第46話

文字数 6,035文字

 …バカな男だ…

 …葉問、見損なったゾ…

 私は、思った…

 この葉問は、夫の葉尊に比べて、やんちゃというか…

 葉尊には、悪いが、頼りがいがある…

 おそらく、葉尊の方が、頭がいいに違いないが、葉尊は、頼りない…

 だから、葉問の方が優れて見える…

 そういうことだ…

 実際、そんなことは、世の中にありふれている…

 たとえ、東大を出ていても、頼りなかったりすると、仕事の上でも、しっかりした高卒の人間の方が使えると、思う場面は、たびたび遭遇する…

 それと、同じだ…

 が、

 本当のことをいえば、仕事に関して、東大出の頭脳を使うことができなかったことが、原因だとも思える…

 東大出の優秀な頭脳を生かすことができなかったのが、原因だとも、思える…

 そして、残念ながら、いかに東大を出ていようと、その優れた頭脳を生かせる仕事や職場は、案外少ない…

 そういうことだ…

 たとえ、中卒や高卒でも、その仕事ができれば、なんの問題もない…

 ただ、学歴がないと、可哀そうだが、大きな会社だと、出世が難しいだけだ…

 つまり、末端の仕事ならば、飲み込みが早く、手が早ければできるが、マネジメントができない…

 そういうことだ…

 だから、出世ができない…

 そういうことだ…

 私は、目の前の葉問を見ながら、そんなことを、考えた…

 いつものことだった(笑)…

 「…なあ、葉問…」

 「…なんですか?…」

 「…オマエは、ファラドのことを、どう思う? クールを狙ってくると、思うか?…」

 「…それは、ボクには、わかりません…」

 「…そうだ…そうだな…」

 「…ただ…」

 「…ただ、なんだ?…」

 「…すでに、動きはあるようです…」

 「…動き? …どんな動きだ?…」

 「…バニラの娘のマリアの通う保育園に、やって来た子供です…」

 「…どういう意味だ?…」

 「…あれは、ファラドの先兵です…」

 「…先兵? …どういう意味だ?…」

 「…おそらく、その子供をきっかけに、バニラに接触しようとしているんです…」

 「…バニラに?…」

 「…ハイ…おそらく、その子供に、わざとマリアにイジワルをしろとでも、言っているのかもしれません…」

 「…どういうことだ?…」

 「…そうすれば、いずれ、母親のバニラが出てくる…」

 「…だが、バニラは、顔バレすると、マズいから、保育園には、直接、顔は出さないと言っていたゾ…」

 「…たしかに、顔は出さないかもしれません…ですが、マリアをイジメている子供が、どんな子だか、見てみたい…それが、母親でしょ?…」

 「…」

 「…相手は、それを狙っているんです…」

 「…」

 「…お姉さん…」

 「…なんだ?…」

 「…戦争に、きれいも汚いもありません…」

 「…なにが、言いたい?…」

 「…ファラドは、クールを狙っている…あるいは、お姉さんを狙っている…もしかしたら、それだけじゃなく、バニラもリンダも狙っているかもしれません…」

 「…」

 「…クールの株を買い占めて、買収するのが、正攻法ですが、葉敬が、株を売らざるを得ないように、仕向けるかもしれません…」

 「…それが、葉問…オマエの言う、戦争に、きれいも汚いもないということか?…」

 「…その通りです…」

 「…葉問…オマエ、考え過ぎだ…」

 私は、葉問を笑った…

 「…葉問…オマエの言うことは、わかる…だが、考え過ぎだ…」

 「…そうでしょうか?…」

 「…オマエの言うことは、わかる…だが、仮にバニラが、娘のマリアの身が心配で、マリアをイジメる子を、見に行ったとする…そこで、バニラを見つけて、拉致するとでも、いうのか?…」

