第168話

文字数 4,516文字

 私は、恐る恐る、部屋に入った…

 部屋のドアを開けて、中に入った…

 …たしか、葉問の話では、誰か、着付けの方が来ている…

 と、言っていた…

 が、

 誰もいなかった…

 ひとの気配が、しなかったのだ…

 …これは、おかしい…

 …これは、変だ…

 と、思ったときだった…

 「…随分、遅かったな…待ちかねたゾ…」

 という声が聞こえた…

 聞き覚えのある声だった…

 いや、

 もっと、言えば、聞きたくない声だった…

 その声の主は、どんなときでも、上から目線の女だった…

 なぜ、上から目線だといえば、お嬢様だからだ…

 生粋のお嬢様だったからだ…

 生粋のお嬢様にも、かかわらず、外見は、この矢田トモコに、そっくり…

 そっくり=瓜二つだった…

 厳密に、言えば、この矢田トモコの方が、このそっくりさんよりも、一㎝ぐらい背が高い…

 が、

 それは、二人が、並んだから、わかること…

 街中で、偶然、見かければ、区別が、つかない…

 それほど、似ている…

 それほど、私そっくり…

 この矢口トモコは、私そっくりだった(笑)…

 「…お嬢様…」

 私は、唖然として、声をかけた…

 「…どうして、お嬢様が、ここに?…」

 言いながら、会いたくない女と、会ってしまったと、思った…

 絶対、会いたくない女と、会ってしまったと、悔いた…

 嘆いた…

 自分の身の不運を嘆いたのだ…

 すると、

 「…そんな嬉しそうな顔をするな…矢田…」

 と、いつもの上から目線で、お嬢様が、皮肉を言った…

 いつものことだった(苦笑)…

 「…今日は、オマエの晴れの舞台だ…私もなにか、してやりたくてな…」

 …晴れの舞台?…

 …離婚式が、晴れの舞台?…

 意味が、わからんかった…

 が、
 
 少し考えて、わかった…

 この平凡な矢田トモコが、例え、離婚式といえども、帝国ホテルで、なにか、行うことは、二度とない…

 そういうことだ…

 だから、晴れの舞台なのだろう…

 私は、納得した…

 そう、考えれば、納得するしか、なかった…

 しかし、

 しかし、だ…

 今さらと、いうか…

 このお嬢様とは、会いたくなかった…

 ハッキリ言えば、生涯二度と会いたくなかった…

 なぜ、会いたくないかと、問われれば、このお嬢様が、やって来て、いい思いをしたことは、一度もなかったからだ…

 いつも、いつも、利用された(涙)…

 なにしろ、ルックスが瓜二つ…

 だからだ…

 このお嬢様が、国家元首であれば、私は影武者…

 なにか、あれば、殺される…

 テロにでも、あいかねない損な役回り…

 それが、この矢田トモコの役割だったのだ(涙)…

 だから、そんな私の天敵のような女が、現れて、

 「…今日は、オマエの晴れの舞台だ…私もなにか、してやりたくてな…」

 と、言われても、信じることは、できんかった…

 絶対、できんかったのだ…

 …この女、一体、なにを目的に、ここに現れた?…

 と、考えた…

 考えずには、いられんかったからだ…

 私は、私の細い目を、さらに、細めて、見た…

 この私そっくりの矢口トモコを見たのだ…

 すると、だ…

 「…矢田…そんなに目を細めるな…目がなくなって、しまうゾ…」

 と、矢口のお嬢様が、私に、言った…

 …なんだと?…

 私そっくりの顔のくせに、言うに事欠いて、この矢田の目の細いことを、あげつらうとは?

