第158話

文字数 4,975文字

 …て、帝国ホテルのイベント…

 思えば、あそこが、この矢田トモコの始まりだった…

 この矢田トモコと、葉尊の始まりだった…

 この矢田トモコが、生まれて初めて、帝国ホテルに足を踏み入れ、葉尊と、結婚式=披露宴を、した…

 まさに、ありえんことだった(爆笑)…

 この矢田トモコの人生に、おいて、ありえんことだったのだ…

 この矢田トモコ、35歳…

 これまで、艱難辛苦を乗り越えて、生きてきた…

 短大を、出て、就職に失敗…

 が、

 そんなことには、まったくへこたれず、バイトや派遣で、食いつないで、生きて来た…

 あるときは、三輪バイクに、華麗にまたがり、寿司を配達したこともある…

 また、

 あるときは、それが、ピザに、替わったこともある…

 街中で、

 「…あっ! ピザ屋だ!…」

 と、言われたのは、日常茶飯事だった…

 「…あっ! 寿司屋が、歩いている!…」

 と、言われたことにも、もはや、慣れっこだった…

 …私だって、いつも、年がら年中、ピザ屋や、寿司屋を、やっているわけじゃないのさ…

 と、言いたかったが、言えんかった…

 実は、結構、気が弱かったのだ…

 内弁慶というか…

 とにかく、他人様と、揉めるのが、嫌だった…

 そして、とにかく、そんなふうにして、この矢田トモコは、生きてきた…

 短大を出て、35歳まで、生きてきた…

 あるときは、工場のベルトコンベアで、製品の組み立てを、行い、また、あるときは、総菜工場で、コンビニ向けの弁当を作っていた…

 とにかく、そんなふうにして、この歳まで、生きてきたのだ…

 が、

 そんなときに、葉尊と、会った…

 偶然、街中で、出会って、道案内しただけだった…

 が、

 葉尊は、それを、恩に着た…

 たかだか、道案内をしたに過ぎないことを、恩に着て、私を、気に入り、結婚した…

 私にとっては、ラッキー…

 まさに、ラッキー

 ありえないほど、ラッキーだった…

 いや、

 ラッキーという言葉では、言い表せないほど、運が、良かった…

 だから、このリンダが、さっき言ったように、葉尊が、実は、私と結婚した裏の目的があったとしても、驚かんかった…

 葉尊は、台湾の大富豪の跡取り息子…

 そんな大金持ちのボンボンが、この平凡な矢田トモコと、結婚するはずが、なかったからだ…

 だから、驚かんかった…

 だから、なにか、別の目的があっても、驚かんかった…

 が、

 そうは、いっても、正直、今の生活に未練があった…

 今の生活=金持ちの生活ではない…

 豪華なマンションに、葉尊といっしょに、住む生活ではない…

 このリンダや、あのバカ、バニラと、過ごす日々が、なくなるのが、寂しかったのだ…

 このリンダは、ともかく、あのバニラは、バカだが、バカでも、実は、結構、好きだった…

 あのバニラは、どうしようもないバカだが、それでも、本音では、嫌いになれんかった…

 あのバカ、バニラは、バカだから、私が、面倒を見てやらねばと、思った…

 私が、面倒を見てあげねば、道を外すと、思ったのだ…

 だが、それも、もう無理かもしれん…

 できんかも、しれんかった…

 バニラは、バカだから、おそらく、この先、またバカなことをして、いずれ、モデルの世界からも、消えるだろう…

 追放されるだろうと、思った…

 バカだから、仕方がないといえば、仕方が、ないが、それでも、私は、不憫だった…

 この矢田トモコが、いないことで、あのバカ、バニラが、道を踏み外し、モデルの世界から、追放されるのが、不憫だったのだ…

 それを思うと、この矢田トモコの目にも、一筋の涙が、こぼれた…

 鬼も目にも、涙というやつだ…

 この矢田が、いなくなることで、あのバニラも世間から後ろ指を指されて、消えることが、哀れだったのだ…

 可哀そうだったのだ…

 私が、涙を流しているのに、気付いたリンダが、

 「…どうしたの? …お姉さん?…」

 と、驚いた…

 「…涙を流したりして…」

 「…バニラのことさ…」

 私は、言った…

 「…バニラのこと? …バニラが、どうかしたの?…」

 「…もはや、アイツの面倒を見てやれんさ…」

 「…バニラの面倒を見る?…」

 「…そうさ…バニラはバカだから、なにをしでかすか、わからん…だから、道を踏み外したら、いかんと思って、これまで、面倒を見てきたが、それも、できんようになったさ…」

