で、何分も、バニラと話しているわけには、いかなかったからだ…

 何分も話していれば、先に社長室に入った葉尊と、あの矢口のお嬢様が、

 「…お姉さんは、どうして、来ないのだろう?…」

 と、気になるからだ…

 だから、私は、バニラに最低限の言葉だけを、かけたのだ…

 あとは、バニラの良心に賭けるしか、なかった…

 限りなく、少ない、バニラの良心に賭けるしかなかった(涙)…

 私と、バニラは、少し遅れて、社長室に入った…

 すでに、葉尊と矢口トモコは、社長室の一角にある、応接用のソファに座っていた…

 私とバニラもまた、遅れて、ソファに座った…

 私は、矢口トモコの隣…

 バニラは、葉尊の隣…

 つまりは、私と矢口トモコは、葉尊とバニラと向かい合わせに座ったのだ…

 だから、葉尊と、バニラは、あらためて、しげしげと、興味深く、私と矢口トモコを、見比べた…

 当たり前のことだ…

 「…ホント、似ている…」

 バニラが、驚嘆したように、言った…

 「…誰が、見ても、姉妹どころか、双子ね…」

 「…たしかに…」

 葉尊も同意した…

 が、

 私は、そんなことは、どうでもよかった…

 そんなことよりも、どうして、ここに、矢口トモコがやって来たのか?

 それが、問題だったからだ…

 だから、私は、

 「…今日は、お嬢様は、どうして、このクールにいらしたのですか?…」

 と、直球の質問をした…

 が、

 矢口トモコは、相変わらずの上から目線だった…

 「…用があるからに、決まっているだろ…」

 と、そっけなかった…

 「…用ですか?…」

 私は、はらわたが煮えくり返りながら、聞いた…

 「…うちのスーパーに、ハラールの食材とか、を置くことにしようとしてな…」

 「…ハラール?…」

 「…イスラム教徒が、食べる食材だ…イスラム教徒は、豚肉が、ダメとか、その豚を殺すときに、お祈りするとか、その他、色々難しい処理が必要でな…」

 「…」

 「…だから、うちの店に置く上でも、日本では、その処理が難しい…それで、頭を悩ませていたところ、偶然、人づてに、クールの葉尊社長が、今度、アラブの王族を接待するという噂が耳に入ってな…ならば、うちの会社の人間も、その接待に、同行して、アラブの王族と、親密になれば、色々、商売に有利になると思ってな…」

 「…そんなに有利になるんですか?…」

 「…矢田…」

 「…ハイ…」

 「…オマエ、世界中のイスラム教徒の数を知っているか?…」

 「…いえ…」

 「…16億人だ…」

 「…16億?…」

 「…とてつもない数だろ?…」

 「…ハイ…」

 「…しかも、その内訳は、10億人が、東南アジア人だ…」

 「…エッ?…」

 バニラが、驚いた…

 当たり前だ…

 イスラム教徒といえば、中東を考える…

 サウジアラビア、イラン、イラクなど、真っ先に上がる…

 それが、東南アジアなんて…

 一体、どういうことだ?…

 「…イスラム教徒の信者をムスリムと呼ぶが、その大半は、中東ではなく、東南アジア…しかも、東南アジアは、日本に、留学や、仕事で、やって来る人間が多い…」

 矢口トモコが、説明する…

 「…すると、どうだ? …ムスリムは、たとえば、パン一つ買うにも、どんな食材が入っているか、気にする…豚肉もそうだが、ムスリムに禁じられた食材が、入っている場合も多い…だから、それを食べるわけには、いかない…パンに限らず、缶詰一つでも、材料を見ると、意外なものが入っているものだ…」

 「…」

 「…だから、一番手っ取り早いのが、天丼だ…」

 「…天丼?…」

 と、バニラ…

 「…天丼は、うろこのある魚や、野菜を使っている…だから、ハラールを気にしなくて、いい…イスラム教徒が、食べるのに、禁じられてる具材が、入ってないからだ…」

 「…」

 「…つまり、それほど、我々、日本人にとっては、難しいということだ…」

 矢口トモコは、言った…

 が、

 言った後で、

 「…いや、ここで、日本人は、アタシと矢田だけか…」

 と、言って、苦笑した…

 この言葉に、葉尊とバニラが、思わず、苦笑した…

 葉尊もバニラも、日本語が、堪能なので、つい、外国人だということを忘れてしまう…

 特に、バニラは、ブロンド美人で、青い目の外人だが、日本語が、堪能なので、その外見にもかかわらず、つい日本人と同じに思ってしまう…

 また葉尊は、台湾人なので、日本人と、外見は、まったく変わらない…

 だから、本当は、この4人のうち、日本人は、私と矢口のお嬢様だけなのだが、つい、そんなことは、忘れてしまう(笑)…

 「…つまり、矢口さんは、今度、この葉尊社長が、アラブの王族を接待するのを、聞きつけて、アラブの王族とコネクションを得たいということですね…」

 バニラが言った…

 「…その通りさ…」

 矢口トモコが、答える…
 
 「…私も調べたんだが、王族といっても、たとえば、サウジアラビアでも、2万や3万人もいて、その中には、公務員もいれば、企業経営者もいるらしい…」

 「…2万や3万…王族が?…」

 バニラが驚く…

 「…これには、アタシも驚いた…だが、とにかく、とっかかりが、欲しい…一般のイスラム教徒と知り合うのは、さして、難しいことではないが、やはり、王族となると、難しい…」

