第56話

文字数 6,354文字

 私は、その夜、会社から帰って来た、夫の葉尊に、昼間、あったことを、話した…

 バニラとリンダのことを話したのだ…

 葉尊は、最初、黙って、バニラとリンダのことを、聞いていたが、リンダが、ファラドに会うことを聞いて、

 「…エッ? …リンダが、ファラドと会う?…」

 と、思わず、顔色を変えて、声を上げた…

 「…それは、マズい…」

 「…だろ?…」

 「…ハイ…いくら、なんでも、それは無謀過ぎます…」

 「…葉尊…オマエもそう思うなら、リンダを説得しろ…」

 が、

 私の言葉に、

 「…」

 と、葉尊は、無言だった…

 「…どうした? …なぜ、なにも言わん?…」

 「…無駄です…お姉さん…」

 「…無駄? …なにが、無駄なんだ?…」

 「…ヤンは…リンダは、一度こうと決めたことは、絶対曲げません…」

 「…バカ、そんなことを言っている場合か…」

 私は、怒った…

 「…下手をすれば、サウジに連れて行かれて、二度と戻って来れないかもしれんゾ…」

 私の言葉に、葉尊は、ゆっくりと、考え込みながら、

 「…お姉さん…ヤンは、なにか、言っていませんでしたか?…」

 と、聞いた…

 私は、葉尊の質問に少し考え込んだ…

 「…たしか…手は打ってあると言っていたゾ…」

 「…そうですか…」

 私の言葉に、葉尊は、微笑んだ…

 「…だったら、大丈夫でしょう…」

 短く、答えた…

 「…大丈夫? …どうして、大丈夫なんだ?…」

 「…リンダは、用心深い…普段、ヤンという男の格好をしていることもそうですが、少しでも、身バレしないように、用心しています…そのヤンが、大丈夫というのだから、心配する必要は、ありません…」

 葉尊が、断言した…

 私は、葉尊の言葉を聞きながら、別のことを、考えた…

 葉尊が今、

 「…ヤンという男の格好をしていることもそうですが、少しでも、身バレしないように、用心しています…」

 という言葉だ…

 この言葉をまともに受け取れば、リンダがヤンという男の格好をしているのは、あくまで、身バレされないため…

 だとすれば、リンダは、性同一障害でも、なんでもない…

 これは、一体、どういうことだ?

 それは、真実なのか?

 それとも、これは、葉尊が、ただ感じていることなのだろうか?

 わからない…

 私は、思った…

 「…お姉さん…ヤンを信じましょう…」

 葉尊は、言った…

 「…リンダを信じましょう…」

 葉尊は、屈託なく笑った…

 私は、その笑いを見て、考えた…

 リンダ=ヤンの打った手を考えたのだ…

 そして、それは、もしかしたら、メッセージかもしれないと、思った…

 メッセージ=伝言かもしれないと、気付いた…

 リンダ・ヘイワースのファンは、世界中にいる…

 存在する…

 そして、それは、セレブの中にも、いる…

 代表的なのは、イギリスのウィリアム王子だ…

 王子は、リンダ・ヘイワースの大ファンだと、公言している…

 おそらく、リンダは、自分が、サウジに、連れて行かれ、ファラドに幽閉されでもしたら、世界中のリンダ・ヘイワースのファンを動かして、世論を動かそうと、考えているのかもしれない…

 私は、思った…

 そして、それは、賢明な手段では、あるが、必ずしも、有効な手段になるかは、わからない…

 ペンは、剣よりも、強し…

 現に、この言葉は、昨今、誰も使わなくなった…

 ペンは、剣よりも、強し…

 この言葉が、通用するのは、平時のみ…

 平和なときのみ…

 戦時下では、まったく通用しない…

 例え、世界中に訴え、世の中のひとが、知ることになっても、剣を使う人間を、抑えることはできない…

 剣を捨てよと、言っても、相手が捨てないからだ…

 戦争を止めろといっても、止めないからだ…

 それと、同じで、もし、リンダの打った手というのが、世界中のリンダ・ヘイワースのファンが、サウジから、リンダ・ヘイワースを解放せよ、と、声を上げることだとしたら、そのもくろみは、必ずしも、成功するとは、思えない…

