第46話
文字数 6,035文字
…バカな男だ…
…葉問、見損なったゾ…
私は、思った…
この葉問は、夫の葉尊に比べて、やんちゃというか…
葉尊には、悪いが、頼りがいがある…
おそらく、葉尊の方が、頭がいいに違いないが、葉尊は、頼りない…
だから、葉問の方が優れて見える…
そういうことだ…
実際、そんなことは、世の中にありふれている…
たとえ、東大を出ていても、頼りなかったりすると、仕事の上でも、しっかりした高卒の人間の方が使えると、思う場面は、たびたび遭遇する…
それと、同じだ…
が、
本当のことをいえば、仕事に関して、東大出の頭脳を使うことができなかったことが、原因だとも思える…
東大出の優秀な頭脳を生かすことができなかったのが、原因だとも、思える…
そして、残念ながら、いかに東大を出ていようと、その優れた頭脳を生かせる仕事や職場は、案外少ない…
そういうことだ…
たとえ、中卒や高卒でも、その仕事ができれば、なんの問題もない…
ただ、学歴がないと、可哀そうだが、大きな会社だと、出世が難しいだけだ…
つまり、末端の仕事ならば、飲み込みが早く、手が早ければできるが、マネジメントができない…
そういうことだ…
だから、出世ができない…
そういうことだ…
私は、目の前の葉問を見ながら、そんなことを、考えた…
いつものことだった(笑)…
「…なあ、葉問…」
「…なんですか?…」
「…オマエは、ファラドのことを、どう思う? クールを狙ってくると、思うか?…」
「…それは、ボクには、わかりません…」
「…そうだ…そうだな…」
「…ただ…」
「…ただ、なんだ?…」
「…すでに、動きはあるようです…」
「…動き? …どんな動きだ?…」
「…バニラの娘のマリアの通う保育園に、やって来た子供です…」
「…どういう意味だ?…」
「…あれは、ファラドの先兵です…」
「…先兵? …どういう意味だ?…」
「…おそらく、その子供をきっかけに、バニラに接触しようとしているんです…」
「…バニラに?…」
「…ハイ…おそらく、その子供に、わざとマリアにイジワルをしろとでも、言っているのかもしれません…」
「…どういうことだ?…」
「…そうすれば、いずれ、母親のバニラが出てくる…」
「…だが、バニラは、顔バレすると、マズいから、保育園には、直接、顔は出さないと言っていたゾ…」
「…たしかに、顔は出さないかもしれません…ですが、マリアをイジメている子供が、どんな子だか、見てみたい…それが、母親でしょ?…」
「…」
「…相手は、それを狙っているんです…」
「…」
「…お姉さん…」
「…なんだ?…」
「…戦争に、きれいも汚いもありません…」
「…なにが、言いたい?…」
「…ファラドは、クールを狙っている…あるいは、お姉さんを狙っている…もしかしたら、それだけじゃなく、バニラもリンダも狙っているかもしれません…」
「…」
「…クールの株を買い占めて、買収するのが、正攻法ですが、葉敬が、株を売らざるを得ないように、仕向けるかもしれません…」
「…それが、葉問…オマエの言う、戦争に、きれいも汚いもないということか?…」
「…その通りです…」
「…葉問…オマエ、考え過ぎだ…」
私は、葉問を笑った…
「…葉問…オマエの言うことは、わかる…だが、考え過ぎだ…」
「…そうでしょうか?…」
「…オマエの言うことは、わかる…だが、仮にバニラが、娘のマリアの身が心配で、マリアをイジメる子を、見に行ったとする…そこで、バニラを見つけて、拉致するとでも、いうのか?…」
「…拉致は、ないでしょう…」
「…だろ?…」
「…ですが、バニラと接触する機会は、得ます…」
「…接触する機会?…」
「…そうです…それで、ファラドと食事をして、なんらかのよい条件を提示して、葉敬を裏切らせることも考えられます…」
「…葉敬を裏切らせる? …まさか?…」
「…そのまさかも、想定の範囲内です…」
「…想定の範囲内だと?…」
「…たぶん…つまりは、転職の勧めです…」
