第147話

文字数 3,645文字

 明らかに、ファラドの表情が、変わった…

 私は、ビビった…

 文字通り、ビビった…

 なにより、目の前のファラドに、威厳が、戻った…

 アラブの至宝と呼ばれる威厳が、戻ったのだ…

 こ、これは、マズい…

 私は、そのことに、気付くと、再び、一歩退いた…

 なにか、あったら、逃げ出すためだ…

 この矢田トモコ、35歳…

 逃げ出すことには、自信があった…

 自分で言うのも、なんだが、逃げ足だけは、滅法速かった…

 逃げ足が速い=危険を察知する能力が、高いということだ…

 だから、一歩下がった…

 もし、この場で、ファラドの逆鱗に触れれば、どうなるか、わからん…

 この矢田トモコとて、どうなるか、わからんからだ…

 とにかく、一目散に逃げるに、限る…

 そう、判断した…

 だから、さらに、もう一歩下がった…

 すると、だ…

 なにかに、ぶつかった…

 私は、慌てて、ぶつかったものを、振り返って、見た…

 リンダだった…

 リンダ・ヘイワースだった…

 「…なに、お姉さん、どうしたの?…」

 リンダが、聞いた…

 が、

 私は、答えんかった…

 まさか、ここから、逃げ出すとは、言えんからだ…

 すると、どうだ?

 「…お姉さん…まさか、ここから、逃げ出そうとするわけじゃないでしょうね?…」

 と、リンダが、言った…

 言ったのだ…

 まさに、私の心の中を見抜いたのだ…

 が、

 まさか、それを、認めることは、できんかった…

 だから、

 「…そんなことは、ないさ…」

 と、ごまかした…

 「…ただ、ちょっと…」

 「…ちょっと、なに?…」

 「…お腹が痛くなってな…」

 「…お腹が、痛い?…」

 リンダが、言った…

 「…そうさ…」

 「…じゃ、なに? …お姉さん…自分の都合が、悪くなると、お腹が、痛くなるの?…」

 リンダが、言った…

 「…な、なんだと?…」

 リンダの言葉が、私の怒りに火を点けた…

 「…リンダ…オマエ、私の言葉を信じないのか?…」

 「…ええ、信じないわ…」

 「…なんだと?…」

 「…どうして、お姉さんは、自分の都合が、悪くなると、お腹が痛くなったり、足が痛くなったりするの?…」

 「…なんだと? …いつ、私が、足が痛くなった?…」

 「…いつもよ…いつも…」

 「…いつもだと?…」

 …この女…

 …調子に、乗りくさって…

 私は、思った…

 せっかく、この場から、ずらかろうとしたのに、とんでもないヤツだ…

 このリンダなどに、行く手を阻まれて、たまるか!

 私は、思った…

 だから、こんなところで、リンダ相手に、議論など、している暇はない…

 今は、逃げるとき…

 三十六計逃げるに如かず、だ…

 私は、思った…

 が、

 できんかった…

 リンダが、邪魔をしたのではない…

 ふと、気が付くと、ファラドや、マリアたちが、対立するのを、止めて、この矢田を、見ていた…

 なぜか、知らんが、この矢田を見ていたのだ…

 …一体、なんで?…

 私が、悩んでいると、

 「…まったく、矢田さんには、叶いません…」

 と、ファラドが、苦笑した…

 …私には、叶わない?…

 …なんで?…

 …一体、なんで?…

 私が、悩んでいると、

 「…まさに、兄貴の言う通りだ…」

 と、オスマンが、口を挟んだ…

 笑いながら、口を挟んだ…

 「…このお姉さんが、なにかすると、みんなの注目を浴びる…たとえ、自分が、誰かと、ケンカしている最中でも、このお姉さんが、なにか、始めると、気になって、仕方がなくなる…」

 「…なんだと?…」

 私は、口走った…

 つい、口走った…

 「…ホント、得なお姉さんだ…このお姉さんが、なにか、しなければ、もう少しで、兄貴の怒りが、爆発するところだった…」

 オスマンが、言った…

 ホッとする、感じで、言った…

 その言葉通り、オスマンの表情には、安堵の色があった…

 私は、慌てて、ファラドを見た…

 小人症のファラドを見た…

 ファラドの表情には、照れの感じがあった…

 今、弟のオスマンの言った通りなのだろう…

 もう少しで、マリアたち相手に、怒りを爆発させる寸前だったのだろう…

 そう、思った…

 それが、その照れた表情に、現れてる…

 だから、弟のオスマンの言葉が、真実と思った…

 真実と、確信した…

 「…ホント、得なお姉さん…」

 と、リンダが、言った…

 「…お姉さんが、なにかすると、誰もが、お姉さんに注目する…そのおかげで、ケンカすら、止めることができる…もちろん、本人が、意識しようと、意識しまいと、結果は、同じ…」