 …許せん!…

 私は、思った…

 だから、私は、さらに目を細めた…

 目を細めて、この矢口トモコを見た…

 ガンを飛ばしたのだ…

 が、

 やはりというか…

 この矢口トモコは、この矢田を無視した…

 当然というか…

 この矢田トモコを、まったく相手にしていなかった…

 いつものことだった(怒)…

 「…そんなことより、矢田…どれがいい?…」

 矢口トモコが、聞く…

 「…どれと、言うと?…」

 「…着物だ…着物…この後のパーティーの…」

 「…着物?…」

 そうだ…

 着物だ…

 この部屋にやってきたのは、これから始まる離婚式の際に着る、着物を選ぶためだった…

 今さらながら、気付いた…

 「…葉尊さんの要望で、着物を用意したそうだが、いくらなんでも、多すぎる…」

 矢口のお嬢様が、言う…

 「…百着は、優に超えるゾ…これでは、オマエも、選ぶのが、大変だから、私が、選んでおいた…その中から、選べ…」

 矢口のお嬢様が、例によって、上から目線で、言った…

 私は、その言葉に、なにも、言わんかった…

 が、

 ハッキリ言って、嫌な予感がした…

 いや、

 もっと、ハッキリ言えば、嫌な予感しか、しなかったというか…

 大体、このお嬢様が、着物を選んだと言うと、わざと、この矢田に変なモノを着せようとするのか? と、訝った…

 が、

 さすがに、それを口にすることは、できん…

 できんかった…

 だから、仕方なく、

 「…お嬢様…ありがとうございました…」

 と、言いながらも、このお嬢様が、選んでないほうの、着物を見ようと、思った…

 どうせ、このお嬢様が、選んだ着物に、ろくなものは、ないからだ…

 が、

 それを見て、当然のことながら、

 「…矢田…そっちじゃない…それは、私が、外したほうだ…」

 と、お嬢様が、声を上げた…

 …バカ、だから、そっちを見ようとしたんじゃないか!…

 …アンタが選んだのは、信用できんからだ!…

 と、思ったが、さすがに、それは、口にできんかった…

 だから、

 「…スイマセン…間違いました…」

 と、詫びた…

 詫びながら、仕方なく、この矢口のお嬢様が、セレクトした着物を見た…

 どうせ、ロクなものは、あるまいと、思いながら、見た…

 …まあ、少しばかり、このお嬢様が、セレクトした着物を、見てから、

 「…自分には、たぶん、お嬢様が、外した着物の方が、自分に合う気がします…」

 とか、なんとか、調子のいいことを、言えば、いいと、思った…

 なにしろ、このお嬢様とも、今日を最後に、会う機会はあるまい…

 いや、

 ひょっとすると、私は、お嬢様そっくりだから、この先も、この矢田を影武者として、利用するかもしれん…

 が、

 そのときは、そのとき…

 うまく、断れば、いい(笑)…

 もはや、葉尊と離婚すれば、ある意味、自分勝手にできる…

 葉尊の妻であれば、会社同士というか…

 葉尊の会社である、日本の総合電機メーカー、クールと、矢口のお嬢様の会社である、安売りスーパー、スーパージャパンの関係もあるから、この先、このお嬢様と、縁を切ることはできないというか…