「…転職だと?…」
「…今の会社で、いくらもらってますか? …うちへ来れば、もっと上げますよ、とでも言った話でしょう…」
「…」
「…そう言われれば、心を動かす人間も多い…ファラドの狙いは、たぶん、それです…」
「…」
「…お姉さんも、十分、気を付けることです…」
「…私が? …私は、大丈夫さ…」
「…どうして、大丈夫なんですか? …」
「…私は、リンダでも、バニラでもない…私を口説いたところで、なにもないさ…」
「…ですが、お姉さんが、いなくなれば、葉尊が哀しみます…」
「…それは…そうかもしれんが…」
「…葉尊にとって、お姉さんは、希望です…」
「…希望だと?…」
「…お姉さんが、葉尊の心を温めるのです…」
「…」
「…世界中で、お姉さんだけが、それをできるのです…」
「…葉問…オマエ、随分、おおげさなことを言うな…」
「…でも、事実です…」
「…葉問…一つ、聞いて、いいか?…」
「…なんですか?…」
「…オマエはどうして、そんなに葉尊に尽くす…私が、葉尊を癒せば、オマエは消えるんだろ?…」
「…その通りです…」
「…だったら、私を一刻も早く、葉尊の元から離すのが、得策じゃないのか? …そうすれば、オマエも消滅せずに済む…」
「…その通りですが、ボクは、葉尊の一卵性双生児の弟です…」
「…それが、どうかしたのか?…」
「…弟が、兄のために尽くすのは、当たり前じゃないですか?…」
「…」
「…いずれにしろ、お姉さんは、気をつけて下さい…」
「…待て…葉問…どうして、オマエは、そんなことが、わかるんだ?…」
「…ボクと葉尊は、表裏一体…」
「…表裏一体だと?…」
「…葉尊の知るところは、この葉問も知ることになる…」
「…ということは、どうだ? …今、私が、こうして、オマエと話していることも、また葉尊は、知っているということだな…」
「…その通りです…」
「…そうか…」
私は、言った…
直後に、葉問が消えた…
一瞬にして、いなくなった…
葉尊に変わったのだ…
同じ顔、同じ肉体だが、一瞬にして、別人になった…
まるで、魔法を見るようだった…
まったくの同じ肉体にも、かかわらず、雰囲気が、誰の目にも、別人なのだ…
それを見て、私は、ただ、驚いた…
驚いたのだ…
「…お姉さん…」
葉尊が、言った…
「…葉尊…逃げちゃダメさ…」
「…」
「…男たるもの、どんなときも、逃げちゃダメさ…」
「…スイマセン…」
「…わかれば、いいさ…」
私は、言った…
私は、その日、ベッドに横になって、葉問の言ったことを考えた…
あの葉問が、どこまで、本当のことを、言ったのか、考えたのだ…
今さらだが、どうも、イマイチ、あの葉問は信用できない…
が、
それが、魅力でもある(笑)…
それは、たとえば、若い女の写真集と同じ…
水着に隠れて、オッパイやパンツの中身が、見えないのがいい…
それと同じだ…
すべて、丸見えで、すっぽんぽんになれば、興ざめする…
それと同じだ…
見えないから、妄想する…
見えない部分は、どうなっているか、知りたくなる…
そういうことだ…
葉問は、それと同じで、言っていることも、どこまで、本当で、どこまで、ウソか、わからない…
だが、それが、いい(笑)…
若い女の水着ではないが、全部をさらけ出されては、興ざめする…
なにを考えているか、わかれば、興ざめする…
そういうことだ…
その夜、バニラから、私に電話があった…
「…お姉さんですか?…」
妙に低姿勢の電話があった…
「…そうだ…私さ…お姉さんさ…」
相手がたとえ、名前を名乗らずとも、低姿勢でいれば、こちらは、徹底的に、居丈高の態度を取る…
高飛車な態度を取る…
それが、私だ(笑)…
「…その声は、バニラか?…」
「…ハイ…」
「…バニラ…なんの用だ?…」
「…実は、お姉さんに頼みたいことが…」
「…私に頼みたいこと?…」
…まさか、飼い犬の散歩とかじゃあるまいな…
私は、思った…
実は、この矢田トモコ…
犬が、苦手だった…