 「…拉致は、ないでしょう…」

 「…だろ?…」

 「…ですが、バニラと接触する機会は、得ます…」

 「…接触する機会?…」

 「…そうです…それで、ファラドと食事をして、なんらかのよい条件を提示して、葉敬を裏切らせることも考えられます…」

 「…葉敬を裏切らせる? …まさか?…」

 「…そのまさかも、想定の範囲内です…」

 「…想定の範囲内だと?…」

 「…たぶん…つまりは、転職の勧めです…」

 「…転職だと?…」

 「…今の会社で、いくらもらってますか? …うちへ来れば、もっと上げますよ、とでも言った話でしょう…」

 「…」

 「…そう言われれば、心を動かす人間も多い…ファラドの狙いは、たぶん、それです…」

 「…」

 「…お姉さんも、十分、気を付けることです…」

 「…私が? …私は、大丈夫さ…」

 「…どうして、大丈夫なんですか? …」

 「…私は、リンダでも、バニラでもない…私を口説いたところで、なにもないさ…」

 「…ですが、お姉さんが、いなくなれば、葉尊が哀しみます…」

 「…それは…そうかもしれんが…」

 「…葉尊にとって、お姉さんは、希望です…」

 「…希望だと?…」

 「…お姉さんが、葉尊の心を温めるのです…」

 「…」

 「…世界中で、お姉さんだけが、それをできるのです…」

 「…葉問…オマエ、随分、おおげさなことを言うな…」

 「…でも、事実です…」

 「…葉問…一つ、聞いて、いいか?…」

 「…なんですか?…」

 「…オマエはどうして、そんなに葉尊に尽くす…私が、葉尊を癒せば、オマエは消えるんだろ?…」

 「…その通りです…」

 「…だったら、私を一刻も早く、葉尊の元から離すのが、得策じゃないのか? …そうすれば、オマエも消滅せずに済む…」

 「…その通りですが、ボクは、葉尊の一卵性双生児の弟です…」

 「…それが、どうかしたのか?…」

 「…弟が、兄のために尽くすのは、当たり前じゃないですか?…」

 「…」

 「…いずれにしろ、お姉さんは、気をつけて下さい…」

 「…待て…葉問…どうして、オマエは、そんなことが、わかるんだ?…」

 「…ボクと葉尊は、表裏一体…」

 「…表裏一体だと?…」

 「…葉尊の知るところは、この葉問も知ることになる…」

 「…ということは、どうだ? …今、私が、こうして、オマエと話していることも、また葉尊は、知っているということだな…」

 「…その通りです…」

 「…そうか…」

 私は、言った…

 直後に、葉問が消えた…

 一瞬にして、いなくなった…

 葉尊に変わったのだ…

 同じ顔、同じ肉体だが、一瞬にして、別人になった…

 まるで、魔法を見るようだった…

 まったくの同じ肉体にも、かかわらず、雰囲気が、誰の目にも、別人なのだ…

 それを見て、私は、ただ、驚いた…

 驚いたのだ…

 「…お姉さん…」

 葉尊が、言った…

 「…葉尊…逃げちゃダメさ…」

 「…」

 「…男たるもの、どんなときも、逃げちゃダメさ…」

 「…スイマセン…」

 「…わかれば、いいさ…」

 私は、言った…

 
 私は、その日、ベッドに横になって、葉問の言ったことを考えた…

