第84話
文字数 5,854文字
「…エッ? …葉問? …なにを言っているのですか?…」
「…ごまかすな…葉問…私の目は節穴ではないゾ…」
「…」
「…今のオマエの言葉で、わかったのさ…」
「…ボクの言葉?…」
「…私を利用する、うんぬんの言葉で、わかったのさ…」
「…どういうことですか?…」
「…葉尊なら、絶対に、私を利用するなんて、言葉は、使わないさ…」
「…」
「…葉尊は、そもそも、他人を利用しない…そんなことは、しないし、考えもしないさ…」
「…」
「…だから、それを口にしたことで、オマエが、葉尊ではなく、葉問だと、気付いたのさ…」
私は、言ってやった…
私の言葉に、葉問は、黙った…
少しの間、黙り込んだ…
それから、
「…ホントに、お姉さんには、驚かされる…」
と、実に、楽しそうに、笑いだした…
表情が、実に楽しそうだった…
生き生きとしていた…
葉尊には、ない顔だった…
葉尊も、楽しそうな顔をするが、この葉問の楽しそうな顔とは、違う…
どこが、違うかといえば、葉尊と、違い、葉問の笑いは、どこか、悪魔的といえば、大げさだが、陰があるのだ…
それは、葉問が、葉尊の隠れた人格だからかもしれない…
私は、思った…
葉問は、ジキルとハイドでいえば、ハイドの役割…
表の顔のジキルではない…
裏の顔のハイドだ…
だから、笑いも、どこか、陰があるというか…
プロレスで、いえば、正統派ではない…
ヒール=悪役だ…
が、
皮肉にも、ヒールの方が、人気のあることが、多い…
いわば、悪の魅力というか…
葉問の魅力も同じ…
どこか、悪の匂いのする姿に惹かれるのだ…
それは、この矢田トモコも例外ではない…
例外ではないのだ…
私が、そんなことを、考えていると、
「…お姉さんには、ホント、驚かされる…」
と、葉問が、繰り返した…
「…まさか、あのオスマン殿下の信頼を得られるとは、思わなかった…」
「…なんだと?…」
「…オスマン殿下の存在は、サウジの王室でも、トップシークレット…極秘中の極秘…ごくわずかな人間しか、知らない…」
葉問が、言う…
「…ボクも、その存在を知ったときは、驚きだったし、オスマン殿下は、当然ながら、用心深い…決して、他人に、容易に心を開く人物ではない…それが、お姉さんには、あっさりと、心を開いて…まるで、魔法だ…」
「…魔法だと?…」
「…あの用心深い、オスマン殿下の心を開くとは、今でも、信じられない…」
「…」
「…そして、それこそが、お姉さんの力…矢田トモコの持つ力だと言わざるを得ない…正直、恐れ入る…」
「…」
私は、葉問の言葉を聞きながら、葉問が、ファラドを倒したことを、思い出した…
ファラドは、あのとき、マリアを人質に取って、逃げようとした…
が、
マリアが、ファラドの手を噛んで、逃げ出した…
それを、見た、マリアの母親のバニラが、怒って、ファラドに殴りかかった…
バニラは、元は、ヤンキー…
だから、自分の娘が、人質に取られたことに、激怒して、ファラドに殴りかかったのだ…
が、
いかに、バニラが、大柄でも、ファラドの敵ではなかった…
ファラドは、最初こそ、バニラに圧し負けていたが、すぐに挽回した…
バニラは、呆気なく、ファラドの前に倒れた…
そして、そのバニラを助けたのが、他ならぬ、この葉問だった…
葉問は、すぐに、ファラドをやっつけた…
実をいうと、葉問は、強いとは、思っていたが、ホントに、強いか、どうかは、わからなかった…
が、
この一件で、強いことが、わかった…
頼りになることが、わかった…
が、
それだけだ…
それだけのことに、過ぎん…
この葉問は、どうにも、信用できん…
根っからの悪い男では、ないかも、しれんが、信用できん…
だから、うっかり、葉問の口車に乗っては、大変なことになる…
だから、用心せねば、ならん…
用心せねば、ならんのだ!…
私は、必死になって、自分に言い聞かせた…
半ば、必死になって、自分に言い聞かせた…