この矢田には、苦手なものが、数多くあるが、その中でも、とりわけ犬が苦手だった…
たとえ、それが、小さな子犬でも、だ…
それは、私が、子供の頃、夏に、アイスキャンディーを舐めながら、歩いているときに、子犬に追われた経験が、トラウマになっているからだ…
私が、ひとりで、アイスキャンディーを舐めていると、子犬が私にキャンキャンと吠えながら、寄って来て、怖かった私は、駆けて逃げ出した…
すると、その子犬は、私を追って走って来た…
私は、怖かったから、泣きながら、走って逃げた…
すると、手に持っていたアイスキャンディーが、落ちてしまった…
その落ちたアイスキャンディーを、子犬がペロペロと、舐めていた…
その光景が、今でも、忘れられん…
私の脳裏に、残っている…
黒歴史として、残っている…
そういうことだ…
「…まさか、犬の散歩じゃあるいな?…」
私は、わざと低いドスを利かせた声で、聞いた…
「…エッ? …犬の散歩? …どうして、そういう話になるの?…」
「…違うのか?…」
「…違います…」
「…だったら、なんだ? …なんの用事だ?…」
「…マリアのことです…」
「…マリアのことだと?…」
「…ハイ…以前もお姉さんに言いましたが、マリアの通う保育園で、マリアと仲がよくない子供がいるんです…」
「…それは、以前、オマエから聞いた…」
「…それで、その子が、どんな子か、お姉さんの目で、確かめてみて、欲しいんです…」
「…私の目だと?…」
たしかに、この矢田トモコの目は、細いが、決して、目が悪いわけではない…
まさか、バニラは、それを知っているのか?
「…バニラ…」
「…なんですか?…」
「…オマエ…まさか、この私の視力がいいことを知っているのか?…」
「…お姉さん…そういう話では…」
「…冗談だ…バニラ…」
私は、言った…
言いながら、やはり、ここは、冗談を言う場面ではないかもしれんと、気付いた…
バニラにとって、娘のマリアのことは、文字通り、命よりも大切…
だから、普通ならば、こんな場面では、
「…冗談を言っている場合じゃないでしょ!…」
と、私に怒ってキレるのに、そうはならない…
とにかく、私に、マリアをイジメる子が、どんな子か、見てもらいたいのだろう…
ふと、気付いた…
つまりは、それほどまでに、マリアをイジメる子に、興味があるということだ…
母親ならば、当たり前のことかもしれん…
私は、思った…
思いながら、ふと、葉問の言葉を思い出した…
葉問が言うには、
「…これは、罠かもしれん…」
と、いうことだった…
葉問は、罠という言葉は、使わなかったが、いうことは、同じ…
同じだった…
要するに、ファラドは、子供を使って、わざとマリアをイジメて、母親のバニラを引っ張り出そうとしているのでは? と、読んだのだ…
私は、深読みのし過ぎだと思ったが、さりとて、本当のことは、わからない…
が
やはりというか…
このまま、バニラをファラドと会わせて、いいのか? と、思った…
ファラドは、まだ、来日していないから、ファラド自身ではないかもしれないが、ファラドの手先と、バニラがあっていいものか、どうか、悩んだ…
考えた…
もしも…
もしも、だ…
そんなことは、あるはずが、ないが、このバニラが、葉敬を裏切っては困る…
バニラは、葉敬の愛人…
二人の間には、マリアという娘までいる…
が、
ファラドは、その葉敬を大きく上回る金持ち…
ファラドが、金も力にモノを言わせて、このバニラから、自分に乗り換えろといえば、もしや、バニラの心が動くかもしれん…
私は、思った…
なぜなら、バニラは、マリアの母親だからだ…
マリアの将来を考えたとき、葉敬ではなく、ファラドを選ぶ可能性がある…
そういうことだ…
バニラ自身は、正直にいって、金に転ぶ女には、見えん…
だが、何度も言うように、マリアのことを、考えたら、どうなるか、わからん…
マリアの将来のことを、考えれば、どうなるか、わからん…
私は、思った…
と、なると、実に心配…
心配だ…