 「…結果は、同じだと? …どういう意味だ?…」

 「…お姉さんに注目する…お姉さんが、なにをするのか、気になって仕方がない…」

 「…なんだと?…」

 私は、言った…

 言いながら、ファラドを見た…

 小人症のファラドを見たのだ…

 すると、

 「…矢田さんのおかげです…」

 と、ファラドが、私に頭を下げた…

 「…もう少しで、マリアたち相手に、怒りを爆発させるところでした…我ながら、大人げない…」

 ファラドが、赤面した…

 「…この歳になっても、自分を抑えることが、できない…我ながら、恥ずかしい…」

 ファラドが、告白する…

 私は、そんなファラドに、

 「…台北筆頭は、どうするんだ?…」

 と、聞きたかった…

 やはり、買収するつもりか? と、聞きたかった…

 が、
 
 聞けんかった…

 ファラドが、怖かったからだ…

 そんなことを、聞けば、いつ、再び、ファラドの怒りが、爆発するか、わからんかったからだ…

 だから、怖くて、聞けんかった…

 聞けんかったのだ…

 が、

 「…で、オスマン…アンタ、パパの会社を、どうにか、するの?…」

 と、マリアが、この矢田の代わりに聞いた…

 直球で、聞いた…

 このファラドの前には、この矢田を含めて、リンダや、オスマンのような成人=大人が、いるが、誰も、怖くて、ファラドに聞けんかった…

 ファラドを恐れて、聞けんかったからだ…

 それを、このマリアが、聞いた…

 直球で、聞いた…

 やはり、マリアは、子供…

 子供だから、怖いものなし…

 ファラドの真の怖さを、知らんからだった…

 だから、聞けた…

 が、

 やはりというか…

 ファラドは、

 「…」

 と、答えんかった…

 「…」

 と、なにも、言わんかった…

 が、

 それが、再び、マリアの怒りを呼んだ…

 「…どうしたの? …どうして、なにも、言わないの?…」

 マリアが、ファラドを問い詰める…

 が、

 それでも、ファラドは、なにも、答えんかった…

 すると、だ…

 マリアが、

 「…わかった…」

 と、いきなり、言った…

 …わかった?…

 …なにが、わかったんだ?…

 私は、思った…

 「…もう、オスマンとは、金輪際、口を利かない…」

 と、マリアが、断言した…

 「…金輪際、口を利かない?…」

 動揺した、ファラドが、口を開いた…

 「…そうよ…オスマン…アンタとは、金輪際、口を利いてあげない…一生、口を利いて、あげない…」

 「…一生?…」

 ファラドが、驚いた…

 「…当たり前でしょ? …アンタ、私のパパの会社に、なにか、しようとしているんでしょ? …そんな、男と、口なんて、利くわけないでしょ?…」

 マリアが、断言した…

 当たり前といえば、当たり前のことだった…

 自分の父親の会社を、買収しようとする、ファラドは、まさに、敵…

 敵に違いない…

 その敵と、仲良くできるはずが、なかった…

 「…行こう、みんな…」

 いきなり、マリアが、言った…

 「…行くって、どこへ、だ?…」

 私が、マリアに、聞いた…

 「…どこって、保育園に決まってるでしょ?…」

 マリアが、答える…

 「…さあ、行くよ…」

 マリアが、配下の女児たち二十人に指令を下した…

 すると、どうだ?

 一斉に、女児たち二十人が、マリアに従って、保育園の建物に向かって、歩き出した…

 まさに、壮観…

 マリアの指導力を、見る思いだった…

 マリアの統率力を、見る思いだった…

 私は、ブルった…

 ブルったのだ…

 末恐ろしい…

 まさに、マリアの未来が、末恐ろしい…

 一体、マリアは、将来、どうなるんだ?

 台北筆頭のCEОになるのか?

 いや、

 そんな程度では、満足しないかもしれん…

 ひょっとすると、日本の総理…

 いや、

 マリアの国籍は、アメリカかもしれんから、将来は、アメリカの大統領を目指すかも、しれん…

 マリアの母親のバニラは、アメリカ生まれ…

 だから、マリアの国籍も、アメリカもしれん…

 たしか、アメリカは、アメリカで、生まれれば、自動的に、アメリカ国籍を、もらえるからだ…

 だから、十分、その可能性は、ある…

 その可能性は、あるのだ…

 私が、そんなことを、考えながら、呆然と、マリアたちの後ろ姿を見送った…

 見送ったのだ…

 もはや、言葉は、なかった…

 すでに、どうして、いいか、わからんかった…

 ただ、眼前には、一人だけ、ポツリと、ファラドだけ、残された…

 アラブの至宝だけ、残された…

 呆然とした表情で、マリアたちの後ろ姿を見つめる、ファラドだけ、残された…

               
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み