そうでも、せねば、私が、葉問に、心を奪われかねなかった…
この矢田トモコとて、女…
葉問の持つ、怪しげな魅力にはまりかけていた…
その、なんとも、胡散臭い魅力の罠にかかるところだったからだ…
私が、内心、そんなことを、考えながら、葉問と、距離を置こうとしていると、
「…なんだか、ボクは、警戒されているようですね…」
と、葉問が、苦笑した…
私は、
「…そうざ…」
と、即座に応じた…
「…オマエは、信用できん…」
私が、断言すると、葉問が、またも、笑った…
「…お姉さん…そんなことを、本人の前で言うのは、お姉さんぐらいです…」
「…なんだと?…」
「…しかも、言われた人間が、まったく、傷つかないというか…言われても、全然、嫌じゃない…そんな芸当が、できるのも、お姉さんぐらいです…」
…なんだ?…
…こいつは?…
…一体、私を褒めているのか?…
…けなしているのか?…
…さっぱり、わからん…
だから、
「…オマエ…それは、私を褒めているのか? それとも、けなしているのか?…」
と、聞いてやった…
すると、葉問は、またも、笑った…
それも、実に、楽しそうに、笑ったのだ…
「…もちろん、褒めているに、決まっているじゃないですか?…」
葉問が、あっさりと言う…
「…それになにより、お姉さんは、葉尊の妻…ボクの義理の姉です…」
…たしかに、言われてみれば、その通り…
…その通りだった…
葉問は、葉尊の一卵性双生児の弟…
が、
本物の葉問は、すでに、事故で死んでいる…
葉尊のした、いたずらで、死んでいる…
そのことで、心に傷を負った葉尊が、知らず知らずの内に、自分の中に、作り出した、もう一つの人格…それが、葉問だった…
つまりは、葉尊は、自分の不注意で、死なせた葉問を、自分の力で、再生したのだ…
生き返らせたのだった…
「…自分の義理の姉の悪口を言うわけはないじゃ、ありませんか?…」
葉問は、屈託なく笑った…
「…葉尊(ようそん)という名前は、父の葉敬(ようけい)が、息子が、周囲から尊敬される人間になれるようにと、つけました…真逆に、葉問(ようもん)という名前は、学問で、身が立てられるようにと、つけました…」
葉問が、語る…
「…が、実際は、まったく、うまくいきませんでした…葉尊は、ともかく、この葉問は、まったく学問とは、無縁…問という名前が、実に、皮肉に聞こえます…」
「…」
「…ですが、この問にも、少しばかり、他人様の役に立つことが、できます…」
「…なんだ、それは?…」
「…お姉さんの力になることです…」
「…私の力に?…」
「…そうです…」
私は、その言葉で、考えた…
そういえば、この前、ファラドに襲われかかったときに、助けたのが、この葉問だった…
私は、それを思い出した…
「…まあ、オマエでも、少しは、私の役に立つことが、あるかもしれん…」
と、私は、少しばかり、葉問を認めてやった…
あくまで、少しばかりだ…
そして、
「…そういえば、葉問…」
「…なんですか?…」
「…あの場所に現れたのは、リンダに頼まれたからか?…」
私の質問に、
「…」
と、葉問は、黙った…
答えなかった…
「…どうした? なぜ、答えん?…」
「…お姉さん…」
「…なんだ?…」
「…ボクにも、言えないことが、あるんです…」
「…言えないことだと? …だったら、ウソでも、なんでも、言えば、いいじゃないか?…」
「…お姉さんに、ウソは、つけません…」
「…どうしてだ? …どうして、つけない?…」
「…お姉さんは、純真無垢です…お姉さんを騙すのは、自分の良心が、許しません…」
「…オマエの良心だと?…」
「…ハイ…」
「…そんなものが、あるのか?…」
「…あります…」
「…どこにある?…」
「…お姉さんを助けたのが、その証明です…」
「…私を助けたことだと?…」
たしかに、そうだ…
私は、この葉問に助けられた…
この葉問が、私を助けなければ、私は、呆気なく、あのファラドにやられていた…
それを、思えば、やはり、この葉問に感謝するところだった…