このバニラとファラドを会わすことは、心配だ…
もしやとは、思うが、このバニラが、葉敬を裏切るかもしれんからだ…
だから、今、このバニラが、私に、ファラドの配下の者と、会うかもしれん機会を与えたことは、チャンスかしれん…
千載一遇のチャンスかもしれん…
私は、思った…
あのバカなバニラでは、簡単に、葉敬を裏切る危険がある…
が、
この矢田トモコならば、そんな心配はない…
そんな心配は、一切無用…
酸いも甘いも嚙み分けた、35歳の女…
バカなバニラとは違う…
年齢が違う…
キャリアが違う…
中身が、違う…
私は、そのことに、気付いた…
遅まきながら、気付いたのだ…
「…わかった…心配するな…バニラ…」
私は、言った…
「…私に任せておけ…大船に乗ったつもりで、いればいいさ…」
私は、ポンと、自分の胸を叩いた…
私の大きな胸を叩いたのだ…
「…心配は無用さ…」
が、
自信満々の私に対して、聞こえてきたバニラの声は、
「…大船…」
と、小さく言ったのみだった…
まるで、私の力を疑うかのようだった…
繊細?な私の心は、傷ついた…
深く、傷ついた…
せっかく、これから、バニラのために、動いてやろうとしたのに、まるで、私を疑うような発言に幻滅した…
だから、頭に来た私は、つい、
「…オマエ…私の力を疑っているのか?…」
と、怒鳴った…
「…私の力を疑うなら、さっさとほかの人間に頼めばいいさ…」
「…スイマセン…お姉さん…お姉さんの力を疑うわけじゃ…」
「…じゃ、どういう意味だ?…」
「…スイマセン…」
「…どういう意味かと聞いているのさ…」
私が、なおも怒って言うと、
「…お姉さんには、なにか、不思議な力があります…」
と、小さくバニラが返した…
「…不思議な力?…」
「…誰もが、一度会えば、お姉さんが好きになり、お姉さんに魅了されます…そんな人間は、私がこれまで、出会った中で、お姉さんだけです…」
…不思議な力?…
たしか、矢口のお嬢様も、同じことを言っていた…
バカなことだ…
この矢田に、そんな魔訶不思議な力はない…
この矢田は魔法使いでもなんでもない…
が、
まあ、バニラが、ここまで、私に頭を下げて頼むのだから、バニラの頼みを聞いてやろうと思った…
人間、すべて、持ちつ持たれつだ…
ここで、バニラに恩を売れば、いずれ、バニラが、私のために動いてくれるからだ…
だから、ここで、バニラに恩を売るのも、悪くはない…
私は、思った…
…葉問、見損なったゾ…
私は、思った…
この葉問は、夫の葉尊に比べて、やんちゃというか…
葉尊には、悪いが、頼りがいがある…
おそらく、葉尊の方が、頭がいいに違いないが、葉尊は、頼りない…
だから、葉問の方が優れて見える…
そういうことだ…
実際、そんなことは、世の中にありふれている…
たとえ、東大を出ていても、頼りなかったりすると、仕事の上でも、しっかりした高卒の人間の方が使えると、思う場面は、たびたび遭遇する…
それと、同じだ…
が、
本当のことをいえば、仕事に関して、東大出の頭脳を使うことができなかったことが、原因だとも思える…
東大出の優秀な頭脳を生かすことができなかったのが、原因だとも、思える…
そして、残念ながら、いかに東大を出ていようと、その優れた頭脳を生かせる仕事や職場は、案外少ない…
そういうことだ…
たとえ、中卒や高卒でも、その仕事ができれば、なんの問題もない…
ただ、学歴がないと、可哀そうだが、大きな会社だと、出世が難しいだけだ…
つまり、末端の仕事ならば、飲み込みが早く、手が早ければできるが、マネジメントができない…
そういうことだ…
だから、出世ができない…
そういうことだ…
私は、目の前の葉問を見ながら、そんなことを、考えた…
いつものことだった(笑)…
「…なあ、葉問…」
「…なんですか?…」
「…オマエは、ファラドのことを、どう思う? クールを狙ってくると、思うか?…」
「…それは、ボクには、わかりません…」
「…そうだ…そうだな…」