 戦争を止めろと、言っても、止めないのと、同じで、いくら、リンダ・ヘイワースを解放しろと言っても、解放しない可能性があるからだ…

 世論を動かすのは、いい…

 だが、いくら、世論を動かしても、現実に、リンダを手に入れたファラドが、リンダを解放しなければ、なんの役にも立たない…

 そういうことだ…

 そして、時が経てば、いずれ、世論は下火になる…

 つまりは、リンダをサウジから解放せよという声が、下火になる…

 そういうことだ…

 それを、リンダは、わかっているのだろうか?

 私は、思った…

 が、

 それは、口にしなかった…

 私が、思ったのは、あくまで、可能性…

 可能性に他ならないからだ…

 必ずしも、リンダが、私が、思った手を使うとは、限らない…

 なにか、別の手を使うかもしれない…

 なにより、私が、リンダを説得しようとしても、無駄…

 無駄だ…

 なぜなら、リンダが、この矢田トモコを対等に見ていないからだ…

 当たり前だ…

 たまたま、庶民が、葉尊と結婚しただけ…

 そう見ているに、決まっている…

 だから、私が、なにを言おうと、聞かないに決まっている…

 それを、考えれば、むしろ、バニラの方が、私の言うことを聞く…

 なぜなら、バニラの娘のマリアは、私になついている…

 マリアは、私が好き…

 私の機嫌を損ねれば、私が、マリアと遊んでやらないからだ…

 いわば、私は、マリアを人質に取ったも、同然…

 だから、バニラは、私の言うことを聞く…

 そういうことだ…

 私が、そんなことを、考えていると、

 「…お姉さん…」

 と、葉尊が、言った…

 「…なんだ?…」

 「…リンダを守って下さい…」

 葉尊が、私に頭を下げた…

 「…守る? …私が?…」

 私は、驚いた…

 驚いたのだ…

 私が、リンダを守ることなんて、できないし、なにより、夫の葉尊が、私に頭を下げたのは、これが、初めてだったからだ…

 だから、

 「…葉尊…オマエ…正気か?…」

 と、葉尊に言った…

 「…正気って、どういう意味ですか?…」

 「…私が、リンダを守れるはずもあるまい…真逆に、私が、リンダに守ってもらうんだ…リンダは、175㎝、私は、159㎝…どうやって、小柄な私が、大柄なリンダを守るんだ?…」

 「…お姉さん…ボクが、リンダを守ってくれと言ったのは、そういう意味ではありません…」

 「…じゃ、どういう意味だ?…」

 「…お姉さんの力で、守ってもらいたいんです…」

 「…力? …そんな力、私にあるはずもない…今も言ったように、私は、159㎝…リンダは、175㎝…私が、リンダを守れるはずも、あるまい…」

 「…ボクが言いたいのは、腕力ではありません…」

 「…腕力じゃない?…じゃ、なんだ?…」

 「…お姉さんの魅力です…」

 「…私の魅力? …そんなもの、あるはずもあるまい?…」

 「…いえ、あります…」

 「…ある? …どんな?…」

 「…お姉さんには、ひとに好かれる不思議な魅力があります…お姉さんを嫌いな人間は、おそらくいません…」

 「…」

 「…なにより、お姉さんと接すると、誰もが、楽しくなります…」

 「…私と接していると、楽しく? ウソォ?…」

 「…ウソではありません…現実に、ボクの父の葉敬も、お姉さんを大層、気に入っています…葉敬は、息子のボクが言うのもなんですが、ひとを見る目があります…なんといっても、台湾の大企業、台北筆頭を一代で、築き上げた男です…さまざまな人間を見てきています…その父が、です…」

 「…」

 「…だから、父は、ボクがお姉さんと結婚することを、許しました…お姉さんは、自分では、意識していないかもしれませんが、他人から、好かれるのです…だから、お姉さんの嫌がることを、誰もしないでしょ?…お姉さんに、リンダを守ってもらいたいと言ったのは、お姉さんが、リンダを守ろうとすれば、それは、当然、行動に現れます…すると、どうです? 誰もが、お姉さんの嫌がることを、止めようとする…ボクは、それを期待しているんです…」