「…あのときは、すまんかった…」
私は、葉問に礼を言った…
「…助けてもらって、すまんかった…」
「…いえ、どういたしまして…」
葉問が、笑った…
「…たいしたことでは、ありません…」
「…そうか…」
私は、答えた…
「…お姉さんの役に立って、良かったです…」
葉問が、屈託なく笑った…
「…私の役に立って、良かっただと?…」
「…ハイ…」
「…なぜ、良かったんだ?…」
「…お姉さんを利用できるからです…」
「…私を利用できるからだと?…」
「…お姉さんは、いつも言うように、誰からも愛されるんです…オスマン殿下からも…葉敬からも…一度でも、お姉さんに接すると、お姉さんの持つ魅力の虜(とりこ)に、なります…」
「…私の魅力の虜(とりこ)だと? …そんなものは、ないさ…」
「…あります…」
「…ないさ…」
「…あります…」
「…どうして、わかる?…」
「…今も言ったように、誰からも好かれるからです…」
「…」
「…嫌われる人間は、どこに行っても、嫌われる…お姉さんは、真逆です…」
「…私は、真逆?…」
「…それゆえ、お姉さんを敵に回すことは、できません…」
「…どうして、できない?…」
「…お姉さんを敵に回せば、同時に、皆が、お姉さんに、同調します…つまり、お姉さんを慕う人間すべてを敵に回すことになります…」
「…」
「…つまりは、お姉さんの周りにいるすべての人間…葉敬も、葉尊も、リンダも、バニラも、マリアも、オスマン殿下もすべてです…すべての人間が、この葉問の敵に回ります…そんな愚は、冒せません…」
葉問が、笑った…
が、
その葉問の笑いを見て、考えた…
一体、どうして、この葉問が、私の前に現れたかのか?
考えたのだ…
当然、理由がある…
当然、目的があるからだ…
一体、どんな理由が?…
やはり、オスマン殿下か?
考えた…
あのとき、この葉問は、オスマン殿下を、守った…
つまりは、あの件で、この葉問は、オスマン殿下の信頼を得たのかもしれん…
もしかしたら、それが、狙いか?
それが、狙いで、あのとき、オスマン殿下の前に現れたのかも、しれん…
オスマン殿下の信頼を得るために、現れたのかも、しれんのだ…
そのことに、気付いた私は、
「…オスマン殿下?…」
と、聞いた…
「…オスマン殿下? なにが、オスマン殿下なのですか?…」
「…あのとき、現れた理由さ…ひょっとして、葉問…オマエは、オスマン殿下の信頼を得るために、あのタイミングで、現れたんじゃないか?…」
「…どういう意味ですか?…」
「…オスマン殿下が、危機に陥ることは、あらかじめ、わかっていたはずさ…だから、あのタイミングで、現れて、オスマン殿下を救えば、オマエは、オスマン殿下の信頼を得られると、思ったんじゃないか?…」
私の言葉に、
「…」
と、破門は、沈黙した…
沈黙が、肯定を意味した…
私の指摘が、正しいことを示していた…
「…どうだ? …その通りだろ?…」
私は、勝ち誇って、言った…
が、
葉問は、
「…オスマン殿下は、そんな単純な人間じゃありませんよ…」
と、笑った…
「…なんだと?…」
「…ボクは、お姉さんとは、違うんです?…」
「…私とは、違う? …どういう意味だ?…」
「…お姉さんだから、オスマン殿下は、信頼できるんです…」
「…私だから、信頼できるだと?…どうしてだ? 私は、たかだか、オスマン殿下と、AKBの恋するフォーチュンクッキーを踊っただけだ? オマエは、オスマン殿下の危機を助けたじゃないか? 私より、はるかに、オスマン殿下の役に立ったはずだ?…」
「…だから、それは、お姉さんだからです…」
「…私だから?…」
「…あのときは、ファラドを倒すことで、お姉さんを助け、結果的に、オスマン殿下を助けることになりました…」
「…オマエの言う通りさ…」
「…ですが、ボクが、助けずとも、別になんの問題もありませんでした…」
「…どういう意味だ?…」