 あの葉問が、どこまで、本当のことを、言ったのか、考えたのだ…

 今さらだが、どうも、イマイチ、あの葉問は信用できない…

 が、

 それが、魅力でもある(笑)…

 それは、たとえば、若い女の写真集と同じ…

 水着に隠れて、オッパイやパンツの中身が、見えないのがいい…

 それと同じだ…

 すべて、丸見えで、すっぽんぽんになれば、興ざめする…

 それと同じだ…

 見えないから、妄想する…

 見えない部分は、どうなっているか、知りたくなる…

 そういうことだ…

 葉問は、それと同じで、言っていることも、どこまで、本当で、どこまで、ウソか、わからない…

 だが、それが、いい(笑)…

 若い女の水着ではないが、全部をさらけ出されては、興ざめする…

 なにを考えているか、わかれば、興ざめする…

 そういうことだ…

 
 その夜、バニラから、私に電話があった…

 「…お姉さんですか?…」

 妙に低姿勢の電話があった…

 「…そうだ…私さ…お姉さんさ…」

 相手がたとえ、名前を名乗らずとも、低姿勢でいれば、こちらは、徹底的に、居丈高の態度を取る…

 高飛車な態度を取る…

 それが、私だ(笑)…

 「…その声は、バニラか?…」

 「…ハイ…」

 「…バニラ…なんの用だ?…」

 「…実は、お姉さんに頼みたいことが…」

 「…私に頼みたいこと?…」

 …まさか、飼い犬の散歩とかじゃあるまいな…

 私は、思った…

 実は、この矢田トモコ…

 犬が、苦手だった…

 この矢田には、苦手なものが、数多くあるが、その中でも、とりわけ犬が苦手だった…

 たとえ、それが、小さな子犬でも、だ…

 それは、私が、子供の頃、夏に、アイスキャンディーを舐めながら、歩いているときに、子犬に追われた経験が、トラウマになっているからだ…

 私が、ひとりで、アイスキャンディーを舐めていると、子犬が私にキャンキャンと吠えながら、寄って来て、怖かった私は、駆けて逃げ出した…

 すると、その子犬は、私を追って走って来た…

 私は、怖かったから、泣きながら、走って逃げた…

 すると、手に持っていたアイスキャンディーが、落ちてしまった…

 その落ちたアイスキャンディーを、子犬がペロペロと、舐めていた…

 その光景が、今でも、忘れられん…

 私の脳裏に、残っている…

 黒歴史として、残っている…

 そういうことだ…

 「…まさか、犬の散歩じゃあるいな?…」

 私は、わざと低いドスを利かせた声で、聞いた…

 「…エッ? …犬の散歩? …どうして、そういう話になるの?…」

 「…違うのか?…」

 「…違います…」

 「…だったら、なんだ? …なんの用事だ?…」

 「…マリアのことです…」

 「…マリアのことだと?…」

 「…ハイ…以前もお姉さんに言いましたが、マリアの通う保育園で、マリアと仲がよくない子供がいるんです…」

 「…それは、以前、オマエから聞いた…」

 「…それで、その子が、どんな子か、お姉さんの目で、確かめてみて、欲しいんです…」

 「…私の目だと?…」

 たしかに、この矢田トモコの目は、細いが、決して、目が悪いわけではない…

 まさか、バニラは、それを知っているのか?