「…ただ…」
「…ただ、なんだ?…」
「…すでに、動きはあるようです…」
「…動き? …どんな動きだ?…」
「…バニラの娘のマリアの通う保育園に、やって来た子供です…」
「…どういう意味だ?…」
「…あれは、ファラドの先兵です…」
「…先兵? …どういう意味だ?…」
「…おそらく、その子供をきっかけに、バニラに接触しようとしているんです…」
「…バニラに?…」
「…ハイ…おそらく、その子供に、わざとマリアにイジワルをしろとでも、言っているのかもしれません…」
「…どういうことだ?…」
「…そうすれば、いずれ、母親のバニラが出てくる…」
「…だが、バニラは、顔バレすると、マズいから、保育園には、直接、顔は出さないと言っていたゾ…」
「…たしかに、顔は出さないかもしれません…ですが、マリアをイジメている子供が、どんな子だか、見てみたい…それが、母親でしょ?…」
「…」
「…相手は、それを狙っているんです…」
「…」
「…お姉さん…」
「…なんだ?…」
「…戦争に、きれいも汚いもありません…」
「…なにが、言いたい?…」
「…ファラドは、クールを狙っている…あるいは、お姉さんを狙っている…もしかしたら、それだけじゃなく、バニラもリンダも狙っているかもしれません…」
「…」
「…クールの株を買い占めて、買収するのが、正攻法ですが、葉敬が、株を売らざるを得ないように、仕向けるかもしれません…」
「…それが、葉問…オマエの言う、戦争に、きれいも汚いもないということか?…」
「…その通りです…」
「…葉問…オマエ、考え過ぎだ…」
私は、葉問を笑った…
「…葉問…オマエの言うことは、わかる…だが、考え過ぎだ…」
「…そうでしょうか?…」
「…オマエの言うことは、わかる…だが、仮にバニラが、娘のマリアの身が心配で、マリアをイジメる子を、見に行ったとする…そこで、バニラを見つけて、拉致するとでも、いうのか?…」
「…拉致は、ないでしょう…」
「…だろ?…」
「…ですが、バニラと接触する機会は、得ます…」
「…接触する機会?…」
「…そうです…それで、ファラドと食事をして、なんらかのよい条件を提示して、葉敬を裏切らせることも考えられます…」
「…葉敬を裏切らせる? …まさか?…」
「…そのまさかも、想定の範囲内です…」
「…想定の範囲内だと?…」
「…たぶん…つまりは、転職の勧めです…」
「…転職だと?…」
「…今の会社で、いくらもらってますか? …うちへ来れば、もっと上げますよ、とでも言った話でしょう…」
「…」
「…そう言われれば、心を動かす人間も多い…ファラドの狙いは、たぶん、それです…」
「…」
「…お姉さんも、十分、気を付けることです…」
「…私が? …私は、大丈夫さ…」
「…どうして、大丈夫なんですか? …」
「…私は、リンダでも、バニラでもない…私を口説いたところで、なにもないさ…」
「…ですが、お姉さんが、いなくなれば、葉尊が哀しみます…」
「…それは…そうかもしれんが…」
「…葉尊にとって、お姉さんは、希望です…」
「…希望だと?…」
「…お姉さんが、葉尊の心を温めるのです…」
「…」
「…世界中で、お姉さんだけが、それをできるのです…」
「…葉問…オマエ、随分、おおげさなことを言うな…」
「…でも、事実です…」
「…葉問…一つ、聞いて、いいか?…」
「…なんですか?…」
「…オマエはどうして、そんなに葉尊に尽くす…私が、葉尊を癒せば、オマエは消えるんだろ?…」
「…その通りです…」
「…だったら、私を一刻も早く、葉尊の元から離すのが、得策じゃないのか? …そうすれば、オマエも消滅せずに済む…」
「…その通りですが、ボクは、葉尊の一卵性双生児の弟です…」
「…それが、どうかしたのか?…」
「…弟が、兄のために尽くすのは、当たり前じゃないですか?…」
「…」
「…いずれにしろ、お姉さんは、気をつけて下さい…」
「…待て…葉問…どうして、オマエは、そんなことが、わかるんだ?…」