 当たり前のことだった…

 「…お嬢様は、どうして、そんなに王族にこだわるのですか?…」

 私が、聞いた…

 すると、矢口のお嬢様が、私を、まるで、見下すような視線で、見た…

 「…矢田…」

 「…ハイ…」

 「…オマエは、バカか?…」

 「…バカ?…」

 「…頭は、大丈夫かと、聞いているのさ?…」

 「…なぜ、そんなことを?…」

 「…普通、王族といえば、その国のトップだろ?…」

 「…ハイ…」

 「…そのトップと話がつけば、物事がスムーズに運ぶ…たとえば、トヨタでもなんでも、末端の作業員と仲良くなっても、物事は、運ばん…社長と仲良くなれば、物事が、スムーズに運ぶ…」

 …たしかに、言われてみれば、その通り…

 …その通りだ…

 「…要するに、権力者だ…私は、実は、こんなやり方は、好かん…」

 「…好かん? …どうしてですか?…」

 葉尊が聞いた…

 「…実際に、なにかするのは、末端の人間だ…作業する人間だ…これは、スーパーでも、工場でも、同じだ…本当は、末端の人間に、いかに気持ちよく、仕事をしてもらえるのかが、大事だと思う…だから、末端の現場の人間こそ、大事にするべきだと、思う…そう思いながらも、それが、今回は、一番の権力者と、知り合いになりたいと、行動を起こす…自分でも、正直、自分が、嫌になる…」

 意外な矢口のお嬢様の言葉だった…

 それは、葉尊も、バニラも、同じだったようだ…

 「…矢口さんは、そんなに偉い、お立場なのに、末端の人間を大切にされるんですね…」

 バニラがお世辞を言った…

 すると、矢口のお嬢様が、バニラを見て、

 「…たしか、アナタは、モデルでしたね?…」

 「…ハイ…」

 「…モデルも、同じでしょ?…」

 「…同じ? …それは一体?…」

 「…ファッションショーの舞台も、末端の現場の人間が、汗水垂らして、作る…アナタも、一生懸命だが、ファッションショーに携わる人間も皆一生懸命でしょう…ただ、役割が、違うだけ…仕事が違うだけ…」

 「…」

 「…これは、どんな仕事も同じ…映画でいえば、監督だろうが、主役だろうが、音声だろうが、与えられた役割の中で、一生懸命仕事をする…それが、大事…」

 矢口のお嬢様が、語る…

 私は、驚いた…

 この矢口トモコが、ここまで、まともなことを、口にするとは、思わなかったからだ…

 東大出身だから、難しい経営論か、なにかを話すのかも、と、思った…

 ソニー学園出身の私には、さっぱり理解できん話をするのかもと、思った…

 が、

 違った…

 地に足がついた、立派な説明だった…

 私は、それを聞き、このお嬢様も成長したんだと思った…

 今日、六年振りに再会して、六年前と、同じ上から目線の態度だから、なにも変わってないと、感じたが、違ったのかもしれない…

 このお嬢様も、少しは、成長したのかもしれん…

 人の痛みがわかる人間に成長したのかもしれん…

 私は、そう思った…

 そう思って、隣の矢口トモコを見た…

 矢口のお嬢様を見た…

 しかし、

 そこにいるのは、私…

 まさに、私だった…

 私、矢田トモコだった…

 だから、もしかしたら、矢口のお嬢様にも、この六年で、成長があったのかもしれんが、私には、どうしても、そうは、思えんかった(苦笑)…

 この矢田トモコもまた、六年前となにも、変わっていない…

 その私、矢田トモコと、同じルックスを持つ、矢口のお嬢様が、成長したとは、どうしても、思えんかった(爆笑)…

 ただ、老けただけだ…

 六年前に比べると、オバサンになっただけだ(笑)…

 私、そう思った…

 そう、思って、矢口トモコを見た…

 やはり、同じ…

 成長など、どこにもなかった(笑)…

 私に成長がないように、この矢口のお嬢様にも、成長など、あるはずがなかった(笑)…

 成長など、あろうはずもなかった(笑)…

 六年の時間が、なにも変えない…

 なにも、変わらない…

 ただ、外見が、老けただけ…

 それだけだった…

 所詮、人間は、何年たっても、中身が、変わるのは、稀…

 奇跡に近い…

 性格が、生まれつき、悪いものは、一生悪い…

 当たり前だ(笑)…

 頭が悪い人間が、良くなることが、ないように、実際は、なにも変わらない人間が、多い…

 ただ、歳を取っただけだ(笑)…

 それは、私も、そうだし、この矢口もお嬢様も、また、同じだろう…

 私は、この矢口のお嬢様を見て、そんなふうに、思った…

 そして、この矢口のお嬢様も、また、私、矢田トモコを同じように見ただろう…

 六年前と違うのは、私の地位だけ…

 六年前は、一般人だったが、今は、クールの社長夫人…

 大企業のオーナー社長の妻だ…

 それだけが、違う…

 ただ、それは、物凄く大きな違いだった…

 文字通り、天と地の差だった…

 が、

 中身は、六年前と同じ…

 まったく変わらなかった(爆笑)…

                 
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み