「…思い出して下さい…あのときは、園児の保護者に化けたオスマン殿下の配下の者や、お菓子を配る者に扮したオスマン殿下の配下の者ばかりでした…だから、ボクが、ファラドを倒さずとも、ファラドに逃げ場は、ありませんでした…」
…たしかに、その通りだった…
あの場は、すべて、オスマン殿下の配下の者で、一杯だった…
たとえ、あの場に葉問が、現れずとも、ファラドが、無事にすむはずが、なかった…
「…だから、オスマン殿下は、ボクに感謝なんか、しません…いや、仮に、感謝しても、それと、ボクが、信頼できる人間と、オスマン殿下が、認めるか、否かとは、なんの関係もありません…」
「…」
「…お姉さん…」
「…なんだ?…」
「…ボクは、お姉さんが、羨ましい…」
「…どうして、私が、羨ましいんだ?…」
「…誰かも好かれる…そして、ひとは、誰もが、お姉さんのように、誰からも好かれたい…嫌われたくない…」
「…」
「…でも、お姉さんは、天衣無縫というか…自分が、まるで、意識しないのに、誰からも好かれる…そんな人間は、お姉さんぐらいのものです…」
「…」
「…オスマン殿下が、信頼するのも、納得です…」
葉問が、言った…
「…お姉さん?…」
「…なんだ?…」
「…また、会いましょう…」
それだけ言うと、葉問が消えた…
葉問が、あっさりと、消えて、葉尊になった…
葉尊は、
「…なにか、あったんですか? …お姉さん?…」
と、きょとんとした顔で、私に聞いた…
「…なんでもない…なんでもないさ…」
と、私は、葉尊に、答えた…
私の十八番の言葉だった…
葉尊は、納得しなかったろうが、それ以上は、私に聞かなかった…
私もまた、葉尊に聞かなかったことがある…
どうして、今のタイミングで、葉問が、現れたということだ…
葉尊の許可がなければ、葉問は、出現することが、できないと、思っているからだ…
が、
聞かなかった…
どこの夫婦でも、秘密の一つや二つは、ある…
互いのパートナーに伝えてない秘密は、ある…
これも、同じだった…
私と葉尊の間にも、互いに伝えてない秘密があるということだった…
「…ごまかすな…葉問…私の目は節穴ではないゾ…」
「…」
「…今のオマエの言葉で、わかったのさ…」
「…ボクの言葉?…」
「…私を利用する、うんぬんの言葉で、わかったのさ…」
「…どういうことですか?…」
「…葉尊なら、絶対に、私を利用するなんて、言葉は、使わないさ…」
「…」
「…葉尊は、そもそも、他人を利用しない…そんなことは、しないし、考えもしないさ…」
「…」
「…だから、それを口にしたことで、オマエが、葉尊ではなく、葉問だと、気付いたのさ…」
私は、言ってやった…
私の言葉に、葉問は、黙った…
少しの間、黙り込んだ…
それから、
「…ホントに、お姉さんには、驚かされる…」
と、実に、楽しそうに、笑いだした…
表情が、実に楽しそうだった…
生き生きとしていた…
葉尊には、ない顔だった…
葉尊も、楽しそうな顔をするが、この葉問の楽しそうな顔とは、違う…
どこが、違うかといえば、葉尊と、違い、葉問の笑いは、どこか、悪魔的といえば、大げさだが、陰があるのだ…
それは、葉問が、葉尊の隠れた人格だからかもしれない…
私は、思った…
葉問は、ジキルとハイドでいえば、ハイドの役割…
表の顔のジキルではない…
裏の顔のハイドだ…
だから、笑いも、どこか、陰があるというか…
プロレスで、いえば、正統派ではない…
ヒール=悪役だ…
が、
皮肉にも、ヒールの方が、人気のあることが、多い…
いわば、悪の魅力というか…
葉問の魅力も同じ…
どこか、悪の匂いのする姿に惹かれるのだ…
それは、この矢田トモコも例外ではない…
例外ではないのだ…
私が、そんなことを、考えていると、
「…お姉さんには、ホント、驚かされる…」
と、葉問が、繰り返した…
「…まさか、あのオスマン殿下の信頼を得られるとは、思わなかった…」
「…なんだと?…」
「…オスマン殿下の存在は、サウジの王室でも、トップシークレット…極秘中の極秘…ごくわずかな人間しか、知らない…」