「…ボクと葉尊は、表裏一体…」
「…表裏一体だと?…」
「…葉尊の知るところは、この葉問も知ることになる…」
「…ということは、どうだ? …今、私が、こうして、オマエと話していることも、また葉尊は、知っているということだな…」
「…その通りです…」
「…そうか…」
私は、言った…
直後に、葉問が消えた…
一瞬にして、いなくなった…
葉尊に変わったのだ…
同じ顔、同じ肉体だが、一瞬にして、別人になった…
まるで、魔法を見るようだった…
まったくの同じ肉体にも、かかわらず、雰囲気が、誰の目にも、別人なのだ…
それを見て、私は、ただ、驚いた…
驚いたのだ…
「…お姉さん…」
葉尊が、言った…
「…葉尊…逃げちゃダメさ…」
「…」
「…男たるもの、どんなときも、逃げちゃダメさ…」
「…スイマセン…」
「…わかれば、いいさ…」
私は、言った…
私は、その日、ベッドに横になって、葉問の言ったことを考えた…
あの葉問が、どこまで、本当のことを、言ったのか、考えたのだ…
今さらだが、どうも、イマイチ、あの葉問は信用できない…
が、
それが、魅力でもある(笑)…
それは、たとえば、若い女の写真集と同じ…
水着に隠れて、オッパイやパンツの中身が、見えないのがいい…
それと同じだ…
すべて、丸見えで、すっぽんぽんになれば、興ざめする…
それと同じだ…
見えないから、妄想する…
見えない部分は、どうなっているか、知りたくなる…
そういうことだ…
葉問は、それと同じで、言っていることも、どこまで、本当で、どこまで、ウソか、わからない…
だが、それが、いい(笑)…
若い女の水着ではないが、全部をさらけ出されては、興ざめする…
なにを考えているか、わかれば、興ざめする…
そういうことだ…
その夜、バニラから、私に電話があった…
「…お姉さんですか?…」
妙に低姿勢の電話があった…
「…そうだ…私さ…お姉さんさ…」
相手がたとえ、名前を名乗らずとも、低姿勢でいれば、こちらは、徹底的に、居丈高の態度を取る…
高飛車な態度を取る…
それが、私だ(笑)…
「…その声は、バニラか?…」
「…ハイ…」
「…バニラ…なんの用だ?…」
「…実は、お姉さんに頼みたいことが…」
「…私に頼みたいこと?…」
…まさか、飼い犬の散歩とかじゃあるまいな…
私は、思った…
実は、この矢田トモコ…
犬が、苦手だった…
この矢田には、苦手なものが、数多くあるが、その中でも、とりわけ犬が苦手だった…
たとえ、それが、小さな子犬でも、だ…
それは、私が、子供の頃、夏に、アイスキャンディーを舐めながら、歩いているときに、子犬に追われた経験が、トラウマになっているからだ…
私が、ひとりで、アイスキャンディーを舐めていると、子犬が私にキャンキャンと吠えながら、寄って来て、怖かった私は、駆けて逃げ出した…
すると、その子犬は、私を追って走って来た…
私は、怖かったから、泣きながら、走って逃げた…
すると、手に持っていたアイスキャンディーが、落ちてしまった…
その落ちたアイスキャンディーを、子犬がペロペロと、舐めていた…
その光景が、今でも、忘れられん…
私の脳裏に、残っている…
黒歴史として、残っている…
そういうことだ…
「…まさか、犬の散歩じゃあるいな?…」
私は、わざと低いドスを利かせた声で、聞いた…
「…エッ? …犬の散歩? …どうして、そういう話になるの?…」
「…違うのか?…」
「…違います…」
「…だったら、なんだ? …なんの用事だ?…」
「…マリアのことです…」
「…マリアのことだと?…」
「…ハイ…以前もお姉さんに言いましたが、マリアの通う保育園で、マリアと仲がよくない子供がいるんです…」
「…それは、以前、オマエから聞いた…」
「…それで、その子が、どんな子か、お姉さんの目で、確かめてみて、欲しいんです…」
「…私の目だと?…」
たしかに、この矢田トモコの目は、細いが、決して、目が悪いわけではない…
まさか、バニラは、それを知っているのか?