 「…」

 「…嫌われる人間は、どこに行っても、嫌われます…学校でも、職場でも、それは、変わりません…要するに、集団の中にいれば、常に嫌われます…お姉さんは、それとは、真逆です…」

 葉尊が語った…

 熱く語った…

 私は葉尊が、こんなふうに、熱く、私について、語ったことを見たことがなかったから、驚いた…

 驚いたのだ…

 しかし、

 しかし、だ…

 葉尊の言うことは、わかるのだが、果たして、本当に、そんな力が、私にあるのだろうか?

 甚だ疑問だった(涙)…

 実は、同じことは、以前も言われたことがある…

 他でもない、たった今、守ってあげてくれと、言われたリンダに言われたことがある…

 リンダ=ヤンに言われたことがある…

 ひとの考えていることは、ほとんど同じ…

 同じだ…

 今、夫の葉尊が言った通り、嫌われる人間は、どこに行っても、嫌われる…

 いっしょに、いるのは、似たような、嫌われ者ばかり…

 はっきり言って、性格に難のある者たちだけだ…

 男でも女でもそれがわかるのは、究極は、結婚だ…

 学校や職場で、表面上は、うまく付き合っているが、本当は、嫌悪している…

 嫌っている…

 そんな人間は、どこの学校や、職場にも、いる…

 ありふれている…

 そして、そんな人間が、結婚する相手は、必ず同じ学校のクラスや、同じ職場の人間ではない…

 なぜなら、同じ職場や、同じ学校のクラスの人間は、その人間の性格を見知っている…

 熟知している…

 だから、どんなに、美男美女でも、決して、結婚しようとは、思わない…

 なぜなら、結婚は、究極のプライベート…

 職場や学校は、変わることがあるが、結婚相手は、変えられないからだ…

 あるいは、職場や学校は、移動があるから、それまで、我慢すればいいと、考える…

 が、

 究極のプライベートである結婚は、そうはいかないからだ…

 それよりなにより、プライベートで、嫌なヤツと接したいとは、誰もが、思わないに違いない(笑)…

 当たり前のことだ(笑)…

 だから、結婚相手は、見知らぬ相手となる…

 同じクラスや、同じ職場の人間では、決してない…

 当たり前のことだ(笑)…

 そして、付け加えるならば、そうして、結婚した男女の大半は、数年以内に離婚する…

 なぜなら、互いに、結婚して、相手の本性を知ることになる…

 とてもじゃないが、こんな相手と結婚生活は、続けられないと、相手が悟るからだ…

 これは、子供がいる、いないは、関係ない…

 むしろ、子供がいなければ、余計に早く離婚する…

 当たり前のことだ(笑)…

 私は、思った…

 
 その翌日、リンダから、電話があった…

 リンダ=ヤンから、電話があった…

 「…私が、マリアの通う、保育園に、お姉さんと、いっしょに行くことは、マリアもバニラもOKしてくれました…」

 「…そうか…それは、よかったさ…」

 私は、言った…

 と、同時に、これは、想定内というか…

 当たり前のことだった…

 バニラが、リンダが、私といっしょに、マリアの通う保育園に行くことを、嫌がるはずもないからだ…

 「…お姉さん…」

 「…なんだ?…」

 「…いっしょに、行きましょう…」

 「…いっしょに?…」

 「…ハイ…私とマリアと、お姉さんと、3人いっしょで、クルマで、保育園に行きましょう…」

 「…わかったさ…」

 私は、言った…

 が、

 私は、その言葉を、軽く言い過ぎた…

 それが、いけなかった…

 後日というか、当日、私の住むマンションの前にやって来たのは、ピンクのメルセデスベンツだった…
 
 私は、驚いた…

 仰天した…

 …なんで、ピンクなんだ?…

 正直、わけがわからんかった…

 私は、後部座席のドアを開けた、ヤン=リンダに、

 「…どうして、ピンクなんだ?…」

 と、聞いた…

 聞かずには、いられなかった…

 「…これは、葉敬の指示…」

 「…お義父さんの?…」