葉問が、言う…
「…ボクも、その存在を知ったときは、驚きだったし、オスマン殿下は、当然ながら、用心深い…決して、他人に、容易に心を開く人物ではない…それが、お姉さんには、あっさりと、心を開いて…まるで、魔法だ…」
「…魔法だと?…」
「…あの用心深い、オスマン殿下の心を開くとは、今でも、信じられない…」
「…」
「…そして、それこそが、お姉さんの力…矢田トモコの持つ力だと言わざるを得ない…正直、恐れ入る…」
「…」
私は、葉問の言葉を聞きながら、葉問が、ファラドを倒したことを、思い出した…
ファラドは、あのとき、マリアを人質に取って、逃げようとした…
が、
マリアが、ファラドの手を噛んで、逃げ出した…
それを、見た、マリアの母親のバニラが、怒って、ファラドに殴りかかった…
バニラは、元は、ヤンキー…
だから、自分の娘が、人質に取られたことに、激怒して、ファラドに殴りかかったのだ…
が、
いかに、バニラが、大柄でも、ファラドの敵ではなかった…
ファラドは、最初こそ、バニラに圧し負けていたが、すぐに挽回した…
バニラは、呆気なく、ファラドの前に倒れた…
そして、そのバニラを助けたのが、他ならぬ、この葉問だった…
葉問は、すぐに、ファラドをやっつけた…
実をいうと、葉問は、強いとは、思っていたが、ホントに、強いか、どうかは、わからなかった…
が、
この一件で、強いことが、わかった…
頼りになることが、わかった…
が、
それだけだ…
それだけのことに、過ぎん…
この葉問は、どうにも、信用できん…
根っからの悪い男では、ないかも、しれんが、信用できん…
だから、うっかり、葉問の口車に乗っては、大変なことになる…
だから、用心せねば、ならん…
用心せねば、ならんのだ!…
私は、必死になって、自分に言い聞かせた…
半ば、必死になって、自分に言い聞かせた…
そうでも、せねば、私が、葉問に、心を奪われかねなかった…
この矢田トモコとて、女…
葉問の持つ、怪しげな魅力にはまりかけていた…
その、なんとも、胡散臭い魅力の罠にかかるところだったからだ…
私が、内心、そんなことを、考えながら、葉問と、距離を置こうとしていると、
「…なんだか、ボクは、警戒されているようですね…」
と、葉問が、苦笑した…
私は、
「…そうざ…」
と、即座に応じた…
「…オマエは、信用できん…」
私が、断言すると、葉問が、またも、笑った…
「…お姉さん…そんなことを、本人の前で言うのは、お姉さんぐらいです…」
「…なんだと?…」
「…しかも、言われた人間が、まったく、傷つかないというか…言われても、全然、嫌じゃない…そんな芸当が、できるのも、お姉さんぐらいです…」
…なんだ?…
…こいつは?…
…一体、私を褒めているのか?…
…けなしているのか?…
…さっぱり、わからん…
だから、
「…オマエ…それは、私を褒めているのか? それとも、けなしているのか?…」
と、聞いてやった…
すると、葉問は、またも、笑った…
それも、実に、楽しそうに、笑ったのだ…
「…もちろん、褒めているに、決まっているじゃないですか?…」
葉問が、あっさりと言う…
「…それになにより、お姉さんは、葉尊の妻…ボクの義理の姉です…」
…たしかに、言われてみれば、その通り…
…その通りだった…
葉問は、葉尊の一卵性双生児の弟…
が、
本物の葉問は、すでに、事故で死んでいる…
葉尊のした、いたずらで、死んでいる…
そのことで、心に傷を負った葉尊が、知らず知らずの内に、自分の中に、作り出した、もう一つの人格…それが、葉問だった…
つまりは、葉尊は、自分の不注意で、死なせた葉問を、自分の力で、再生したのだ…
生き返らせたのだった…
「…自分の義理の姉の悪口を言うわけはないじゃ、ありませんか?…」
葉問は、屈託なく笑った…
「…葉尊(ようそん)という名前は、父の葉敬(ようけい)が、息子が、周囲から尊敬される人間になれるようにと、つけました…真逆に、葉問(ようもん)という名前は、学問で、身が立てられるようにと、つけました…」