 「…」

 「…それを、思うと不憫で、な…」

 私の細い目から、涙が、こぼれ落ちた…

 それを見たリンダが、

 「…お姉さん…バニラと仲が、いいから…」

 と、ポツリと呟いた…

 が、

 それに、カチンときた…

 「…仲がいい? …どういう意味だ?…」

 「…だって、お姉さん…いつも、バニラと言い争っているでしょ?…」

 「…そうさ…」

 「…ケンカするほど、仲がいいって、世間では、言われてるわ…」

 「…なんだと?…」

 リンダのその一言で、私の涙が、引いた…

 一気に感傷に浸るのは、止めた…

 あんなバカ、バニラと、仲がいいと、思われては、困る…

 あんなバカ、バニラと、いっしょにされては、困ると思ったのだ…

 「…あんな、バカと、私をいっしょにするな!…」

 気が付くと、思わず、大声で叫んでいた…

 「…アイツは、バカさ…正真正銘のバカさ…あんなバカと、私をいっしょに、するな!…」

 私は、大声で、叫んだ…

 すると、隣のリンダが、わざと、両手で、耳を塞ぐ真似をした…

 おちゃらけたのだ…

 「…お姉さん…大声を出し過ぎ…」

 リンダが、苦情を言った…

 「…そんな小さなカラダなのに、どうして、そんな大声を出せるのかしら?…」

 「…なんだと?…」

 「…お姉さん…そんなに、ちっちゃいのに…」

 「…私は、ちっちゃくなんてないさ…オマエたちが、大きすぎるのさ…」

 「…オマエたちって?…」

 「…オマエとバニラさ…」

 「…バニラ?…そういえば、どうして、お姉さん…これから、バニラの面倒を見れないの?…」

 リンダが、直球で、聞いた…

 ずばり、核心をついた…

 私は、一瞬悩んだが、

 「…これから、行く、帝国ホテルのイベントって、私と、葉尊の離婚式ではないのか?…」

 と、言ってやった…

 ずばり、私の予想を伝えたのだ…

 すると、どうだ?

 リンダが、驚きの表情になった…

 リンダの美貌が、驚きに溢れた…

 驚きに、満ち溢れた…

 「…だろ?…」

 私は、リンダに、念を押した…

 「…すべて、わかっているのさ…」

 私は、告白した…

 「…私は、葉尊と結婚して、半年…似合わない夫婦だと、私も、思っていたさ…身長も、違った凸凹コンビだし、顔も違うさ…」

 「…」

 「…だから、周囲の人間が、よく、この結婚を許したと、思っていたさ…でも、ようやく、わかったさ…」

 「…なにが、わかったの?…」

 「…お義父さんが、わざわざ、台湾から、やって来た理由さ…」

 「…葉敬が、台湾から、やって来た理由って?…」

 「…私と葉尊の離婚式だろ?…」

 「…離婚式?…」

 リンダが、仰天した…

 が、

 これは、リンダの演技だと、思った…

 リンダ・ヘイワースは、女優…

 ハリウッドの女優だ…

 だから、演技は、お手の物だ…

 「…別に、隠すことは、ないさ…」

 私は、落ち込んで、言った…

 「…これまで、お義父さんも、大目に見て、くれていたんだろ? でも、さすがに、我慢の糸が、プッツリと、切れた…そういうことだろ?…」

 私は、力なく、言った…

 「…所詮は、夢だったのさ…不釣り合いの夫婦だったのさ…が、それは、仕方ないとしても、オマエたちに、会えなくなると、思うと…とりわけ、あのバカ、バニラのことを、思うと、不憫で、な…」

 私の目から、再び涙が、こぼれ落ちた…

 「…あのバニラは、バカだ…正真正銘のバカだ…救いようのないバカだ…だから、私が、仕方なく、これまで、面倒を見てやってきたさ…でも、私が、いなくなれば、あのバカ、バニラの面倒を見る人間など、この世の中に、一人も、いないだろう…だから、遅かれ早かれ、道を外し、モデルの世界からも、追放されるだろう…それを、思うと、不憫で、な…」