 「…バニラ…」

 「…なんですか?…」

 「…オマエ…まさか、この私の視力がいいことを知っているのか?…」

 「…お姉さん…そういう話では…」

 「…冗談だ…バニラ…」

 私は、言った…

 言いながら、やはり、ここは、冗談を言う場面ではないかもしれんと、気付いた…

 バニラにとって、娘のマリアのことは、文字通り、命よりも大切…

 だから、普通ならば、こんな場面では、

 「…冗談を言っている場合じゃないでしょ!…」

 と、私に怒ってキレるのに、そうはならない…

 とにかく、私に、マリアをイジメる子が、どんな子か、見てもらいたいのだろう…

 ふと、気付いた…

 つまりは、それほどまでに、マリアをイジメる子に、興味があるということだ…

 母親ならば、当たり前のことかもしれん…

 私は、思った…

 思いながら、ふと、葉問の言葉を思い出した…

 葉問が言うには、

 「…これは、罠かもしれん…」

 と、いうことだった…

 葉問は、罠という言葉は、使わなかったが、いうことは、同じ…

 同じだった…

 要するに、ファラドは、子供を使って、わざとマリアをイジメて、母親のバニラを引っ張り出そうとしているのでは? と、読んだのだ…

 私は、深読みのし過ぎだと思ったが、さりとて、本当のことは、わからない…

 が

 やはりというか…

 このまま、バニラをファラドと会わせて、いいのか? と、思った…

 ファラドは、まだ、来日していないから、ファラド自身ではないかもしれないが、ファラドの手先と、バニラがあっていいものか、どうか、悩んだ…

 考えた…

 もしも…

 もしも、だ…

 そんなことは、あるはずが、ないが、このバニラが、葉敬を裏切っては困る…

 バニラは、葉敬の愛人…

 二人の間には、マリアという娘までいる…

 が、

 ファラドは、その葉敬を大きく上回る金持ち…

 ファラドが、金も力にモノを言わせて、このバニラから、自分に乗り換えろといえば、もしや、バニラの心が動くかもしれん…

 私は、思った…

 なぜなら、バニラは、マリアの母親だからだ…

 マリアの将来を考えたとき、葉敬ではなく、ファラドを選ぶ可能性がある…

 そういうことだ…

 バニラ自身は、正直にいって、金に転ぶ女には、見えん…

 だが、何度も言うように、マリアのことを、考えたら、どうなるか、わからん…

 マリアの将来のことを、考えれば、どうなるか、わからん…

 私は、思った…

 と、なると、実に心配…

 心配だ…

 このバニラとファラドを会わすことは、心配だ…

 もしやとは、思うが、このバニラが、葉敬を裏切るかもしれんからだ…

 だから、今、このバニラが、私に、ファラドの配下の者と、会うかもしれん機会を与えたことは、チャンスかしれん…

 千載一遇のチャンスかもしれん…

 私は、思った…

 あのバカなバニラでは、簡単に、葉敬を裏切る危険がある…

 が、

 この矢田トモコならば、そんな心配はない…

 そんな心配は、一切無用…

 酸いも甘いも嚙み分けた、35歳の女…

 バカなバニラとは違う…

 年齢が違う…

 キャリアが違う…

 中身が、違う…

 私は、そのことに、気付いた…

 遅まきながら、気付いたのだ…

 「…わかった…心配するな…バニラ…」

 私は、言った…

 「…私に任せておけ…大船に乗ったつもりで、いればいいさ…」

 私は、ポンと、自分の胸を叩いた…

 私の大きな胸を叩いたのだ…

 「…心配は無用さ…」

 が、

 自信満々の私に対して、聞こえてきたバニラの声は、

 「…大船…」

 と、小さく言ったのみだった…

 まるで、私の力を疑うかのようだった…

 繊細?な私の心は、傷ついた…

 深く、傷ついた…

 せっかく、これから、バニラのために、動いてやろうとしたのに、まるで、私を疑うような発言に幻滅した…

 だから、頭に来た私は、つい、

 「…オマエ…私の力を疑っているのか?…」

 と、怒鳴った…

 「…私の力を疑うなら、さっさとほかの人間に頼めばいいさ…」

 「…スイマセン…お姉さん…お姉さんの力を疑うわけじゃ…」

 「…じゃ、どういう意味だ?…」

 「…スイマセン…」

 「…どういう意味かと聞いているのさ…」

 私が、なおも怒って言うと、

 「…お姉さんには、なにか、不思議な力があります…」

 と、小さくバニラが返した…

 「…不思議な力?…」

 「…誰もが、一度会えば、お姉さんが好きになり、お姉さんに魅了されます…そんな人間は、私がこれまで、出会った中で、お姉さんだけです…」

 …不思議な力?…

 たしか、矢口のお嬢様も、同じことを言っていた…

 バカなことだ…

 この矢田に、そんな魔訶不思議な力はない…

 この矢田は魔法使いでもなんでもない…

 が、

 まあ、バニラが、ここまで、私に頭を下げて頼むのだから、バニラの頼みを聞いてやろうと思った…

 人間、すべて、持ちつ持たれつだ…

 ここで、バニラに恩を売れば、いずれ、バニラが、私のために動いてくれるからだ…

 だから、ここで、バニラに恩を売るのも、悪くはない…

 私は、思った…

                
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み