 「…そう…マリアの通う保育園は、セレブの通う保育園でしょ? …これぐらい派手にしないと、目立たないからって…」

 …そうか…

 と、いつもは、言うところだが、さすがに言えんかった…

 正直、パレードをするわけでもないのに、こんなクルマには、乗りたくなかった…

 …私だけ、後から歩いてゆくさ…

 と、言いたいところだった…

 …こんなクルマに乗っていては、目立って仕方がないさ…

 私は、平凡な女だ…

 平凡が、似合う女だ…

 目立つことは、大嫌いな女だ…

 と、心の中で、叫んだ…

 声を大にして、叫んだ…

 が、

 言えんかった…

 なにも、言えんかった(涙)…

 なぜなら、ここで、葉敬の名前が出たからだ…

 お義父さんの名前が出たからだ…

 私には、苦手なものが、たくさんある…

 挙げれば、きりがないほど、たくさんある…

 この前は、犬を挙げた…

 それ以外にも、たくさんあるのだ…

 が、

 葉敬は、苦手ではなく、恩人だった…

 だから、苦手ではないが、頭が上がらんかった…

 この平凡極まりない矢田トモコを、息子の葉尊との、結婚を許してくれた恩人だったからだ…

 普通は、許すはずもない…

 台湾の大富豪が、日本の平凡な庶民の娘との結婚を許すはずもなかった…

 それを快く許してくれたから、私は、葉尊と結婚できた…

 それを考えれば、葉敬が、なになにをしたいと言われれば、受け入れるしかなかった…

 逆らうことなど、できんかった…

 なにをしようと、黙って受け入れるしか、なかったのだ…

 私は、心の中で、涙を流しながら、ピンクのベンツに乗り込んだ…

 …まさか、誰も見ては、いないだろうな?…

 キョロキョロと、周囲を警戒しながら、ピンクのベンツに乗り込んだ…

 まさか、たかだか、クルマに乗るだけで、これほど、緊張したこともなかった…

 なかったのだ…

 35年生きてきて、一度もなかったのだ…

 私は、まるで、犯罪者のように、怯えながら、ピンクのベンツに乗り込んだ…

 そして、開口一番、

 「…早く、発車しろ…ひとに見られる…」

 と、言った…

 警告したのだ…

 すると、車内のマリアが、

 「…どうしたの? …矢田ちゃん…」

 と、聞いた…

 「…どうしたも、こうしたもあるか? こんなところ、ひとに見られてみろ…なにを言われるか、わからんさ…」

 「…なにを言われるって?…」

 「…こんなピンクのベンツが、どこにある? こんなクルマに乗っている人間が、どんな人間か、誰もが、気になるものさ…」

 「…でも、矢田ちゃん…こんなピンクのクルマに乗ってなくても、いつも目立っているよ…」

 「…なんだと?…」

 「…この前も、保育園に矢田ちゃんが、やって来たとき、友達から、あの面白いひと、誰って、みんなに聞かれたもの…」

 「…面白いひと?…」

 「…うん…矢田ちゃんって、すごく面白いから、いるだけで、目立つんだよね…」

 「…目立つ?…」

 私は、文字通り、絶句した…

 言葉もなかった…

 しばらく、頭の中が、空っぽになった…

 それほどの衝撃だった…

 すると、

 「…プッ!…」

 と、誰かが、吹き出す声が聞こえた…

 私は、その声の主を見た…

 同乗するヤン=リンダだった…

 「…マリアの勝ちね…」

 と、ヤンが、笑いながら、言った…

 ヤン=リンダが、笑いながら、言った…

 「…マリアの勝ちだと?…」

 「…マリアは、お姉さんのことが、わかっている…お姉さんの価値がわかっている…」

 「…私の価値?…」

 「…お姉さんは、目立つ…」

 「…私は、目立つ?…」

 「…そう…どんなときも、どこにいても…」

 ヤンが、至極真面目な顔で、意味深に言った…

 私は、もしや、それが、今日、私をマリアの通う保育園に招いた理由かもしれないと、漠然と、思った…

 思ったのだ…

               
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