 私は、いつか、嗚咽していた…

 あのバカ、バニラのために、泣いていた…

 あのバカ、バニラのために、涙を、ずーっと、流していたのだ…

 これは、自分でも、驚くことだった…

 自分でも、ビックリする出来事だったのだ…

 そんな私を見て、リンダが、

 「…お姉さん…ホントは、バニラを好きなのね…」

 と、言った…

 だから、

 「…好きじゃないさ…」

 と、すぐに、言い返した…

 「…ただ…」

 「…ただ…なに?…」

 「…あの女は、バカだが、バカなりに、いいところが、少しはある…だが、世間の人間は、あのバカ、バニラをただのバカだと、思うだろ? …私が、いなくなれば、もはや、誰も、あのバニラに注意してやる人間は、いないさ…だから、いずれ、モデルの世界からも、干され、惨めな人生を、歩むに違いないさ…」

 私は、言った…

 正直に、今の自分の気持ちを言ったのだ…

 すると、だ…

 なぜか、リンダが、

 「…フーッ…」

 と、大きなため息を漏らした…

 「…一体全体、バニラを好きなのか、嫌いなのか…褒めてるのか、けなしているのか、さっぱり、わからない…」

 リンダが、戸惑ったように、言った…

 「…いえ、それ以前に、どうして、今日、これから、帝国ホテルで、行うイベントが、離婚式なのか? …お姉さんの思考形態は、理解に、苦しむわ…」

 「…なんだと?…」

 「…どうして、離婚式を、わざわざ、帝国ホテルで、挙げなければいけないの?…」

 「…それは、金持ちだからさ…」

 「…お金持ちだから…」

 「…金持ちという人種は、私には、わからん思考形態の持ち主たちだ…」

 私は、いつのまにか、涙を流すのではなく、両手を組み、少しばかり、足を広げて、威厳を作った…

 これから、話す内容に、負けんためだ…

 「…そもそも、どうして、離婚式なの?…」

 「…それは、今も言ったように、金持ちだからさ…」

 「…どうして、金持ちだと、離婚式なの?…」

 「…バカか、オマエは?…」

 私は、リンダの言葉に呆れた…

 呆れて、ものも、言えんかった…

 「…それでは、あのバカ、バニラと、いっしょだゾ…」

 「…バニラと、いっしょ?…」

 「…そうさ…」

 「…とにかく、どうして、離婚式なの?…」

 「…それは…」

 「…それは?…」

 「…最近の風潮で、離婚するときは、離婚式をするヤツラが、増えているだろ?…とりわけ、金持ちは、金があるから、余計に、金をかけて、立派な離婚式をやる…だから、そう思ったのさ…」

 私は、鼻の穴を広げ、立派に、自説を述べた…

 堂々と、自説を述べたのだ…

すると、どうだ?

 リンダが嘆息した…

 リンダが、ため息を漏らしたのだ…

 それから、小さく、

 「…まったく、このお姉さんは、わけのわからないことを…」

 と、ブツブツ呟いた…

 正直、わけのわからん女だと、思った…

 このリンダも、あのバカ、バニラ同様、わけのわからん女だと、思ったのだ…

 だから、この女も、また、あのバカ、バニラ同様ダメだと、思った…

 あのバカ、バニラ同様、救いようのない女だと、思った…

 所詮は、見せかけだけの女…

 中身のない、見せかけだけの女だった…

 所詮、二人とも、ルックスの良さだけを、武器に、これまで、生きてきたに過ぎん女たちだった…

 ルックスが、人並み外れて、いいから、それを、武器に、生きてきたに過ぎん女たちだった…

 それが、この矢田トモコとの違いだった…

 この矢田トモコ、35歳…

 ひとは、ただの童顔で、巨乳が、ウリだけの六頭身の女だと、思うかも、しれん…

 が、

 それは、違う…

 それは、ただの見せかけに過ぎん…

 この矢田の真の価値…

 それは、内側にある…

 内面にある…

 だから、他人は、気付かん…

 気付かんのだ…

 が、

 それに、気付いたのが、葉尊だった…

 だから、葉尊は、私と結婚した…

 が、

 その結婚生活も今、終わる…

 終了する…

 つまりは、これから、矢田トモコの新たな人生が、始まるということだ…

 早速、明日から、新しいバイトを探すとするか?

 私は、いつのまにか、そう、考えていた…

 切り替えの早いのも、私の特技の一つ…

 数多(あまた)ある、私の特技のうちの一つだった…

               
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