「…バニラ…」
「…なんですか?…」
「…オマエ…まさか、この私の視力がいいことを知っているのか?…」
「…お姉さん…そういう話では…」
「…冗談だ…バニラ…」
私は、言った…
言いながら、やはり、ここは、冗談を言う場面ではないかもしれんと、気付いた…
バニラにとって、娘のマリアのことは、文字通り、命よりも大切…
だから、普通ならば、こんな場面では、
「…冗談を言っている場合じゃないでしょ!…」
と、私に怒ってキレるのに、そうはならない…
とにかく、私に、マリアをイジメる子が、どんな子か、見てもらいたいのだろう…
ふと、気付いた…
つまりは、それほどまでに、マリアをイジメる子に、興味があるということだ…
母親ならば、当たり前のことかもしれん…
私は、思った…
思いながら、ふと、葉問の言葉を思い出した…
葉問が言うには、
「…これは、罠かもしれん…」
と、いうことだった…
葉問は、罠という言葉は、使わなかったが、いうことは、同じ…
同じだった…
要するに、ファラドは、子供を使って、わざとマリアをイジメて、母親のバニラを引っ張り出そうとしているのでは? と、読んだのだ…
私は、深読みのし過ぎだと思ったが、さりとて、本当のことは、わからない…
が
やはりというか…
このまま、バニラをファラドと会わせて、いいのか? と、思った…
ファラドは、まだ、来日していないから、ファラド自身ではないかもしれないが、ファラドの手先と、バニラがあっていいものか、どうか、悩んだ…
考えた…
もしも…
もしも、だ…
そんなことは、あるはずが、ないが、このバニラが、葉敬を裏切っては困る…
バニラは、葉敬の愛人…
二人の間には、マリアという娘までいる…
が、
ファラドは、その葉敬を大きく上回る金持ち…
ファラドが、金も力にモノを言わせて、このバニラから、自分に乗り換えろといえば、もしや、バニラの心が動くかもしれん…
私は、思った…
なぜなら、バニラは、マリアの母親だからだ…
マリアの将来を考えたとき、葉敬ではなく、ファラドを選ぶ可能性がある…
そういうことだ…
バニラ自身は、正直にいって、金に転ぶ女には、見えん…
だが、何度も言うように、マリアのことを、考えたら、どうなるか、わからん…
マリアの将来のことを、考えれば、どうなるか、わからん…
私は、思った…
と、なると、実に心配…
心配だ…
このバニラとファラドを会わすことは、心配だ…
もしやとは、思うが、このバニラが、葉敬を裏切るかもしれんからだ…
だから、今、このバニラが、私に、ファラドの配下の者と、会うかもしれん機会を与えたことは、チャンスかしれん…
千載一遇のチャンスかもしれん…
私は、思った…
あのバカなバニラでは、簡単に、葉敬を裏切る危険がある…
が、
この矢田トモコならば、そんな心配はない…
そんな心配は、一切無用…
酸いも甘いも嚙み分けた、35歳の女…
バカなバニラとは違う…
年齢が違う…
キャリアが違う…
中身が、違う…
私は、そのことに、気付いた…
遅まきながら、気付いたのだ…
「…わかった…心配するな…バニラ…」
私は、言った…
「…私に任せておけ…大船に乗ったつもりで、いればいいさ…」
私は、ポンと、自分の胸を叩いた…
私の大きな胸を叩いたのだ…
「…心配は無用さ…」
が、
自信満々の私に対して、聞こえてきたバニラの声は、
「…大船…」
と、小さく言ったのみだった…
まるで、私の力を疑うかのようだった…
繊細?な私の心は、傷ついた…
深く、傷ついた…
せっかく、これから、バニラのために、動いてやろうとしたのに、まるで、私を疑うような発言に幻滅した…
だから、頭に来た私は、つい、
「…オマエ…私の力を疑っているのか?…」
と、怒鳴った…
「…私の力を疑うなら、さっさとほかの人間に頼めばいいさ…」
「…スイマセン…お姉さん…お姉さんの力を疑うわけじゃ…」
「…じゃ、どういう意味だ?…」
「…スイマセン…」
「…どういう意味かと聞いているのさ…」
私が、なおも怒って言うと、
「…お姉さんには、なにか、不思議な力があります…」
と、小さくバニラが返した…
「…不思議な力?…」
「…誰もが、一度会えば、お姉さんが好きになり、お姉さんに魅了されます…そんな人間は、私がこれまで、出会った中で、お姉さんだけです…」
…不思議な力?…
たしか、矢口のお嬢様も、同じことを言っていた…
バカなことだ…
この矢田に、そんな魔訶不思議な力はない…
この矢田は魔法使いでもなんでもない…
が、
まあ、バニラが、ここまで、私に頭を下げて頼むのだから、バニラの頼みを聞いてやろうと思った…
人間、すべて、持ちつ持たれつだ…
ここで、バニラに恩を売れば、いずれ、バニラが、私のために動いてくれるからだ…
だから、ここで、バニラに恩を売るのも、悪くはない…
私は、思った…