葉問が、語る…
「…が、実際は、まったく、うまくいきませんでした…葉尊は、ともかく、この葉問は、まったく学問とは、無縁…問という名前が、実に、皮肉に聞こえます…」
「…」
「…ですが、この問にも、少しばかり、他人様の役に立つことが、できます…」
「…なんだ、それは?…」
「…お姉さんの力になることです…」
「…私の力に?…」
「…そうです…」
私は、その言葉で、考えた…
そういえば、この前、ファラドに襲われかかったときに、助けたのが、この葉問だった…
私は、それを思い出した…
「…まあ、オマエでも、少しは、私の役に立つことが、あるかもしれん…」
と、私は、少しばかり、葉問を認めてやった…
あくまで、少しばかりだ…
そして、
「…そういえば、葉問…」
「…なんですか?…」
「…あの場所に現れたのは、リンダに頼まれたからか?…」
私の質問に、
「…」
と、葉問は、黙った…
答えなかった…
「…どうした? なぜ、答えん?…」
「…お姉さん…」
「…なんだ?…」
「…ボクにも、言えないことが、あるんです…」
「…言えないことだと? …だったら、ウソでも、なんでも、言えば、いいじゃないか?…」
「…お姉さんに、ウソは、つけません…」
「…どうしてだ? …どうして、つけない?…」
「…お姉さんは、純真無垢です…お姉さんを騙すのは、自分の良心が、許しません…」
「…オマエの良心だと?…」
「…ハイ…」
「…そんなものが、あるのか?…」
「…あります…」
「…どこにある?…」
「…お姉さんを助けたのが、その証明です…」
「…私を助けたことだと?…」
たしかに、そうだ…
私は、この葉問に助けられた…
この葉問が、私を助けなければ、私は、呆気なく、あのファラドにやられていた…
それを、思えば、やはり、この葉問に感謝するところだった…
「…あのときは、すまんかった…」
私は、葉問に礼を言った…
「…助けてもらって、すまんかった…」
「…いえ、どういたしまして…」
葉問が、笑った…
「…たいしたことでは、ありません…」
「…そうか…」
私は、答えた…
「…お姉さんの役に立って、良かったです…」
葉問が、屈託なく笑った…
「…私の役に立って、良かっただと?…」
「…ハイ…」
「…なぜ、良かったんだ?…」
「…お姉さんを利用できるからです…」
「…私を利用できるからだと?…」
「…お姉さんは、いつも言うように、誰からも愛されるんです…オスマン殿下からも…葉敬からも…一度でも、お姉さんに接すると、お姉さんの持つ魅力の虜(とりこ)に、なります…」
「…私の魅力の虜(とりこ)だと? …そんなものは、ないさ…」
「…あります…」
「…ないさ…」
「…あります…」
「…どうして、わかる?…」
「…今も言ったように、誰からも好かれるからです…」
「…」
「…嫌われる人間は、どこに行っても、嫌われる…お姉さんは、真逆です…」
「…私は、真逆?…」
「…それゆえ、お姉さんを敵に回すことは、できません…」
「…どうして、できない?…」
「…お姉さんを敵に回せば、同時に、皆が、お姉さんに、同調します…つまり、お姉さんを慕う人間すべてを敵に回すことになります…」
「…」
「…つまりは、お姉さんの周りにいるすべての人間…葉敬も、葉尊も、リンダも、バニラも、マリアも、オスマン殿下もすべてです…すべての人間が、この葉問の敵に回ります…そんな愚は、冒せません…」
葉問が、笑った…
が、
その葉問の笑いを見て、考えた…
一体、どうして、この葉問が、私の前に現れたかのか?
考えたのだ…
当然、理由がある…
当然、目的があるからだ…
一体、どんな理由が?…
やはり、オスマン殿下か?
考えた…
あのとき、この葉問は、オスマン殿下を、守った…
つまりは、あの件で、この葉問は、オスマン殿下の信頼を得たのかもしれん…
もしかしたら、それが、狙いか?