 関係を断つことが、できない…

 が、

 葉尊と離婚すれば、違う…

 なんの関係もない…

 だから、このお嬢様のアドバイスを無視して、着物を選べば、いいと、思った…

 真逆に言えば、もしも、私が、葉尊の妻を続けるのであれば、この矢口のお嬢様のアドバイスを無視できない…

 ホントは、嫌でも、このお嬢様が、セレクトした着物の中から、選ばなければ、ならないと、思った…

 そして、私は、そんなことを、考えながら、渋々、このお嬢様が、セレクトした、着物を見た…

 が、

 意外というか…

 結構、良かった…

 ハッキリ言って、素晴らしかった…

 この矢田は、すでに35歳…

 お世辞にも、若くはない…

 だから、派手な色や柄の着物は、似合わない…

 例えば、二十歳の成人式に着る着物を着ることはできない…

 当たり前のことだ…

 年齢には、年齢に、ふさわしい、服というものが、ある…

 別の言い方をすれば、どんな美人も、年齢に抗うことは、できない…

 35歳の美人が、20歳の美人と、同じ格好をすることは、できないということだ…

 この点は、男の方が、上というか…

 35歳のイケメンと、20歳のイケメンが、同じ服を着ても、女に比べると、違和感が、少ないというか…

 そして、そんなことを、考えていると、ふと、以前、一度だけだが、このお嬢様の住む豪邸を訪れたときのことを、思い出した…

 あのとき、この矢口のお嬢様は、ターナーとかいう絵を私に見せた…

 あの絵は、正直に言って、私から見れば、全体が、ボンヤリとした冴えない絵だと、思ったが、世界的な名画で、値段は、なんと、60億円だと、このお嬢様が、無造作に語った…

 私は、それを聞いて、目ん玉が、飛ぶ出るほど、驚いた…

 それを、思い出した…

 つまり、このお嬢様は、芸術を見る力があると、いうことだ…

 そして、この着物を選ぶという作業もまた、芸術を見る力と、同じ…

 つまりは、優れたものを、見つける目を持つということだ…

 私は、思った…

 思いながら、今度は、真剣に、私は、お嬢様が、選んだ、着物を、見た…


 結局、私は、お嬢様が、選んだ着物の中から、自分の気に入った着物を選んだ…

 派手過ぎず、華やか過ぎず…

 落ち着いた、それでいて、品のある絵柄の着物だった…

 私は、それを選んで、

 「…これに、決めます…」

 と、お嬢様に告げた…

 「…矢田…オマエも、案外、見る目があるな…」

 お嬢様が、珍しく私を褒めた…

 「…アタシも、それが、一番、オマエに似合うと思う…」

 「…ありがとうございます…」

 「…よし…じゃ、早速着付けに移ろう…」

 「…着付けに移る? …でも、それは、お嬢様が、なさるのでは?…」

 「…私は、ただ、オマエが、着る着物を選んだだけだ…着付けは、専門の方がやる…」

 そういうと、部屋の奥から、五十代ぐらいの女性が、出てきた…

 「…着付けを頼みます…」

 お嬢様が、頭を下げた…

 それを、見て、私も、頭を下げた…

 「…よろしく、お願いします…」

 「…ハイ…こちらこそ…」

 その女性が、挨拶した…

 私は、部屋の隅に、移り、その女性の助けを借りて、着物に着替えた…

 が、

 髪は、そのままだった…

 ホントは、髪も、着物に、ふさわしく、結い直さなければ、ならないのだが、時間が、なかったからだ…

 私は、髪までは、考えんかったが、着付けの女性が、

 「…ホントは、髪の方も、手を入れたかったんですが、時間が…」

 と、言ったので、それに、気付いた…

 たしかに、成人式ではないが、着物に着替えれば、髪も、それにふさわしいものに変えるものだ…

 それを、すっかり、忘れていた…

 が、

 私は、まったく、気にせんかった…

 それは、なぜかと、言えば、私は、自分の容姿に、自信がないというか…

 美人でないことが、わかっているからだ(涙)…

 まして、身近に、あのリンダと、バニラが、いる…

 絶世の美女が、二人いる…

 だから、それを間近に見れば、自分の立ち位置が、わかるというか…

 一般人よりも、はるかに、よくわかる(笑)…

 だから、気にせんかった…

 だから、私は、ただ、着付けの女性が、一生懸命に、私の着付けをしている最中に、無言で、いたというか…

 無心でいた…

 最初は、近くで、私の着付けを見ていた、矢口のお嬢様の視線が、気になったが、そのうちに、その視線にも、慣れ、気にならなくなった…

 私は、ただ、お人形ではないが、その場に立ったまま、着付けの女性にされるがままだった…

 ただ、時間が経った…

 ただ、時間が、流れた…

 そして、その時間が、終わったときに、これから、離婚式が、始まるのだろ、思った…

 葉尊たちと、別れるのだと、認識した…

               
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