それが、狙いで、あのとき、オスマン殿下の前に現れたのかも、しれん…
オスマン殿下の信頼を得るために、現れたのかも、しれんのだ…
そのことに、気付いた私は、
「…オスマン殿下?…」
と、聞いた…
「…オスマン殿下? なにが、オスマン殿下なのですか?…」
「…あのとき、現れた理由さ…ひょっとして、葉問…オマエは、オスマン殿下の信頼を得るために、あのタイミングで、現れたんじゃないか?…」
「…どういう意味ですか?…」
「…オスマン殿下が、危機に陥ることは、あらかじめ、わかっていたはずさ…だから、あのタイミングで、現れて、オスマン殿下を救えば、オマエは、オスマン殿下の信頼を得られると、思ったんじゃないか?…」
私の言葉に、
「…」
と、破門は、沈黙した…
沈黙が、肯定を意味した…
私の指摘が、正しいことを示していた…
「…どうだ? …その通りだろ?…」
私は、勝ち誇って、言った…
が、
葉問は、
「…オスマン殿下は、そんな単純な人間じゃありませんよ…」
と、笑った…
「…なんだと?…」
「…ボクは、お姉さんとは、違うんです?…」
「…私とは、違う? …どういう意味だ?…」
「…お姉さんだから、オスマン殿下は、信頼できるんです…」
「…私だから、信頼できるだと?…どうしてだ? 私は、たかだか、オスマン殿下と、AKBの恋するフォーチュンクッキーを踊っただけだ? オマエは、オスマン殿下の危機を助けたじゃないか? 私より、はるかに、オスマン殿下の役に立ったはずだ?…」
「…だから、それは、お姉さんだからです…」
「…私だから?…」
「…あのときは、ファラドを倒すことで、お姉さんを助け、結果的に、オスマン殿下を助けることになりました…」
「…オマエの言う通りさ…」
「…ですが、ボクが、助けずとも、別になんの問題もありませんでした…」
「…どういう意味だ?…」
「…思い出して下さい…あのときは、園児の保護者に化けたオスマン殿下の配下の者や、お菓子を配る者に扮したオスマン殿下の配下の者ばかりでした…だから、ボクが、ファラドを倒さずとも、ファラドに逃げ場は、ありませんでした…」
…たしかに、その通りだった…
あの場は、すべて、オスマン殿下の配下の者で、一杯だった…
たとえ、あの場に葉問が、現れずとも、ファラドが、無事にすむはずが、なかった…
「…だから、オスマン殿下は、ボクに感謝なんか、しません…いや、仮に、感謝しても、それと、ボクが、信頼できる人間と、オスマン殿下が、認めるか、否かとは、なんの関係もありません…」
「…」
「…お姉さん…」
「…なんだ?…」
「…ボクは、お姉さんが、羨ましい…」
「…どうして、私が、羨ましいんだ?…」
「…誰かも好かれる…そして、ひとは、誰もが、お姉さんのように、誰からも好かれたい…嫌われたくない…」
「…」
「…でも、お姉さんは、天衣無縫というか…自分が、まるで、意識しないのに、誰からも好かれる…そんな人間は、お姉さんぐらいのものです…」
「…」
「…オスマン殿下が、信頼するのも、納得です…」
葉問が、言った…
「…お姉さん?…」
「…なんだ?…」
「…また、会いましょう…」
それだけ言うと、葉問が消えた…
葉問が、あっさりと、消えて、葉尊になった…
葉尊は、
「…なにか、あったんですか? …お姉さん?…」
と、きょとんとした顔で、私に聞いた…
「…なんでもない…なんでもないさ…」
と、私は、葉尊に、答えた…
私の十八番の言葉だった…
葉尊は、納得しなかったろうが、それ以上は、私に聞かなかった…
私もまた、葉尊に聞かなかったことがある…
どうして、今のタイミングで、葉問が、現れたということだ…
葉尊の許可がなければ、葉問は、出現することが、できないと、思っているからだ…
が、
聞かなかった…
どこの夫婦でも、秘密の一つや二つは、ある…
互いのパートナーに伝えてない秘密は、ある…
これも、同じだった…
私と葉尊の間にも、互いに伝えてない秘密があるということだった…